百九十七話 片腕戦鬼と空飛ぶ斬刀
悪魔が笑っているかのような、赤い下弦の月だった。
「何者か知らんが、近寄ったら叩きのめす。死にたくなければ来た道をそのまま帰れ」
棍を前に突き出すように構えた翔霏(しょうひ)が、曲がり角の奥にいる「なにか」に宣告する。
翔霏がここまで言うってことは、相手に殺気が、私達に対しての害意があるということだ。
「獏(ばく)さん、いよいよとなったら馬で逃げる準備をしておいてください」
「そそそそれはもちろん。って、央那ちゃんたちも逃げた方が良いよ! 一目散に逃げれば、まだ安全に昂国(こうこく)に帰れる距離だろう?」
獏さんの至極まっとうなその提案を、私は微笑とともに却下する。
「進まないと目的は果たせないんです。だったら私も翔霏も前に進むだけ。あいにくと私たちの心と体からは、後退(バック)の歯車(ギア)なんてとっくに取り去ってしまってるんですよ」
闘うのは翔霏だけではない。
私も、可能な限り敵の正体を見定めて、自分になにができるのかを必死で探しているんだ。
さあ、今回の敵は一体どんなやつで、どのように私たちに倒されたがっているのかな?
じゃり、と私の耳にも地を踏む音が聞こえる。
曲がり角の死角からゆっくりと歩を進める、その相手は。
「天の神がおっしゃった。
生きるものは産んで殖えねばならないと。
しかし地の理(ことわり)は指し示す。
殺さなければ生きられないと。
命を育むことと奪うこと。
地上に生を受けたなら、避けて通れぬ血濡れの道行き。
ならばせめてこの刀、外道の始末に振るってみせよう」
謎な口上を月夜の下で朗々と謡(うた)い、姿を現したそいつは。
「女が、一人だけ……あいつ一人でこれだけの殺気とはな」
翔霏の言うように、私たちとさほど体格の変わらない、女性がたった一人。
いや、おっぱいはすごい大きいのが、私たちとは雲泥の差。
だるんと着崩した衣服の合わせ部分から、サラシを巻いても隠しきれないほどの放漫に豊満過ぎるたわわな果実の谷間が、ばっちり見える。
そして、敵と思わしき彼女の姿に私が、見たままの情報を呟く。
「片腕の、剣士?」
目の前の彼女。
片方しかない手に、長くも短くもない実用的そうな湾曲刀を携えている。
失っているほうの腕は肩から先が丸ごと欠損しているようで、ゆったりとした袖だけが風にゆらゆらと揺らされていた。
前髪に隠された目元からは人相が判別しづらいけれど、その口は夜空に浮かぶ下弦の三日月のようでもあった。
顔だけ出して怯える獏さんが、ヒューマニズム溢れる台詞を吐く。
「こ、昂国(こうこく)の人っぽいよ。話せばわかる、かも」
「さすが言語の学徒ですね、どうぞ試してみてください。私たちは止めませんので」
「いやあ、僕ちょっと喉の調子が。頑張りたいのはやまやまなんだけども」
はぁーつっかえ。
いやまあ、これが普通の人の反応なんだよね。
ギラリと光る刀を手に、ニタニタ笑って意味の分からないことを口ずさむ片手の女なんて、夜中じゃなくても決して会いたくない人種である。
「なにが望みか知らんが、止まらないなら仕方ない」
すっ、と翔霏が棍を後ろ手に構えて、自分の体重もやや後方に預け気味の姿勢を取る。
格闘技の世界で「猫足立ち」と呼ばれる防御、回避に優れた構えに似ていた。
敵の実力の程や手の内がわからない今、先手必勝の一撃必殺を仕掛けるリスクは取れないという判断だろう。
「って、獏さん、なにを抱えてるんです」
眼前の敵から隠れて震えている獏さんが、胸になにやら小包のようなものを抱いている。
「これ? 食料の小麦粉だよ。いざとなったらぶつけてやれば、目くらましになるかなと思って……」
「あら、冴えてますね。十点あげます」
私は獏さんから小麦粉の包みを奪い取って、敵を睨む。
「翔霏、気を付けてね」
「ああ、麗央那も」
岩の谷に挟まれた一本道。
翔霏は慎重に少しずつ、片手女に近付いて行く。
不敵な笑みをそのままに、敵は再び謡うのだ。
「人の道から外れた外道を、殺してやるのも人の道。
しかしどうしてなぜ神は、我にその荷を背負わせる。
殺し殺して幾百年、旅の終わりはいつの日か」
ざわ、と私の背中一面に鳥肌が走る。
誰が外道だよ、鏡を見やがれと反論したくなったけれど、そんな場合じゃない。
同時に敵の女が、自分の持っていた刀を翔霏へ向けて、まるでダーツのように投げ飛ばした。
「なっ!?」
さっと横に動いて投げられた刀を避けつつも、翔霏は面食らったような声を上げる。
得物を投げ飛ばしてしまうなんて、敵は自分から丸腰になったようなものだ。
まだ隠している武器があるのか。
次の出方を探るため、翔霏は敵を中心に、円軌道で回る。
そのとき。
「央那ちゃん、危ない!」
がばあっ、と急に獏さんが覆い被さって来て、私たち二人の体は地面に伏した。
「な、なんですかいきなり!?」
「あれを見てよ! 刀!」
しゅうん、と空気を切り裂く音が頭上で聞こえた。
次の瞬間には、さっき放り投げて手元から失ったはずの刀剣が、女の片方しかない掌に、まるでキャッチボールのように返って来ていた。
片手女は、にかっと歯を見せて笑い。
「斬刀、飛べ!」
再び翔霏めがけて、青黒く光る刀を投げ飛ばした。
「チィィッ!!」
翔霏が棍の一振りで、飛来した刀を弾く。
ギィィンと鋼鉄同士がぶつかる嫌な音が谷間にこだまする。
「斬刀、回れ!」
片手女の叫びに応じるかのように、弾き飛ばされたはずの刀は空中で軌道を変えて、ブーメランのように女の手元へと戻って行く。
信じられないけれど、目の前で実際に起こっていることなのだから、信じるしかない。
「獏さん! 糸で操っていたりしないかちょっとしっかり見てください!」
「な、なにも見えないよ! 僕これでも眼は良い方なんだ!」
私は自慢じゃないけれど視力が悪いので、獏さんや翔霏の見ているものを信じるしかない。
「おかしな術を……!!」
翔霏が見破ることができずに警戒を強めたということは、簡単なタネのあるような手品じゃない。
動揺している私たちの姿が面白いのか。
「はっはっははは! 実に良い顔だ! 今宵のお役目は楽しませてもらおう!」
狂ったように女は嬌声を上げ、繰り返し刀を飛ばして来る。
翔霏はテニスのように巧みにそれを棍で殴って弾く。
「喰らえッ!!」
一気に距離を詰めて、女めがけて一撃をお見舞いしたけれど。
「遅いわ遅いわ、あくびが出ようぞ。後手に回っているからか? それとも腹でも痛いのか?」
敵もさるもの、ふわりと後ろにステップアウトして、翔霏の鋭い攻撃を難なく躱す。
翔霏の攻撃をここまで完璧に避けられたやつなんか、今まで一人たりとていなかった。
やっぱり、翔霏の力が呪いで衰えているからか。
それとも今夜、目の前にいるこいつが、強すぎるのか?
「斬刀、舞え! 斬刀、踊れ!」
「くっ!?」
宙に浮いた刀が、まるで意志を持った生き物のように翔霏の体を貫こうと、楕円軌道で旋回する。
見えている刀を避けるだけなら、翔霏にとって造作もないことだけれど。
「我もいるぞ、忘れるな」
「がっ!?」
女の横蹴りが、浅くだけれど翔霏にヒットした。
いや、正確に言えば翔霏は脇腹を蹴られ間一髪、肘でガードしたのだ。
縦横無尽に飛び回る刀の動きで翔霏に死角を作らせて、その隙を突いて攻撃する。
嫌になるぐらい合理的で、殺意の高い戦法である。
翔霏の調子が悪いことを差っ引いても、こんなやつに一対一で勝てるやつがどれだけいるだろうか?
「うううう、なにか、なにかないか」
手に抱えた小麦粉の袋を見る。
私のヘボコントロールでこれを投げても、素早い動きの敵に当てられる自信はまったくない。
目くらましという方向性自体はいいんじゃないかなと思う。
けれど、下手なことをして翔霏の邪魔になってしまっては一巻の終わりだ。
「く、くそう、あの女の人、あんな前髪でよく見えてるなあ。飛ぶ刀が怖くて逃げられないよ……」
私の陰で小さくなっている獏さんが情けない声で言った。
内容については私も同感だし、お互い役立たずの身であるので、彼を責める資格は私にはない。
ん、前髪で見えにくいはず?
「翔霏、もうちょっと頑張って」
私はあることを思いつき、祈るように呟きながらビリリと小麦粉の入った布の袋包みの一部分を切り裂く。
「これでも喰らえー!」
そして、二人が戦っている場所あたりに、袋を思いっきり放り投げた。
狙い自体はこの際、雑でいいのだ。
その後にもたらされる効果が重要なのである。
いずれ風の力で飛ばされてしまうだろうけれど、翔霏と敵が戦う周囲には小麦粉の細かい粉末が飛散し、漂って。
まるで濃い霧が発生したような、視界の悪い状況が今だけ、その場所にだけ生まれた。
「良くやった麗央那!!」
翔霏が敵の攻撃を弾きながら、叫ぶ。
そう、飛ぶ刀を自在に操る謎の怪女が相手だったとしても。
「久しぶりにやっちゃえ、翔霏ー!!」
おぼろげな景色や、霧の中。
人の目が曖昧になるその場そのときでこそ、我らの翔霏は空前絶後の必殺技を使える。
グオオオン、と空気が振動し、大地が鳴る。
「遊びは」
「終わりだ!」
「すぐ」
「楽に」
「してやるっ!!」
瞬間、翔霏の体が五つに増え、五人分の掛け声が夜空に響いた。
これぞ神台邑(じんだいむら)流活殺術奥義、霧中眩惑残像五体分身拳!
まったく同時に前後左右、そして上方から攻撃されて、逃げられるものはいない!!
ゴウゥゥゥゥン、と、鋼の棍が人の骨を打ち叩いた音が、確かに聞こえた。
「でえいっ!」
分身した翔霏の一人が、飛んでいた刀を足で踏みつけ、地面と挟み撃ちして見事、真っ二つに折ってすらいる。
徐々に翔霏の分身は消えて行き、刀を踏んだ翔霏だけが本体なのか、残った。
そこで私たちが見たものは。
「い、いない……?」
確かに打倒した、その手ごたえもあったはずの敵が、片手の斬刀術師が、どこにもいない、ありふれた岩の地面だった。
逃げられるはずなんてないのに。
翔霏の攻撃は不可避で、逃げられる隙間もなかったはずだ。
「お、央那ちゃん……あれ……」
獏さんが私の肩をつついた指を、そのまま道の先に指し示す。
そう、さっき敵が歩いてきた方角。
「人怪め……」
ギリリと翔霏が歯ぎしりした。
いたのだ。
さっき倒したはずの。
もう、翔霏の残り体力では勝てないと、同じ戦法が二度と通用しないと思われる、その相手が。
「お見事なり、お見事なり。
たとえ化身の一つと言えど、我を倒したその御業(みわざ)。
ここ百年は出会わなんだわ。
六人若しくは七人がかり、そこは今夜は目をつむろうか」
かかっと愉快そうに笑い、刀を杖にして立っていたのだ。
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