百九十五話 暗い迷宮への、小さな一歩
まさに、拾う神あり。
素敵なタイミングでありがたいことに、博柚(はくゆう)佳人のご実家、兆家(ちょうけ)が私の世話人になってくれる。
目下の宗教的な問題を一つクリアした私は、翔霏(しょうひ)の様子を窺うために司午家(しごけ)別邸を訪れた。
「やあ央那ちゃん。遅かったね」
「なんでオメーがいるんだよ」
まるで自分の家のようにくつろいでいる涼(りょう)獏(ばく)というアホが、私をにこやかに迎えた。
「ひどいなあ、自分で行けって言ったくせに」
「そうでしたっけ」
こんな男となにを話したかなんて、一々記憶していない。
はて、そもそも獏とは誰だったかしらねえ。
冷たい視線を浴びながらも、獏さんはなにげに大事なことを言った。
「央那ちゃんが来られない間、百憩(ひゃっけい)僧人に翔霏ちゃんの身体を診てもらったよ。気休め程度にしかならないと言っていたけれど、後で薬を持って来てくれるってさ」
「ホントですか。獏さんいい仕事しましたね。飴ちゃんをあげます」
私は小袋から激烈に酸っぱい飴玉を一つ取り出し、獏さんの掌に載せる。
「わあ、ありがとう。美味しそうだ……ってなにこれ酸っぱ! ちょ、酸っぱすぎ! 本当に人間が食べるものなのかいこれは!?」
「で、百憩さんは翔霏の体についてどんな見解を?」
もがいている獏さんに構わず、私は話を進める。
軟弱なやつめ、私はそれを毎朝舐めて目を覚ましているのだぞ。
すっかり刺激に依存してしまい、ちょっと酸っぱい程度の飴だと満足できない体になってしまいました。
あたい、もうなにも知らなかった少女の頃には戻れないのさ。
「ううう、口の中が万力でギュッと締め付けられたみたいだ……ああ、百憩さんの話だけど、基本は変わらず、西方に行って解呪するのが一番確実だってさ。翔霏ちゃんの体力的にも、変調が大きく出てない今のうちに、急いで行くに越したことはないって」
「わかりました。あと馴れ馴れしく呼ぶのをやめろ? 翔霏をそんなふうに呼ぶやつ、天下のうちにお前だけだぞ? あ?」
「良いじゃないか、若い女の子なんだから」
恫喝しても、ヘラヘラ笑いを返すだけだった。
私は舌打ちを聞こえるように連続で鳴らして、翔霏の部屋へと向かう。
翔霏の部屋の近く、廊下に想雲(そううん)くんが立っていた。
どうやら私を待っていてくれたらしい。
「央那さん、西方へ行くときは国境まで僕と、屋敷のもの数人で送らせていただくことになります。旅に必要なものも十分に準備させていただきますので、なにか思いついたら遠慮なく言ってください」
「なんできみはそんなにできた子に育っちゃったの~~。バカなナンパ書官に爪の垢を煎じて飲ませてあげてよホント」
私が感激して絶賛すると、想雲くんは赤くなった頬をポリポリとかいて言った。
「い、いえ、僕は家の方針で決まったことを伝達しただけですので。それに獏さんも忙しく立ち回ってくれましたよ。さ、翔霏さんがお部屋で待っています。ごゆっくりお話しください」
照れくさいのか、想雲くんは逃げた。
翠さまも玄霧(げんむ)さんも私相手に照れてくれることなんてないので、想雲くんの反応は新鮮で楽しい。
彼も大人になったら司午家の例に漏れず、ふてぶてしく偉そうになってしまうのかねえ。
赤ちゃん皇子なんて、生まれたときからすでに唯我独尊の片鱗を大いに覗かせているくらいだし。
「翔霏、入るよ」
「ああ、麗央那か」
窓を閉め切った暗い中、薄い部屋着だけを羽織った翔霏が。
空気椅子のように足を開き気味の、膝を曲げた中腰の姿勢で、体幹トレーニングをしていた。
カンフー映画で似たようなのよくやってるよね。
「翔霏が自分のために訓練してるの、久しぶりに見た気がする」
「あの百憩とかいう坊主が不安を煽るようなことばかり言って帰ったからな。少し自分の体と細かく向き合っているところだ」
すう、と静かに美しい挙動で翔霏は姿勢を戻し、平常の立ち姿になる。
「言われてみれば身体は実際に重いな。わずかに前後左右にふらつく感覚もある。あの坊主もヤブ医者ではなかったということか」
「私の目には、今日の翔霏はいつも通りのびしっとした翔霏だけどなあ」
正直、まだ私の中には坊主どもの見立てがまったく外れていて、呪いなんてものはなく、翔霏は平和な日々の中で一時的に燃え尽き症候群っぽくなっているだけなのだろうと信じたい気持ちがあった。
けれど私の目にはハッキリわかりにくい異変を、翔霏自身が体の内に感じている。
「意識して細かい体のブレを止めているんだ。いつもは意識していなくてもできていることが、少し気を付けないとできなくなっている感じだな」
「ニブちんの私には理解の及ばない、高度な話だ」
勘の鋭い彼女が察知していることなのだから、きっと確かな根拠がなにかしらあるのだろう。
「胡散臭い坊主どもの口車に乗せられるのはまったく癪だが、なにか手を打たなければいけないのだという予感のようなものが日に日に強くなっている気がする。ならせめて西方にも美味い食いものがあることを期待して、今回の旅を少しでも楽しむとしようか」
「うんうんその意気その意気。西の地域にはイワダヌキってのがいるらしいよ。美味しいのかどうか知らないけど」
「ふむ。アナグマは美味いが、タヌキは不味いからな。そいつはどんな味がするんだろう。想像もつかん」
女子二人が可愛い珍動物の話をしているのに、食べる前提ありきなのがおかしい。
軽く雑談したのちに、私の戸籍書類が整うまでにできる準備の相談を詰めて、日程や経路を確認し合った。
「じゃ、わたしもう戻るね」
そして夕方、お屋敷から後宮に帰ろうとした、そのとき。
「麗央那……」
帰ろうとする私の手を、翔霏がきゅっと握った。
震えている。
あんなに強い翔霏が、今まで決して弱気の虫に負けなかった最強無敵の、私にとってのスーパーヒーローが。
目に見えない敵との戦いを前に、恐怖で身を竦ませている。
「大丈夫だよ。私がついてるから。今度は私が、翔霏を守る番」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
翔霏は首を振って、心の中にある影を吐露する。
「呪いも、怨念も、もっと言えばその先にある死も、私は怖いと思っていない。それはただの結果だからな。生きていればいつか誰だって死ぬんだ」
「今からそんなこと言わないでよ。死ぬにしてもまだまだずっと先の話。飽きるくらいたっぷりと、面白おかしく生きてからじゃないと」
私の言葉に軽く笑った翔霏だけれど、すぐに辛そうな表情に変わって、再度確認するように言った。
「呪いだの、病だの、そう言うのが怖いのではないんだ」
彼女の、心の中に最も強くある、その気持ちを。
「私は、私でなくなることが一番、怖い……」
これはいつか、覇聖鳳(はせお)を倒しに行く途上で、白髪部(はくはつぶ)の阿突羅(あつら)さんを前に言い放った、翔霏の中の「核」だ。
覇聖鳳が怖くないのか。
意地を張って白髪部のみなさんを困らせて、阿突羅さんを怒らせるのが怖くないのか。
そして、死ぬのが怖くないのかと問われたときの、翔霏の真っ直ぐな回答。
なによりも怖いのは。
自分が、自分でなくなること。
「翔霏はいつでも、いつまでも、私の大事な翔霏だよ。変わらないよ」
前に翔霏が私に言ってくれた、嬉しい言葉。
私の方だって、同じ気持ちを持っているよと伝える。
「そのつもりだし、そうでありたいと願っている。しかし、不安なんだ。なぜだかわからないが、こんな感じははじめてなんだ。なにかが、大きく変わってしまう気がするんだ……」
冷え切った掌から、言いようもない感情が私にも伝わってくる。
私たちは今までいろいろなところを旅してきたけれど、それはいつも自分の意志で、そうしたくて踏み出した道だ。
けれど今、翔霏は呪いという不可抗力から、やむを得ず知らない土地に行かなければならない。
したいから、する。
それは自由だけれど、したくもないことを、仕方ないと後ろ向きな気持ちでするのは、自由ではない。
きっと今、翔霏はその不穏で不愉快な不自由に身を苛まれているんだろう。
したくもないことをする自分は、本当の自分なのだろうかという疑問を抱えながら。
私は翔霏の体を、気持ち強めにぎゅっと抱きしめて、言った。
「翔霏が変わっても変わらなくても、いつかの翔霏が今の翔霏ではなくなっちゃったとしても、一緒に過ごした日々は本物だよ。疑う余地もないじゃん」
「ああ、そうだな。私たちはいつか変わるかもしれないが、間に生まれた絆は永遠だ。変わることも滅びることもない、そうだよな……」
抱擁を返してきた翔霏は、もう震えていなかった。
翌日からも慌ただしく手続きや準備に走り、忙しさに身を任せていた翔霏の顔からも、翳りのようなものが消えて行く。
さあ、いざいざ、西方へ。
段取り完璧、諸事万端で迎えた出発のその日。
「さあみんな、忘れ物はないかな? 長い旅になるけどよろしく頼むよ!」
実にムカつく良い顔で笑いながら、獏さんが音頭を取っている。
「なんで部外者のあんたが仕切るんだよ。中書堂に戻って真面目に働け?」
うんざりした顔で私が言うと、獏さんは「やれやれこれだから子どもは」という顔で肩をすくめ、私を諭す。
「刹屠(せつと)の地に入っても言葉自体は半分以上通じるけど、僕がいないと字の読み書きができないじゃないか」
「あ」
しまった~!
外国に行くんだから文字体系が変わるということを、すっかり失念していた~~!!
確かに私は西方の文字や言語学について、ほぼ丸っきりの無知と言っていい。
刹屠自治領は昂国(こうこく)のお隣さんなので、言葉の違いは方言程度でしかない。
けれど公式で使われている文字が違うというのなら、今更学び直している時間は、ない。
「通訳、のようなものか」
同行人が誰であってもさほど気にしていない翔霏が訊くと、獏さんは胸を張って答えた。
「そういうことさ。僕も前から国の外へ出て、西方に行ってみたかったんだ。お声をかけてくれた司午家のみなさまには頭が上がらないよ」
大方獏の野郎に良いように言いくるめられて、同行通訳を任せたに違いない。
百憩さんはなにか事情があるのか、もしくは他の大事な仕事にかかっているのかで、私たちに同行できないことは前にちらっと聞いていたし。
私はジトッとした目で想雲くんを睨み、言った。
「帰ったらちょっと真面目な話があるから覚えておいてね」
「ひっ、あ、は、はい、わかりました……」
翔霏と、私と、オマケの獏さんと。
こうして私たちは、八州の中で最も西北に位置する鱗州(りんしゅう)を超えて、砂塵の地である西方に足を踏み入れる。
「みなさま、お身体に気を付けて」
国境の検問所で、想雲くんたち司午家の方々に見送られ。
「今回も面白い土産話、期待しててね」
私は努めて明るく返し、ひらひらと手を振った。
湿った風の中に舞う砂埃が、果たして私たちを拒んでいるのか、歓迎しているのか。
わからないけれど、行くしかないし。
行けば、なにかがわかるのだ。
だったら迷わず行く以外、道はないよね。
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