二百六話 あなたが強く美しいから
午前早くの小獅宮(しょうしきゅう)、その外階段を私は降りている。
朝晩はずいぶんと涼しく過ごしやすくなったことに夏の終わりを感じる。
前を歩くジュミン先生に、世間話を振られた。
「翔霏(しょうひ)さんは、翼州(よくしゅう)の盆地の生まれだそうですね」
「はい。神台邑(じんだいむら)というところです。私も一時期、邑でお世話になっていたので、その縁で仲良くなりました」
ふむふむと聞いたジュミン先生は、疑問があるような、感心したような複雑な表情で、こうも言った。
「彼女、動物の体に『詳しい』という次元を超えているように私には思えました。まるで生きている動物の体の内部まで、骨も筋も内臓も血管も、彼女には透けて見えているのではと思うほどに」
昨日、カモシカを解体した講義の中で、翔霏はまさに解剖学の先生と呼んでいいほどの豊かな知見を披露した。
翔霏はカモシカという動物を見るのはあのときがはじめてだったのに、フンフンと軽く眺めただけで体の各パーツを、細かく、解像度高く、みんなへ向けて解説したのだ。
いや、大半は食べて美味しいかどうかの話でしかなかったのだけれど。
でもそれだって、決して理由のないことではなくて。
「翔霏は物心ついたときから、邑の周辺の怪魔を退治したり、野の獣や家畜を屠殺する役目を引き受けていたんです。動物の体の細かい部分まで詳しく視えてるのは、きっとその経験が誰よりも豊富だからではないでしょうか」
人間も含めて。
動物のどこをブッ叩けば死ぬか、苦しむか、動きを制圧できるかという分野にかけて、翔霏以上の達人(マスター)を私は見たことがない。
地道に繰り返された実体験を下地に、勘所が鍛え抜かれたのだろう。
おそらくは翔霏の才能やセンスに並行して、それらが研ぎ澄まされた結果なのだと思う。
そんじょそこらのお肉屋さんよりも、翔霏の方がよっぽど上手に器用に、小刀一つで大小の動物を捌くことができるんだよ。
「なるほど。本人の資質と住んでいた環境と、両者の賜物ですか。ああ、もしあんな子が医の道に進んでくれるのなら、私も安心して引退できるのですが……」
残念そうな苦笑いを浮かべ、ジュミン先生が嘆息した。
確かに人や獣の体の細部までを、鋭敏な感覚で捉え切っている翔霏ならば、良いツボ押しの師匠や外科医なんかになれるだろうなと思う。
人間のお医者にならなくても、獣医さんとかだって重要な仕事だからね。
「唯一最大の問題は、おそらく翔霏に医学への関心が薄いことですかねえ。薬とか絶対に飲みたがらないし」
私の発言にジュミン先生が肩を落とす。
翔霏は風邪を引くことも大怪我をすることもないから、薬の力に頼る機会がない。
そしてなにより個人的な偏見、先入観の問題でどうにもお医者が嫌いなのである。
まあ私も歯医者さんに行くのがあまりにも嫌で、絶叫しながらおトイレの中に籠城してお母さんを呆れさせた経験があるけどさ。
翔霏の医者嫌いを見ていると、そんな幼き日の自分を思い出して、なんだか可愛く面白い。
小師さまの待つ大堂の前に来たとき、ジュミン先生が優しく微笑んで言った。
「あなたたちにもっと長くここで学んでほしいと思っていますけど、きっとお国の方に大事な、為すべきことがあるのでしょうね」
「申し訳ありません。でもここで過ごしている間は、一生懸命しっかりと、悔いのないように勉強したいと思っています」
私の答えに満足したように頷き、ジュミン先生はその場を後にした。
奥へと足を進め、私はお堂に入り小師さまに面会する。
相変わらず、壇の上にあって小さな体でお座りになり、機嫌良さげに笑っておられた。
「どうじゃいな、ここん暮らしぶりはよぉ」
「はい。おかげさまで不自由なく、楽しく学ばせていただいています」
にかあ、と歯の半分抜けた口を大きく広げ、眼を細める小師さま。
「ジュミンの講釈が楽しいんか。よう顔を出しちょるっちゅう話じゃども」
「そうですね。動物とかが元々好きですし、命というものがなんなのか、改めてゆっくり考えられるのは貴重な機会だと思っています」
命を尽くし、命を奪い。
脇目も振らず駆け足で奔(はし)って来た私たちだからこそ、今ここに留まってゆっくり考える時間を与えられたことは、まさに運命だと思う。
命を考えられないものに、命を使う資格はないと思うからだ。
私の言葉を面白そうに聞いていた小師さまだけれど、少し、寂しそうな表情に移って。
「星荷(せいか)のアホゥは、おんしらの目の前で殺されたそうじゃの」
「は、はい。あっと言う間のことで、どうにもできませんでした」
小師さまは、おそらくかつての弟子であった生臭坊主、赤目部(せきもくぶ)出身の星荷僧人の名前を出した。
彼もここ小獅宮で、学んで暮らした青春時代がきっとあったのだ。
「クセのある男じゃったが、虚空に旅立った今はこだわりなく過ごしちょるじゃろうか。あいつが若造ん時分から面倒を見ちょったワシより早う逝ってまうとは。これも無常の理(ことわり)かの」
軽やかに、常にふわふわしている小師さまには見られなかった、湿った口調だった。
長い時間を一緒に過ごした、大切な人がいなくなってしまうというのは、それだけ重いことなのだ。
翔霏にかけられた呪いの行く末がどうなるのか、まだわからない私にとってもそれは、他人事ではない感覚である。
しょんぼりしている私に向き直り、心なしか背筋を正し視線を上げて、小師さまはおっしゃられた。
「ジュミンから、おめえさんが因果の話に強い興味を持っちょったということを聞いておる。あん後ろ髪の娘、翔霏っちゅう子が『どないして』けったくそ悪い呪いなんぞかけられてもうたか、ワシん考えを聞きたいか」
「は、はい。是非とも教えてください。原因を知ることが、解決の糸口になるのなら、なんだって知りたいです」
どうして、翔霏が呪われたのか。
私や軽螢(けいけい)、椿珠(ちんじゅ)さんではなく、なぜ翔霏なのか。
青牙部(せいがぶ)の、覇聖鳳(はせお)の手下を殺し過ぎたから呪いを受けたというのは「状況」であって、真因と呼べるかどうか、はっきり私にはわからない。
私だって後宮を焼いた際に、毒の煙を撒き散らしてあいつらを大勢、悶絶させたわけだからね。
いちいち気にしてはいなかったけれど、結果として死んだ連中は一人や二人ではなかったはずだ。
けれど状況がどうであれ、翔霏は、翔霏だからこそ、翔霏の生き方を貫いた結果として呪いを被ったのだろうとも思う。
因果の根っことも言えるものは、果たしてなんであるのか。
私はそれを、知らなければならない。
私と翔霏の、幸せな未来のために。
フムンと小師さまは首肯して深い息を吐き。
端的に、わかりやすく。
核心を誤解する余地もない表現で、言ってくれた。
「そん理由は明白で、たった一つよ。あん後ろ髪の嬢ちゃんは『強いからこそ』呪われちょるんよ」
「あ……」
小師さまの一言で。
私は、すべてがわかった。
青牙部の兵士たちを数多く殺しおおせたのも。
覇聖鳳を殺すまで、付きまとって食らいつけたのも。
翔霏が、誰よりも強いからだ。
翔霏が弱かったら私たち神台邑の遺民と青牙部の勢力の争いは、そもそも成立しなかったのだし。
冬の北方、奥宿まで乗り込んで、覇聖鳳と側近たちを殺して回ることだってできなかった。
翔霏という規格外の英雄がいなければ極端な話、邑の仲間を殺された私たちは、泣き寝入りして下を向いて、違う日々を過ごしていた可能性が高いのだ。
私が覇聖鳳を殺して仇を討とうと決意した一年前のあのときも、翔霏のように常識はずれに強い誰かを味方にすることが前提になっていた。
呆然としてへたり込む私に、小師さまは優しく諭す。
「はぁ強い魂っちゅうんはよぉ、甘い蜜、美しい花みとおなもんじゃけ。鬱陶しい虫がようさん寄って来るわなあ。後ろ髪の娘の魂が強すぎるもんでよォ、そういう汚らしい呪いじゃ怨念じゃいうもんが、まとわりついて来るんじゃのぉ。難義なこっちゃわい」
そうなのだ。
翔霏は誰よりも、強くて美しいから。
だから、呪われる運命にあったんだ。
ああ、この段になって私は。
因果を理解してしまった、私は。
翔霏の呪いを解く、たった一つの、冴えてもいないやり方を、思い知ってしまった。
口に出すのも忌々しい、その考えを。
私は引き攣る口で、小師さまが否定してくれるかもという期待を込めて、言葉にする。
「も、もしも翔霏が弱くて、醜くて、つまらない女の子になっちゃえば、呪いは解けるってことですか?」
けれど私の望みは、完璧なまでに小師さまに否定される。
「ほうじゃのぉ。殺された戌(じゅつ)の連中の怨念もよぉ、後ろ髪の嬢ちゃんがチンケな小娘になっちまえば『俺たちがこんなやつに大勢、殺されたはずがない』ちゅうて思い込んでじゃな、散り散りんなっちゅうがじゃろ? 綺麗な花じゃのおて、臭くてつまらん草じゃったら、虫も寄って来んのよ」
「ああ、ああ……」
私はその場に這いつくばり、拳で石の床を叩く。
そして神台邑の郊外、大きな川の近くで翔霏に会った最初の日のことを思い出す。
突然現れた巨大な狼っぽい怪魔から、颯爽と現れて私を助けてくれた、棍棒を振り回す王子さま。
初対面で私の大声を褒めてくれたんだ。
強いだけでなく優しくて素敵な、私にとっての、理想の人。
人によって人生で出会うヒーローはカンフー映画の俳優だったり、メジャーリーグの二刀流打者だったり、ボクシングの八階級制覇王者だったりするのだろうけれど。
私にとってのそれは、間違いなく翔霏だ。
穢されざる偶像が、紺(こん)翔霏という女の子なんだ。
「やだ、やだよぉ、そんなの……」
追憶に覆われた私は、ただひたすら、うずくまって。
神台邑が滅ぼされたときと同等かそれ以上の絶望に、自分勝手な未練の涙を流すしかできないのだった。
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