百九十四話 新しい戸籍を作ろう の 参
兆(ちょう)博柚(はくゆう)佳妃殿下は、私と彼女たちの因縁が始まった、およそ一年前の事件について話し始めた。
「私が楠(なん)佳人を貶めるために仕掛けたおおよそのことを、麗と翠(すい)貴妃はあっと言う間に見破ってしまいました。それだけではなく私に恥をかかせないようにと『偽の真相』まで用意してくれましたね。正直に申し上げますと、あのときはせの気遣いにむしろ腹が立って何日も眠れぬ夜を過ごしたものです」
鈍く光る博佳人の視線をいなし、翠さまが頬杖をつきながら簡単に言い返す。
「逆恨みも良いところよ。タワケなことを始めたのはそもそもあんたでしょ」
そう言われたことがむしろ安心なのか、ふふっと微かに笑って博佳人は続けた。
「まさにその通り。少しばかり頭が冷えた頃、私は事の次第を細かく振り返りました。なにがいけなかったのか、どうして上手く行かなかったのか。もし次になにか仕掛けようと思ったとき、どうすれば鮮やかに運ぶだろうかと」
ありゃ、なんか雲行きが怪しくなってきたぞ。
翠さまと私の共同対処で凹まされた博佳人は、そのまま泣き寝入りしているように見せかけて、楠佳人や私たちにリベンジしようとしてたのか?
私が考えながら黙っていると、ちょっと意地悪そうな可愛い小悪魔視線で博佳人がこっちを見て、後を続けた。
「虚仮にされたように感じたのが悔しかったのですね。私はまず物品庫の様子を、麗と翠貴妃が鮮やかに見抜いた状況を、徹底的に自分でも調べ直しました。窓から入る風、硫黄と鉄粉、太陽の光と銀盆……」
偽の密室毒ガス事故死を私がでっち上げた、その詳細である。
私は他意なく純粋に驚いて、聞いた。
「ご自分がやり込められた状況を、わざわざご自分で再び見つめ直したんですか」
「そうよ。これでも武家の娘。負けっぱなしではおさまりがつかないもの。なにより麗はまだあのとき、後宮に来たばかり。どこのなにものとも知れぬ、田舎ものの小娘としか思っていなかったのだから」
愉快さを隠さない表情で言った博佳人は、妖艶さすら漂わせていて、美しかった。
ディスられていても全然、不愉快じゃない。
一方で翠さまは責めるようにちょっときつい眼で言う。
「そんなことばかり考えてたからみんなの前に姿をしばらく見せなかったのね。あたしに会ったら心の底を見透かされると思ってたんでしょ」
「ふふ、それはご想像にお任せいたします。ともあれ、話の続きですが」
お茶を一口飲んで喉の通りを良くし、しみじみと博佳人は語る。
「自分の目で、手で、頭で調べて考えて、あるとき、私は気付いたのです。翠貴妃の聡明さと決断の速さ。そして麗の知の広さと深さに。あの方はどうしてこんなにも早く違和感に気付くのだろう。あの娘はどうしてこんなことまで知っているのだろう、と」
まるで大事な思い出のように話す博佳人。
深く息を吸って吐いて、すでに悔しさなど彼方に置いて来たような爽やかな表情で記憶を手繰り、言葉に乗せる。
「そのときはじめて、私は自身の愚かさと、お二人の本当のお力に気付きました。無知で思慮の足りない女が、半ばやけっぱちでことを起こしてもこの二人には到底敵わないのだと思い知らされたのです」
「遅きに失したと言いたいけれどもまあまあ殊勝な心がけね。あんたは朱蜂宮(しゅほうきゅう)に来て日が浅かったからあの頃はまだあたしのことをよく知らなかったのでしょうし」
他人から褒められることに慣れている翠さまは、博佳人の称賛をそよ風のように涼しく受け流している。
私?
こんな風に言われてしまって、恥ずかしくてちょっと顔が熱くなってきちゃったわよ、あわわ。
私ごとき、そこまで大したもんじゃありませんや。
小さくなっている私に微笑みかける博佳人。
彼女の話しぶりは、本当に楽しいことを、楽しみを分かち合う同志に語りかけるかのように親しげだ。
「私、それから久方ぶりに本を読み始めました。あなたたち二人をあっと言わせたいがために。どんな形であっても、軽く見られたままで終わらせてたまるものですかと思って、興味の向くままにいろいろな本を。戦の本や謀略の本、失敗者と成功者の歴史の本、人を驚かせるためのいたずらの本なんかも、部屋のものに言って用意させたものです」
「あんたがそんなに執念深いだなんて知らなかったわ。どうせならもっと他のことにその情熱を傾けなさいな」
呆れたように言った翠さま。
けれど、彼女がそこまで叡智を研ぎ澄ましながらも、私と翠さまに復讐? のようなものを仕掛けて来たことはなかったと、私は記憶している。
「そうして私が暗い報復の喜びを抱えてあれこれ考えていた矢先です。戌(じゅつ)の賊徒が朱蜂宮に来たのは……」
「ああ、そういうことですか」
本当に覇聖鳳(はせお)のバカだきゃぁ、間が悪いことにかけては天下無双乱舞だなマジで。
ちなみに覇聖鳳の襲撃は翠さまにとって弁慶の泣きどころである。
あまり蒸し返してほしくないいろいろが山と積まれているので、私たちと目を合さずに口をとがらせていた。
ほっつき歩いて遊んでいたら、いつの間にか人質に取られちゃってたわけだからね。
司午翠蝶、一生の不覚! な案件である。
わずかに瞳を潤ませて、博佳人は私たちにとっての、非常に大きなあの日のことを語る。
「翠貴妃の姿に化けて大声で叫び、宮妃や宦官を叱咤激励している麗を見て、私は思いました。ああ、到底、敵わない。私などが多少の知恵をいまさらつけたところで、まったく勝てる気はしないと。だからこそあの日から、私は麗に『我が家に来て欲しい。私も麗とともに学びたい』と、心から思うようになったのです……」
動機はどうであれ、もともと向学心の強い方だったのかもしれないな、博佳人は。
そしてなにより、である。
「やっぱり博佳人は、私の変装に気付いてたんですね」
「ええ、私の他にも何人か、気付いていた妃はいました。けれど今はそれを声高に暴いて良いときではないと、私たちはお互いに示し合せたのですよ」
やっぱりあれだけ大声でしゃべってたら、バレるよな。
けれどあの混乱のさなか、様々な人の、様々な想いがあったのだなと改めて考え、私もしんみりしてしまう。
本当の意味で、みんなの力で成し遂げた勝利だったんだよ。
藪蛇をつつくのを嫌がる翠さまが黙っている中、私は博佳人の想いに感謝で頭を下げて、こう言った。
「誰に評価されたくて頑張っていたわけじゃありませんけど、あのときに見ていてくれた人がそう思ってくれたのは、本当に嬉しいです。報われた気になります」
「ふふ、感謝するのはまだ早いのではなくて? 私はあなたに対して『勝てないなら味方に引き入れてしまおう。私と麗が組めば、翠貴妃にだって一泡吹かせられるかもしれない』と考えているのかもしれないわよ」
その発言を聞いて、翠さまが苦虫を噛んだような顔をした。
あは、早速軽くだけど泡を吹かせられたじゃん、楽しいね。
「なによその目は」
「いえなんでも」
ニマニマしながら翠さまを見てたら睨まれちゃった、テヘぺろ。
なるほど、博佳人はこういう女性だったんだな。
倉庫の事件で感じた第一印象の通り、意地悪で毒っけがあるのは確かだし、意地の張りどころや負けず嫌いな点が良い方向にも悪い方向にも出るのだろう。
その上で私は、博佳人とお付き合いを深めるならどうしたって避けては通れない問題について尋ねる。
「それで、博佳妃殿下はそのう、楠佳人と仲直りはされたのでしょうか?」
後宮とまだ縁が切れない私にとっては、そこ大事なのよね。
両者がいがみ合っているまま間に立たされると、私が大変なので。
けれど私の質問に、軽く驚いたように翠さまが先に答えた。
「江雪(こうせつ)ならもういないわよ。実家に帰っちゃったもの。あんた知らなかったのね」
「え、まさかの三行半ですか」
後宮から妃が出て行くなど、よほどのことである。
翠さまの表情からするに、死んだからお骨になってご実家に、というような話ではなさそうだけれど。
ムスッと口をへの字に曲げて、博佳人が教えてくれた。
「心の病を理由に出て行ったけれど、単にここの暮らしに飽きたんでしょう。あの人、もともとなにに対しても興味がなかったんじゃないかしら」
「いつも泰然としていて、こだわりのない方に見えましたけどねえ」
博佳人から自分が貶められようとしていても、楠佳人は特に騒がず、焦らず、のほほんとしていたのを覚えている。
物事に動じない人なんだなあ、という私の感想とは、博佳人は別の視点を持っているらしい。
「なにに対しても積極的じゃないし、後宮が襲われたあのときだって、どうでも良さそうな涼しい顔をしてたわ。みんな大変な思いをしていたってのに。きっと主上にも、お国にも、朱蜂宮にも尽くす気持ちなんてなかったのよ」
「あんたなんだかんだよく見てるじゃない。あたしなんかは『ぼーっとした子なのね』くらいにしか思ってなかったけど」
翠さまに突っ込まれて、今度は博佳人が苦い顔になった。
でも嫌いな相手だからこそよく見て詳しくなっちゃうっての、実際あると思います。
にわかファンよりアンチの方が解像度が高い、みたいな現象だな。
ちなみに私のお母さんは埼玉を本拠地とする、獅子の名を冠した野球チームが好き。
逆に福岡の、鷹を意味する名の野球チームが大嫌いなのだけれど、なぜかその嫌いなはずのチームの成績や選手動向に凄く詳しいのだ。
一周回ってもう恋では?
拗らせ感情美味しいです、ごちそうさまでした。
「ともあれ、麗の処遇は西方から帰ったのちに、詳しいことを司午家と兆家で話すということに」
「それでいいわよ。世話をかけさせたわね」
私が明後日の方向で妄想していると、偉い二人の間で私をどう扱うか、勝手に決まっていた。
「重ね重ね、本当にありがとうございました、博柚殿下。このご恩は一生忘れません」
頭を下げる私に、苦笑いして博佳人は言った。
「あなたの口から『忘れない』なんて聞かされると、なんだか恐ろしいことのように感じてしまうから不思議ね」
「その予感はきっと正しいわよ」
私をよく知るご主人、翠さままで同意していた。
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