二百五話 或る女学生の一日
朝、目を覚ましたときの気分は、なんとも言い難い。
もっとぐっすりたっぷりゆっくりと眠っていたいという本能的に正直な気持ちと、さあ今日はどんな面白いことに出会えるだろうという前向きな気持ちと。
あるいは、せめて今日は平穏に、誰も諍いなく笑顔で過ごせますようにと祈る気持ち。
朝はカオスだ。
いや、そう感じて思っている私の心がカオスなのだろう。
「翔霏(しょうひ)」
二段ベッドの上に私は小さく声をかける。
ルームメイトでありソウルメイトの翔霏は、おそらくもう起きていてベッドの上でモソモソ着替えている雰囲気だ。
私もお布団をよいしょと畳んで重ねて、朝の支度に取り掛かる。
「おはよう、麗央那」
すでに着替えを終えた翔霏が、するりと上のベッドから降りて来た。
ベッドが軋む音も、地面に足を下ろす音もまったく聞こえない。
朝から凛としている翔霏が実に羨ましいけれど、いちいち言わないだけで彼女は今、普段にはない体の不調を抱えているはずなのだ。
言うまでもなく、青牙部(せいがぶ)の若者を殺し過ぎた果ての呪いに依って。
起きたばかりは目もかすんで足元もヘロヘロな私より、呪いに苦しんでいる翔霏の方がシャッキリしているというのが、実に情けない。
「今日は朝ごはんの準備当番だっけ」
頭が働き始めた私は、一日のスケジュールを少しずつ把握し始める。
女子寮大食堂の厨房で、同じく苦楽をともにする寮生たちの食事を準備しなくてはならない。
もっとも私たち新入りは料理の盛り付けをしたり、食堂へ入って来た人を整理誘導したりと言ういわばホール係であり、厨房で腕を振るって料理を作るのはもっとベテランの先輩たちだ。
食堂への廊下は片側が外に向いて窓の開いている半トンネル、要するに覆道(ふくどう)になっていて、東からバッチリ日の光が入る。
ここを歩けば否応なしに目が覚めるという構造になっているのだろうと私は考えながら、素敵な香りが漂う食堂へ翔霏とともに入って行った。
歳を取って、居場所が変わっても、朝ご飯をしっかり食べたいと思う気持ちは変わらない。
ウム、私は健康だ、大丈夫、と自分に言い聞かせ、一日の開始に勢いを付けた。
「大鉢に煮物をよそって、それぞれの卓に並べてちょうだい。あと小皿と匙も」
女将さんといった風情の恰幅良い先輩からそう申し付けられて、私たちは配膳作業に取り掛かる。
なにが入っているのかわからないごった煮のおかずを中心に据え、蒸かしたイモとか揚げせんべいを食べるのが今朝のメニューらしい。
かまどの上では料理の他にヤギの乳で煮出したお茶がワンワンと蒸気を放っていて、夏も終わるというのに厨房の周囲は灼熱地獄だ。
「サルの肉は入っていないだろうな」
おかずを各テーブルに配しながら、翔霏が心配した。
「カモシカだって言ってたよ」
「そうか、鹿の仲間か」
彼女は両親ともに八畜八氏の申(さる)の末裔なので、サル肉を食べるのは禁忌なのだ。
神台邑(じんだいむら)にいたときから、山のサルが降りてきて人の食べものを盗んだりしたとしても、翔霏は決してそいつらを折檻したりしなかった。
せいぜい大声で脅して追い払うのみである。
ちなみにカモシカはどちらかと言うと鹿よりはヤギに近い動物だけれど、この際どうでもいいので指摘しない。
神台邑のオス巨ヤギは元気にしているだろうか、と思いながら私は朝食の準備に右へ左へと歩き回った。
「うひゃあお腹ぺこぺこりんだ。いただきまーす」
朝食前のひと仕事を終えて、夢中で食材を頬張る。
各自、用意ができたら勝手に食べて構わないシステムだけれど、いただきますを言うのは体に染み付いちゃってる習慣だな。
「前から思っていたが、その挨拶は誰に対して言ってるんだ?」
ちょうど、その点について翔霏に突っ込まれた。
昂国(こうこく)に食事前の声掛けの文化がないわけではない。
けれど、それはもっぱら作ってくれた人、ご馳走してくれた人に対して「ありがたく食べさせてもらいます」という感謝の意を伝える行為である。
それらの人に聞こえない場面で、独り言のように「いただきます」と口に出すのは私くらいしかいないので、翔霏はその光景に疑問を抱いていたのだろう。
「うーん、神さまかな? 今日も美味しい食事にありつけた運命に感謝します、みたいな。あとは食材になってくれたすべての生きものに対してとか」
「麗央那の地元の儀礼か。神はともかくとして、確かに死んでメシになってくれた動物や野菜のおかげで私たちは生きているからな」
犠牲となった命に敬意を払う精神性は、翔霏や軽螢(けいけい)、翠(すい)さまにもある。
だからこそ、良い生きものを食べて良い人間になろうと心がける習慣が成立するし、悪いものの代表である怪魔の肉なんかは絶対に食べない。
一方で昂国の外には、怪魔を食べる人たちもいるという話だ。
彼らは食材となった怪魔の命に、邪悪であると認めつつも感謝するのだろうか。
その話を詳しく聞いてみようと思っても、怪魔を平気で食べていそうな男は私がこの手で殺してしまったので、聞く機会はないのだった。
「午後からジュミン先生の講義があるようです。今日は骨と内臓と筋肉のお話を聞かせてくれるそうで」
食事を終えたタイミングで、江雪(こうせつ)さんが教えてくれた。
心なしかウキウキしているように見えるのは、彼女が学びたいことに合致しているからだろう。
もちろん私も医学生理学的な分野には強い興味があるので、講義が楽しみな気持ちは同じだ。
「ならそれまでの間、屋上でアホどもを冷やかすか」
「江雪さんも一緒にどうですか?」
屋上へ飛行同好会男子の様子を伺いに行くのに、江雪さんも誘ってみる。
「そんな高いところから飛ぼうだなんて、怖くないのでしょうか」
至極素朴な感想を呟きながらも、江雪さんは私たちと一緒に屋上へ行くことにしてくれた。
やつらがいるかどうか特に確かめてなかったけれど、他にやることがないのか、案の定、いた。
「今日は、風がせからしかとね」
「ばってんこの風、少し哭いちょるがごたるな」
ひゅうと鳴る風を浴びつつ、なにやら詩的なことを言っている。
強風の影響もあってか、飛び降りを実行しようとする人は誰もいない。
相変わらず崖の下、地面を見ながら五人の男たちはああだこうだと議論を重ねていた。
ぼんやり、おっとりした顔でその様子を見つめていた江雪さんが、なんの気なしに言った。
「もう少し低いところから、試してみてはいけないのでしょうか」
その言葉に、飛行サークルのリーダーらしき年長の男が答える。
「三層の窓から、布ば広げて飛んだことはあるったい」
「ああ、落下傘みたいなものはすでに実験済みですか」
半ば予想はしていたけれど、私は感心する。
彼らも無鉄砲に大空へチャレンジしているわけではなく、ちゃんと段階を踏んで冷静にデータを集めて、現実的に夢を叶えようとしているのだ。
けれど、その実験と成果には不満があるのか、他の男たちが渋い顔で続けて言った。
「あれは、落ちる勢いを殺しちょうだけばい。飛んじょるとは言えんとよ」
「ゆっくりじゃろうがあっちゅう間じゃろうが、結局は落ちよるけんね」
ムスッとした顔で、坊主頭の山泰(さんたい)くんも短く漏らす。
「落ちるしかないなら、それは自由じゃない」
空を飛ぶこと。
それは物理的に飛翔滑空したいというだけの問題ではなく、きっと彼らの心のありように関わっているのだ。
この天の下、なによりも自由に生きたいと思うその心根が、彼らを大空へと駆り立てるのだろう。
「後でまた相談に乗るから、早まったことはしないでね」
「お前らの死体を下で片付ける役目などごめんだからな」
私と翔霏が言い残したことに軽く手を振り、彼ら五人は議論の続きに入った。
「同じ夢を持って、同じ空を見ているお仲間があんなにいるなんて、素敵ですね」
後宮で孤独を味わっていたと語る江雪さんの言葉が、私は少し胸に痛かった。
仲間が、愛すべき友がいるのかどうかで言えば、私は間違いなく「持っている」側の人間だ。
ありがたいことだと、常々思っている。
けれど持っていること、あることが当たり前になってしまうと、ない人の視点に立って考えられなくなるかもしれない。
きっと、今まで私が出会い通り過ぎてきた人の中にも、そんな孤独と虚無を抱えていた人がたくさんいるんだろうな。
そんな人たちを知らず知らずのうちに傷つけていやしなかっただろうかと自省すると、自信がないなあ。
「私たちも今日のジュミン先生の講義から、頑張って学びましょう」
とりあえず、それくらいしか言えることがなかった。
こういうとき、口の上手い椿珠(ちんじゅ)さんや、思いやりの深い翠(すい)さまなら、どんな言葉を用意できるのだろうね。
「みなさまごきげんよう。本日はある程度、大きな獣を締めて解体します」
講堂ではなく、小獅宮(しょうしきゅう)の前庭、開けた場所。
風を受けて笑うジュミン先生が、繋がれた一頭のカモシカを連れて来た。
「フゥ、フシャウッ!! フシュッ!!」
鼻息を荒くして、周囲を威嚇している。
今日の朝ごはんになる運命をかろうじて避けられたというのに、午後には解剖実験の被験体になってしまうのか。
きっと解体した後は、夕食の場に並ぶんだろうけれど。
「え……」
「こ、殺すんですの?」
数人の、おそらくはお上品な育ちをしてきたであろうお嬢さんたちが尻込みをしている。
「ええ、殺すことは目的ではありませんが、殺さないと解剖できませんので」
しれっとした顔でジュミン先生は残酷なことを言ってのけた。
大多数の聴講生たちも平然とした顔で、フムフム、ホウホウ、とカモシカに関心を寄せている。
ごめんねえ、科学の発展と、私のお腹のために、あなたの命をいただきます、と合掌。
翔霏が一歩前に出て、ジュミン先生に声をかける。
「手伝おうか?」
「助かります。頭を打って昏倒させていただけますか。心臓を突くのは他の方にやっていただきましょう」
「わかった」
翔霏はジュミン先生に、野球のバットほどのサイズはある、ゴツいヒノキの棒を手渡される。
「ていっ」
ゴォン! と狙いあやまたずに、カモシカの脳天へ見事な一撃を食らわせた。
この手の仕事をさせれば、うちの翔霏は文字通り天下一ですので、他に並ぶものなしですので。
「ビエェ……」
どことなくヤギに似た鳴き声で断末魔を上げ、ぱたんきゅーと力なくカモシカは斃れた。
はらそーぎゃーてぼじそわかー、と心の中でお経を唱える。
人波の後ろの方で「うっ」とか「くぅ……」とか嗚咽が聞こえた。
痛ましく思う気持ちはわかるけれど、あなたたち、こいつのお仲間を朝ごはんで食べたはずでは?
ま、それも人それぞれが持つ世界観で、ものの観方や捉え方だよねえ。
一概に否定してはいけないのだと、少し大人になった私は上から目線で偉そうに思う。
ジュミン先生の命と生物の講釈は続く。
「頭を打って気絶しているだけですので、この獣はまだ生きています。止めを刺すには血液が集中する経絡(けいらく)の一つである、心臓か肝臓を刃物で刺す必要があります。さ、後ろのあなた、やってみてください」
「えっ!?」
唐突に呼ばれた髪の長い女性が、悲鳴にも似た疑問符を発した。
ジュミン先生、わざと怖がってる人を指名したな。
冷静過ぎて、若干のサイコパスみを感じる。
「どうぞ前に出て。貴重な学びの機会です。その様子だと今まで一度もこういった経験はなさそうですね」
「わ、わ、私、ででで、できませ」
「できないことはないのです。私の田舎では子どもだってやっていることです。やろうとするかしないか、今目の前にあるのはそれだけですよ」
鬼や。
涼しい顔をした鬼がおる。
問答好きの百憩(ひゃっけい)さんとは、似ているようでやっぱり少しこの姉さんは違うんだな。
「で、で、でも、こ、こんな」
「あなたも命のなんたるか、生のなんたるかを学ぶために私の講義を聞いているのでしょう。ならば今ここで学ぶべきです。あなたが握っているものが、まさにこの獣の命であり、生なのです。それを学ばずして私の講義を聞いたとは言わせません」
淡々と、しかし有無を言わせぬジュミン先生の言葉に圧されるように、長髪の彼女は震える体で前に出て来た。
見かねて、翔霏が提案する。
「私が手を貸そう。怖いことはない。せめて死にゆくこいつのために祈ってやれ」
翔霏に優しく肩を抱かれ、ここをこの角度で刺すんだ、などと教導を受け。
「う、うう……」
ズムッ。
女性の手に握られた手槍が、カモシカの心臓を見事に貫いた。
首尾よく成し遂げた証拠に、びくんとカモシカの体が軽く跳ねて、傷口からどろりと血が流れ出て来た。
周囲のみんなによく見えるように、ジュミン先生がカモシカの体を支えて仰向けにして、傷口と流血を示し、説明した。
「命をどう定義するか、それは難しい問題です。しかし、私たち人やこのように大きな獣の話に限るなら、命の真実に限りなく近いのは血液でしょう。血を失いすぎると、人も獣も必ず死にます。必ずです。例外はありません。血の流れが健全でないと生きていられない。ということは、命を成立させるいくつかの条件の中で、血は極めて重い存在と言うことができます」
震える手でカモシカに止めを刺した女性も、ジュミン先生の講義を聞いているうちにいつしか泣き止んだ。
「なるほど、血は命で、命は血、面白い教えです」
興味深そうに流れる鮮血を凝視しながら、江雪さんが感心していた。
流石は巳(へび)の氏族の末裔、スプラッタは平気らしい。
その後の解体作業では、みんなが手を加え交代で腹を裂き、皮を剥ぎ、内臓の形や位置を確かめた。
カモシカは鹿やヤギなどの蹄のある、そして反芻する動物の仲間なので、内臓一つ一つに就いても私や翔霏はだいたいわかる。
以下は、翔霏ソムリエによる臓物の味と食感レビューである。
「これは肝臓だ。大きくて食い応えがあるが、茹でたらモソモソして美味くない。これは脾臓、クニュクニュして面白い食感だから好きだ。心臓は歯ごたえがあって、煮込みに入ってると嬉しい。この大きなそら豆みたいなのは腎臓だ。筋をしっかり取らないと臭い。喉の周りの肉、ここもプリプリしていて炒めても揚げても美味い。しかし私が中でも一番好きなのは、内臓を守る幕のように垂れ下がっているここの筋肉で」
「あの、翔霏さん、今回は料理に関する講義ではないのですが」
あまりにも続くので、ジュミン先生からストップがかかった。
長髪の女性も、涙の乾いた瞳で面白そうに笑ったのだった。
以後は内臓の位置、名称と大まかな役割、筋肉の大きさやその運動性など、日が暮れるまで血なまぐさい講義をたっぷりと聞いた。
翔霏が講義終わりに言った。
「心が燃えていると、血液が燃えているような感覚になることがある。そうか、血はまさに命だから、それが命の炎なのか。心と命を繋いでいるのが血液なんだ」
なんだか翔霏らしい言い方で、不思議と印象に残った。
この日の夕食も、当然のようにカモシカ料理だった。
周りのみんなが優先的にハラミやノド肉を回してくれたので、翔霏はとてもご機嫌だった。
しっかり遊び、しっかり学び、しっかり食べてぐっすり眠った、当たり前の幸せな日。
その翌朝、私たちの部屋にジュミン先生が来て、こう告げた。
「小師(しょうし)から、お話があるそうです」
しわくちゃの小っちゃいおじいちゃん師匠から、なにか特別に用があるらしい。
「あ、はい。わかりました。じゃあ行こっか翔霏」
当然のように二人一緒に行くものだと思っていたけれど、ジュミン先生は軽く首を振る。
「申し訳ありませんが、央那さんだけです」
「私は留守番か。なら屋上で身体でも動かすか、たまには知らん講義にでも顔を出してみるか」
こだわりなく翔霏はそう言って、廊下をぶらぶらと歩いて行ったけれど。
「敢えて私だけにって、なんの話でしょう?」
「さあ、大事な話があるので呼んで来てくれとということしか」
曖昧模糊としたジュミン先生の返答に、私は一抹の不安を覚えたまま、小師さまが待つ奥の堂へと向かった。
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