百九十八話 まだ一勝一敗?

 気力体力を使いすぎた翔霏(しょうひ)が、ガクッと片膝を折る。


「麗央那、私が食いとめてみせるから、通訳の優男と二人で逃げろ」

「その冗談は面白くないから二度と言わないでね」


 ノータイムで提案を却下し、私は翔霏の前に立って謎の片腕女を睨む。


「あああ危ないよ央那ちゃん!」


 後ろで制止する獏(ばく)さんの言葉を華麗にスルーして、私は眼前の相手に質問した。


「なんだよいったい、なにが目的なんだよう! 食料はこれ以上なくなっちゃったら困るけど、多少のお金ならあげてもいいからどっか行ってくれないかな!」


 けれど返ってきた言葉は、私の言葉に興味を持ったのか、そうでないのかわからない独り言のようなもの。


「死出の道にはまだ早すぎた。

 しかしてこの先これ以上、生きてなにを望むのか?

 美しいまま手折ってやるのが、花に対する礼儀ではないか?」


 カカカと機嫌良さそうに笑う女からは、私たちに対してどのような感情を持っているのか、まったく読めない。

 う、美しい花にたとえられたからって、嬉しくなんかないんだからね!

 確かに最近の私、色々絶好調すぎて、今が人生のピークなんじゃないかなと思ったことはあるけどさ。

 なにせ花の十七歳だし。

 でもそれは翔霏の呪いを解いて、みんなハッピーにならないと完璧じゃない。

 こんなところで手折られ摘まれるような、可愛く無害な花だと思ってんじゃねーぞぉ?


「まだやるってんなら私が相手だ。刺し違えてでも二人に手出しはさせないからな」


 私は片手に鋼鉄製の毒串、もう片手に火薬玉を握り、一歩前に出る。

 しかし私が決意して動き出した途端、斬刀女は急に口元から笑みを消して、氷のような冷たい声色で言った。


「勝てぬと知りつつなぜ向かう。

 そこまで愚かな女であるまい。

 自棄(やけ)を起こして勝手に散るか。

 それが真の望みであるのか」


 私のような雑魚を倒してもつまらない、ということだろうか。

 いや、それよりも。


「あんたに私のなにがわかるんだよ。利いた風な口を聞くなっ」


 断片的な会話の中でも、拾えた情報がある。

 この女は、私たちのことを前もって知っていたのか?

 そして同時に、彼女は戦いそのものの中に、なにかしらの価値を見出しているということもわかる。

 だから強敵であり、必死に抗う翔霏の姿を見て、楽しそうに笑ったのだ。


「知るも知らぬも、とどのつまりは虚仮のこと。

 知ると思えど知らず、知らぬと思えど知ることあり。

 お前も我を知ることはできず、我もお前を知ることはできぬ。

 ともすれば、すでに知り合うているかもしれぬがな」


 どこからどこまでを「既知か未知か」と判断するかという、哲学的な問いのようでもある。

 フフッ、と皮肉めいて笑うその口調と雰囲気に、私はなぜか既視感を覚えた。

 私もこいつも、以前にお互い見知っていたのだろうか。

 いやそんなことはありえない。

 少なくとも私の人生で、こんなおかしなやつと出会った記憶はないはずだ。

 あったとしたら忘れるわけがないからね、変なやつ過ぎて。


「お、央那ちゃん、ちょっとあいつの足下見てくれないか」


 進も退くもいかんともしがたい、そんな睨み合いと問答の中、獏さんが小声で告げる。

 なんだろう、地面になにか良くない仕掛けでも施しているのだろうか、と思ったけれど。


「なにもないじゃないですか」


 野営のために構えた焚火が照らす女の姿に、特にこれと言った異変はない。

 一振りの刀剣以外に武器を隠し持っている様子もないし、引き締まった脛と足首が覗く裾の下、古びた草履状の履物が、当たり前に地面を踏んでいるだけなのは、目の悪い私にもわかった。

 けれど、その状況を指してさらに詳しく、獏さんは言う。


「だ、だから、ないんだよ。本来あるべきものが」

「まだるっこしいなあ、ハッキリ言ってよ」


 私が獏さんの態度にウザがっていると、翔霏がぽつりと教えてくれた。


「あの片腕女には、影がないんだ。私も闘っている途中で気にかかったが、今ならはっきりわかる」


 翔霏が苦い顔で棍を構え直す。

 けれど、もう戦わせるわけにはいかないからね。

 私は勇気を振り絞って、翔霏を置き去りに敵の近くへ歩み進む。

 影がない、となると。


「なんだよ、おかしな幻覚を見せる妖術士の類かテメー。あいにくとこちとらあ、その手のマヤカシはなぜか微塵も効きやしない特殊な体をしてんだからな。不思議パワーで全部かき消してやんよ」


 半分はハッタリだけれど、今の私にはこれしか縋るすべはない。

 私が虚勢を張って睨み続ける間、女は前髪の奥でどのような表情を浮かべているのだろうか。

 けれど、私と相手の距離がおよそ十歩ほどまで近づいたとき。


「つまらん、つまらん、まったく興醒めである。

 敵を脅すときは、己が上に立っていなければ意味がない。

 後ろでへこたれている、棒を持った無様な女よ。

 この小娘に、そんな簡単なことも今まで教えなかったのであるか。

 猫がどれだけ威を張ろうと、怯える獅子などおるまいよ」


 私の心の中にある弱気を感じ取ったのか、斬刀女は「もう飽きた」と言わんばかりにそっぽを向いて、元来た道を引き返して行った。


「ちょ、ちょっ、待っ」


 去ってくれるならなによりのはずなのに、思わず追いすがって声をかけた私に、女は一瞥をくれて。


「くどい」


 冷たく言い捨てて、手の内にあった刀をこちらに投げ飛ばした。


「え?」


 冷たい鋼鉄の刃は、あっと言う間に私の胸、中心部分をずぶりと貫き。


「なっ」

「あ、あ……」


 鍔のように引っ掛かるものがないその得物は、私の体を貫いた勢いのまま後ろへと高速で飛んで、翔霏と獏さんの喉元を切り裂いた。

 かのように、見えて感じた。

 けれど、それだけで。


「ぶ、無事だ!?」


 私の胸には穴なんて開いていないし、翔霏と獏さんも血液一滴たりと流してはいない。

 これは私の意識に直接ぶつけられたイメージだ。

 

「お前らなんていつでも殺すことができる。結果の見えている遊びほど面白くないものはない」


 とでも言いたげな斬刀女のメッセージが、私の脳内に直に焼きついたのだ。

 そのビジョンを見せつけられたのは私だけではない。

 翔霏と獏さんも同じで、混乱したように自分の首周りや地面、そして斬刀女の様子を見比べていた。

 分からないことだらけのまま、私たちは置き去りにされて、女は谷間の道、曲がり角の岩陰へと消えて行った。


「私たちもあっちに行く予定なんだけどなあ」


 がっくりと膝を落として言った私の言葉に、翔霏が答える。


「道ではなく、岩山の上へ飛んで登って、遠くへ行ったような気配がある。出くわすことはないだろう」


 そして悔しそうに、ガギィンと岩肌に棍をぶつけて鳴らした。


「クッソ、なんだったんだあいつは、いけ好かないやつだった……」


 最初の衝突は翔霏の残像分身拳でこちらが一本取ったけれど、そのあとはまったくよろしくない。

 有効な手の内もなく、体力も付き、気力でも飲まれていた私たちは、あそこで全滅していてもおかしくはなかった。

 今、私たちが生きているのは、相手が気まぐれで去ったからにすぎないのだ。

 まったくわけがわからないクエスチョンマークだらけの脳を抱えて、私も翔霏も言葉少なにうずくまるしかできなかった。

 それでも。


「ね、ねえ! 二人とも、助かったんだからなによりじゃないか! 命あっての物種と言うし、切り替えて行こうよ!」


 空気を読まずに明るく獏さんが言って、服の内合わせ(ポケット)部分から、なにかごそごそと取り出し、私たちに見せた。


「じ、実は僕、二人に内緒でお酒を持ちこんでたんだ。でもこんなことがあって悔しいだろうからさ、二人にあげるよ。飲んじゃって忘れよう」

「私は見張りがあるから飲まんぞ」


 翔霏が冷たく返すも、獏さんは首を振って強く、命じるように言う。

 

「きみが疲れてるのは僕の目から見ても分かるよ。今はなにも考えず休まないとダメだ。見張りなら僕が起きてるからさ」


 思いがけず頼もしいことを提案するので、私は驚いてつい、突っ込んでしまった。


「怖い目に遭ったから、てっきり逃げたくなってるかと思いました」

「その気持ちはもちろん、半分くらいあるけどね。でも若い女の子二人を置いて僕だけ中書堂に帰ったら、いよいよ僕の居場所は昂国(こうこく)のどこにもなくなっちゃうじゃないか。流石にこれ以上侘しい立場に追い込まれるのはごめんだよ」


 結局自分の都合かい、と私は笑ってしまったけれど。

 いや、きっと私たちに気を遣わせないように、こう言ってくれてるのだろう。

 憔悴した顔で納得の頷きを翔霏が返す。


「わかった、お言葉に甘えよう。今まで軽んじた態度を取ってすまなかった。小麦粉を使うという発想には、本当に助けられたよ」

「いやいや、これからも今までどおり、軽い感じで接してくれればいいって。そこまで大きく歳も離れてないんだからさ。身近なお兄ちゃんと思ってくれた方が嬉しい」


 なんだこいつ、若い女に「お兄ちゃん」呼ばわりされると脳汁出るタイプか。

 そう言えば今まで詳しく聞いてなかったなと思い、私は改めて質問する。


「獏さんって、そもそもおいくつなんですか。去年に初めて会ったときは、まだ入ったばかりの書官見習いさんなのかなと思ってたんですけど」

「僕は今年で二十三だよ。中書堂は三年目だけど、まだまだぺーぺーの小僧だ。地方試験に三回、落ちちゃったから、中書堂に入るのがその分だけ遅くなっちゃったんだ」


 え、翠さまや椿珠(ちんじゅ)さんよりも年上なんじゃん、そうしたら。

 若々しく見えるのは、気持ちの問題かねえ。

 意外と苦労している彼のエピソードを聞き、興味深そうに翔霏が訊いた。


「……若い身空で三度も大事な試験に落ちて、それでも諦めなかったのか」

「そりゃあ、都で仕事がしたかったし、こうして西方にも来られてるし、やりたいことがいっぱいあったからね。諦めるっていうのはなかったなあ。学問には自信があったから、いつか受かると信じてたし」

 

 何度負けても、再び立ち上がる人が、一番強い。

 少しだけ調子に乗っていた私たちはこの夜、そんなこと改めて学び、また少しだけ大人になったのでありました。


「あの化物女……次に会ったら容赦せん……」


 翔霏の不穏な寝言は、気にしないふりをしてあげる優しい麗央那ちゃんでしたとさ。

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