百九十六話 今、私たちにできること

 今回の旅、実は軽螢(けいけい)たちに敢えて知らせていない。

 心配させてしまうという配慮でもあるし、今は彼らの仕事である阿突羅(あつら)さんの陵墓建設に全力を集中してほしいからという、私たちからの願いでもある。


「知らせたらあいつらのことだ、面白がって絶対に一緒に行くと言い出すからな」


 草の少ない山間に馬を進ませながら、翔霏(しょうひ)が言う。

 翔霏の呪いを解くのが目的だから、さすがに面白がりはしないと思うけれど、前のめりに首を突っ込んで来るだろうことは間違いない。

 無駄にフットワーク軽いからね、軽螢も椿珠(ちんじゅ)さんも。

 

「いつも旅のときに横にいたヤギがいないのは、ちょっと寂しいかな」

「あいつ、今は神台邑(じんだいむら)にいるんだろう? 子どもでも作って家族を増やしているのだろうか」


 なんて、私たちが地元トーク身内トークに花を咲かせていると。


「ねえねえなんの話? ヤギってあの草を食べてメエと鳴くヤギだよね。二人の北方の旅のことを僕ももっと知りたいなあ」


 女子の会話に挟まる、許されざる男が一人。

 若手書官の涼(りょう)獏(ばく)、その人である。


「て言うか女二人の旅に男一人でよくついて来ようと思いましたね。私はその精神力にすっかり驚いてます」


 私が冷たく言っても獏さんはへこたれず、いつも通りの笑顔を堅持して明るく答える。


「仕方ないじゃないか。大勢で押しかければこの国、刹屠(せつと)の人に警戒されるだけだからね。司午家(しごけ)のみなさまはそもそも小獅宮(しょうしきゅう)に招き入れてもらえないし、中書堂の書官たちだって西方には興味ない連中も多いんだよ」


 言っていることはまったく正しいけれど、それが余計に私をピリつかせる。

 そもそもお前、不倫遊び事件の余波で謹慎中だったはずでは?

 中書堂で無給奉仕の小間使いしていても周囲の目が冷たいから、西方に逃げて来たかったんじゃないだろうな、とゲスな勘繰りをしてしまう私であった。

 私たちの通訳を務めることで、司午家からお給金もしっかり貰っているだろうし。

 なんて風にブチブチと暗い思索や独り言に勤しんでいたら、翔霏が馬を停めて言った。


「さっそく仕事だぞ。あの石柱にはなんと書いてあるんだ?」


 行く手の先、分かれ道になっている部分に、ご丁寧に案内の石柱が建てられていた。

 馬を下りた私たちは、書かれている文字を注意深く調べる。

 地図は持ち歩いているけれど、そこまでバッチリ正確で厳密なものでもないから、実地で得られる情報が最も頼りになるのだ。


「えーと、これは旅の注意事項が書かれたものだね。『水を飲み過ぎるな、水筒が空になる。ぐっすり寝過ごすな、獣や怪異が出る』そんな意味の箴言(しんげん)かな」

「道案内じゃないのかあ」


 土地の詳しい情報が得られなかったのは残念。

 地図を見ながら、翔霏が自分なりの感想を述べる。


「西側から見れば、ここを過ぎればもう昂国(こうこく)が目の前だ。旅は最後の最後こそ気を抜くなという訓戒だろう」


 なるほどなー、と感心しつつ。

 私は石柱に書かれている文字、文章を、どれだけわかるのか、どれくらいわからないのか、自分の目で確かめてみる。

 □とか△とか、縦棒横棒のようなシンプルな記号と、昂国の字によく似た、けれど少し違う文字が横書きで並んでいる。


「文法的には命令形だよね。獏さん、条件や理由の文節は常に後ろに来るものですか? それともこの文では倒置法で後ろに来てるんですか?」


 唐突な私の質問に驚きながらも、獏さんが答えた。


「え? あー、たしかに主たる文意を修飾する句や節は後ろに来ることがほとんどかな、西方の書き言葉では。むしろ前に来たときが倒置修辞の扱いだよ」


 副詞節が独立的に後ろに回るということは、英語に似てるんかな。

 加えて、文章の中に同じ文字と記号が前後に繰り返しで存在しているので、これがおそらく「~し過ぎてはいけない」という意味を示す助動詞だろう。

 そしてなにより、気になることが。


「この記号、助詞かな?」


 昂国の書き言葉には、助詞は存在しない。

 主語、述語、目的語、それらを修飾する言葉の順番が明確に定められているので、助詞を置く必要性が薄いのだ。

 日本語で言う「てにをは」とか、主語を意味する「~~が」に当たる文字が、おそらくここに見える素朴な形の記号の正体なのだな。

 はあはあなるほどと感心しつつ私は呟く。


「うーんと、命令文に主語がないのは共通で、だからここには主格の助詞もなくて、後ろの名詞は前置の助詞と一体になることで目的語として成立してるのか。名詞は態や複数単数で活用するんだろか」


 私が石柱を前にブツブツ言ってると、獏さんが驚いた声で聞いた。


「ま、まさか央那ちゃん、読めるのかい、西方の文章を?」

「いや、単語や字そのものの読み方や発音がわからないから、読めはしないですよ。どういう構造の文法なのかなーってのを見ていただけです。昂国と似てる字はなんとなくわかりますけど」

「それがわかっちゃうってことは、単語さえ習熟してしまえば、もう読めるってことになるじゃないか」


 さすがに獏さんも言語の学徒、ちゃんと私の言ってる言語構造学の話が通じるようだ。


「かもしれないですね。でもこの石柱の文章は短いし、文法的にも前後の文が同じ構成で対句になっていて簡単だから、なんとなくわかるだけだと思います。もっと長い散文になると、お手上げじゃないかなあ」


 私がこの文章の意味と構造をなんとなく把握できるのも、獏さんが最初に翻訳を口に出してくれたからでしかない。

 受験戦士時代、英語の勉強ももちろんそれなりに頑張ってはいたけれど、やっぱり英字新聞とか、原語のアメリカ文学とかは難しいよ。

 アイハヴアペン、アイハヴアンアッポゥを理解できても、字幕なしの初見でSFハリウッド映画を理解することはできないのだ。

 でもそれは単語の知識とヒアリングの慣れの問題が大きいので、両者を向上させるためにはとにかく純粋に、場数と時間を注げばいい。

 逆を言えば、言葉は慣れさえすれば誰でもある程度は覚えて使えるということでもある。

 アメリカやイギリスでは、幼稚園児だって「慣れて次第に覚えた」からこそ、英語を使えているわけだからね。


「いやあ、馬蝋(ばろう)どのや百憩(ひゃっけい)僧人が、央那ちゃんに一目置く理由が今ハッキリわかった気がするよ。やぶれかぶれで突進してるわけじゃなくて、ちゃんと考えて行動してるんだね」

「あんた今まで私をただの狂女としか見てなかったんかい」


 もうこいつと出会って一年になるはずだし、その間もいろいろあったはずだけれどな、おかしいな。

 人と人とがわかり合うのは難しいのだと思いながら、私は翔霏の駆る馬の背に乗り、先の道を行くのだった。


「しかし地図に書いてある通り、見事に邑もなにもないな」


 翔霏が馬を休ませて、野営の準備をしながらひとりごつ。

 国境からずいぶんと離れたところまで、私たちは来た。

 山道と言ってもそれほどの起伏はなく、整備された平淡な道を一日中、進んだことになる。

 馬は走ったり歩いたりを無理なく行かせたので、平均すると時速15キロメートルほどだろうか?

 距離にして100キロメートル前後は稼げたはずだけれど、その途中、人の住処が一つも目に入らなかったのだ。


「昂国との国境付近に砦や城を置かないのは、敵対する意思がない証拠だって前に百憩僧人が言ってたよ」


 獏さんに教えてもらい、へえと私は返す。

 見た感じ、農地にも使えない岩がちの不毛な山岳地帯が、そのままノーマンズランド、要するに昂国との空白緩衝地帯になっているのだ。


「文化は違えど、刹屠(せつと)とうちの国は安穏で良好な関係なのだな。けっこうなことだ」


 翔霏と私で簡単なテントを岩陰に設置。


「その割には商人さんとか、旅行する人が通らないね。たまたまかなあ」


 星が綺麗過ぎて静か過ぎる夜の道端で、私は疑問の一つを口にする。

 テントに入れてもらえない獏さんが、どこでどう寝ようかうろうろ周囲を観察しながら教えてくれた。


「今は商人さんたちも、北方での取引の方が旨味があるって事情で、西方にはそこまで頻繁に商売に来ないらしいよ。人が少ないのはそのせいじゃないかな」

「ああ、そっか。戌族(じゅつぞく)との交易が自由化されたから、新しい販路を拡大する方に人もお金も集中してるんだ」


 遠く離れても私たちの世界は繋がっているんだなと、当たり前のことになんだかしんみりしてしまう。


「そういうことさ。まあ、北の方の事情はそれこそ央那ちゃんたちの専門だろうから、僕より詳しく知ってるだろうね。突骨無(とごん)って有力者が、なかなかの人物なんだって?」

「ですね。獏さんより二回りくらいいい男で、獏さんより倍くらい逞しく利発な殿方です」

「引き合いに出して僕を貶めるの、やめてもらっていいかな? ってそんな完璧超人がこの世にいるの? 話を盛ってるでしょ?」

「安心してください、女にだらしないところとか、共通の弱点はありますよ」

「嬉しくないなあ……」


 あとは、悪いクスリにハマりかけてた、とかね。

 その辺は白髪部(はくはつぶ)の内で隠しておきたい黒歴史だろうから、獏さん相手の世間話には出さない。

 なんて風に気楽な雑談を楽しんでいた、その最中。


「二人とも、済まない。やはり感覚が鈍っているようだ。これほど接近されるまで気付かなかった」


 寝支度を途中で止めて、翔霏が鋼鉄製の伸縮棍をしゅっと伸ばして、言った。

 敵だ。

 良くない存在が、ここに近寄っているのだ。


「か、かか、怪魔とか、盗賊の類かい?」


 テントの陰におっかなびっくりで身を隠し、獏さんが問う。

 うん、期待はしてなかったけれど、その通りに戦力にはならないようだね。


「わからん。が、すぐに姿を現すだろう。相手が飛び道具を持っていたら厄介だ。物陰から決して出るなよ」

「翔霏、大丈夫?」


 私の質問に、翔霏は苦笑いを返し。

 自嘲するように言った。


「良くても不味くても、やるしかあるまい。今の私でどれだけできるのか、試しの機会を天が与えてくれたのだろうさ」


 その言葉で、私は確信する。

 きっと、今の翔霏は。

 絶好調のときに比べて、半分の力も出せないのだろうと。

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