留学中の書生女官、黎明の石窟に祈る ~泣き虫れおなの絶叫昂国日誌・第五部~
西川 旭
第二十一章 神の名を持つ邑で生まれた子
百八十三話 神の子は神へ、皇帝の子は皇帝へ
私たちの神台邑(じんだいむら)で、祝福の御子が生まれた。
司午(しご)翠蝶(すいちょう)貴妃殿下が皇帝陛下との間に儲けた、大きくはないけれど火が点くほどに元気な、男の子である。
「べろべろばぁ~~」
「メエメエメェ~~」
私と白ヤギが揃って舌を出して変顔を作り、赤ちゃんをあやす。
「びいぃ! ぶいっ!」
お気に召さなかったようで、激しいクレームののちにそっぽを向かれる始末。
残念~。
でも、それなのに。
いちいち幸せすぎて、マジ昇天しそう!
楽園はここに在ったんだ……。
なんで赤ちゃんってこんなに可愛いんだろう、不思議。
おててもあんよも、こんなにちっちゃぁ~い。
食べちゃいたいくらいに可愛いとは、まさにこのことだよなあ。
「こんなに大勢に囲まれた騒がしいところで生まれちゃったからきっと人見知りしない子になるでしょうね」
赤ちゃんを抱っこしてゆすりながら、翠さまが笑って言う。
翠さまが幸せそうで、私もこれ以上ないくらいに嬉しいよ。
「見てください、この子のしかめっ面、翠さまにそっくり」
眉間にしわを寄せてきつく目を閉じている赤ちゃんの顔。
マジで (>言<) こんな顔してるんだよ~たまんねえよ~~。
当たり前なんだけれど、どう見ても翠さまの子としか思えないほどに、似ている。
「あたしはこんなにへちゃむくれじゃないわよ」
なんて言いながらも、デレデレしただらしない笑顔で、赤ん坊のお腹や手足を優しくコチョコチョ、モミモミする翠さまであった。
産後すぐでまだまだしんどいだろうに、赤ちゃんの愛らしさは苦痛をも忘れさせるのだな。
「手先指先を刺激すると、利発な子になるそうですよ」
「なによそれ本当なの。じゃああんた寝ないでずっとこの子の手を揉んでなさいな」
私が適当に聞きかじった雑な情報に、翠さまがくわっと反応して無茶な命令を告げる。
「いやそれはさすがに赤ちゃんの方がしんどいのでは。寝たいでしょこの子だって」
「そこは上手くこの子の気持ちを汲んであげなさいよ」
難題~。
でも正直、赤ちゃんの手足を揉み揉みしてお給金が貰えるなら、永遠にその仕事を続けられる自信があるわ。
かように私たちはまだ、神台邑の会堂にそのまま滞在している。
年忌弔問客の大半は、追悼式典が終わって一夜二夜と明けたあとも帰宅せず、引き続き神台邑に居座って、ちらちらと赤子の顔を拝みにお堂に出入りしてさえいるのだ。
「みなさん、まだまだ帰る気配ありませんね。すっかり腰を落ち着けちゃって」
「日月(にちげつ)の皇子(みこ)さまが生まれたんだ。誰だってその紅顔に拝したいだろうさ。ある意味では祭りだしな」
私の呟きに対し、椿珠(ちんじゅ)さんがお堂の入り口に来て、そう言った。
皇帝陛下のお子さま誕生という、これ以上はないおめでたイベントに遭遇したみなさんは、出産が無事に済んだ後もこの場を去りたがらないのである。
そりゃあねえ、皇帝陛下の第一子だもの。
「あ、あの皇子さまが生まれたとき、俺その場にいたんだぜ!」
なんて、居酒屋トークで一生こすり続けられる鉄板ネタだもんな。
人が住む場所としての機能を失っている神台邑で、私たちがのんびり赤ちゃんを可愛がっていられるのも、理由があった。
「なにからなにまで不自由のないように用意していただき、本当にありがとうございます」
私の先輩侍女、毛蘭(もうらん)さんが椿珠さんの下へ走り、深々と頭を下げる。
椿珠さんは翠さまの陣痛が始まるなり、近隣の邑々へ走って赤ちゃんや母体の身の周りに必要なものを、集めるにいいだけ集めて回ってくれたのだ。
そのおかげで、本来無人の神台邑であるのに翠さまはなに不自由なく、無事に赤ちゃんを産むことができた。
段取りする人間が一番大変なのだよなあ、としみじみ思いつつ、私も椿珠さんを慰労するために声をかける。
「俺には出産の苦労なんてわからん、なんて言っておきながら、肝心なときにちゃんと動けるじゃないですか。そういうとこ、椿珠さんはズルいですよね」
「うるせえな。褒めてるのか貶してるのかどっちなんだその言い草は」
ふふ、このツンデレめ。
でも麗央那、知ってるよ。
椿珠さんってば、居残って赤ちゃん見物をしたがってる人たちに、お酒や食べ物を周辺から仕入れて売りつけているんだって、知ってるよ。
なんなら小さな賭場まで開いて主催を軽螢に任せ、用心棒兼仲裁役に巌力(がんりき)さんを立たせてるんだってことも知ってるよ。
商売しないと死ぬ病気なのかな、この人。
「でもいい加減、引き払う準備をしないとですよね。いつまでもここにいるわけにもいかないし」
私の懸念に、未練たっぷりの顔で椿珠さんが言う。
「そうだな。ぼちぼち貴妃殿下に陣払いを進言するか」
翠さまと赤ちゃんの事情を考えれば、長っちりも美味しい商売もそろそろ終わらせなければならないからね。
司午屋敷に戻ったら、どんな役目を仰せつかるのかな~ウフフ。
おしめは、おしめの交換は、絶対に譲りたくないでござる!
「ですが央那さん。また新たに客が来たようです」
まだまだ続く幸せ予想にニヤついていたとき。
外からお堂に戻って来た翠さまの甥っ子、想雲(そううん)くんが告げた。
確かに邑の入り口に、今までとは別の集団がたむろしている。
「なんだよもー、今さらぞろぞろ来やがって。ハローベイビーパーティーはそろそろ閉幕だっつーの」
「そりゃどこの国の言葉だ?」
なんとなく来客の窓口役になってしまった私と椿珠さんが、邑の入り口まで出向いて人を迎える。
集団の先頭に立つ、見覚えのあるその人は。
「って、川久(せんきゅう)太監(たいかん)じゃないですか。どうもご機嫌麗しゅう。神台邑へようこそいらっしゃいました」
相手が誰であるかを確認し、私は隠す気もなくげんなりした顔になった。
皇帝の正妃、素乾(そかん)柳由(りゅうゆう)さまの腰ぎんちゃく、もとい覚えがめでたい宦官、川久さんが来たのだ。
招かれざる客にもほどがあるだろーがよ!
虫のように覇気のない無機質な顔で、川久太監が挨拶を述べる。
「麗女史におかれましても、相変わらず壮健そうでなにより。して、司午貴妃はあの中央の建物にいらっしゃるのですかな」
廃墟と化した邑の中で、不自然に健全に残った会堂を見て川久太監が問う。
「そうです。けれどまだ体調がすぐれませんので、伝えることがあるなら私が」
要するに「お前は無断で近付くな。私たちの許可を取れ」と牽制したわけだ。
生まれたばかりの赤ちゃんも、出産という一大事を終えたばかりの翠さまにも。
私の了解なしで、面会できると思うんじゃねーぞぉ!?
しかし川久太監は私のそんな威嚇にはまったく動じることもなく。
「行くぞ」
「はっ」
お伴の武官に偉そうに声をかけて、邑の中へ入りずんずんとお堂へと歩を進めた。
一瞬、その行動に呆気にとられてしまったけれど、私はすぐに気を取り直して。
「ちょーっちょっちょっちょっと待ってくださいって。話聞いてます? 翠さまも、お子さまも、まだちょっと不安定で外からのお客さまに会えるような状態じゃ」
「なにを申すか。なら建物から出入りしているあのものたちをなんと説明する」
びしっと指摘され、私は返す言葉もない。
翠さまと赤ちゃんのいるお堂には、ひっきりなしに人が出入りしていた。
可愛い赤ちゃんの様子を見ることができた人たちは、実に幸せそうに福福とした表情でお堂を出て行くのだ。
うん、これは、誤魔化しようもないですねえ。
「なんにしても、せめて堂に入る前に衣服の埃は綺麗に払ってくれるか。赤ん坊に汚れがついて病気にでもなったらオッサン、責任取れる?」
椿珠さんがイヤミたっぷりに言うと、川久太監は「むぐぅ」とでも言いたげな苦い顔で。
「そ、それくらい、心得ている」
悔しそうに言い捨てて、仲間たちとお互い、布巾や刷毛で体の表面を綺麗に整えた。
見物人たちを半ば強引に出て行かせて、川久太監たちがお堂に踏み入る。
「聞けば、すでにお子がお生まれになられたとのこと。予期せぬ慶事に浴する光栄、まことに幸甚の至りにございまする」
見た目の上では丁寧に、川久太監は翠さまと皇子へ挨拶を述べた。
しらーっとした顔で翠さまが応対する。
「おかげさまでどうにかこうにかね。で?」
なにしに来たのか、という当然の質問である。
おそらくだけれど川久太監は本来、角州(かくしゅう)の司午屋敷に行く途中だったのだろう。
けれどその途上である翼州(よくしゅう)神台邑に、まだ翠さまが逗留していると聞きつけて、こっちに足を運んだのだろうな。
翠さまは彼の来訪意図を、半ば予測していた。
「以前からお話を通していたように、これから御子は万全の大事をとって『北の宮』でお過ごしになられます。ご理解いただけたと拙も記憶しておりますが」
「そうだったわね。わかってるわよ……」
ふう、と切なそうな溜息を吐いて、翠さまは赤ちゃんの頭を撫でた。
え、どゆこと?
北の宮って確か皇城の中にある、正妃さまや準妃さまが暮らしている区画だよね?
「な、な、なな、なんで翠さまの赤ちゃんが、北の宮に行かなきゃならないんですか?」
「主上の、御子であらせられる。麗女史、言葉に気を付けられよ」
私の疑問に、川久太監が冷たく言い返した。
うう、畜生め。
でもそうなんだよな。
私たちは翠さまが里帰り出産なんてしているから、てっきりこの子を「司午家の赤ちゃん」であるかのように錯覚してしまっていたけれど。
昂国において、ましてや貴族皇族の世界においては、子は父方に所属するのだ。
翠さまの赤ちゃんは皇帝陛下の赤ちゃんであり、皇族の決めたしきたりに従って育てられなければならないという現状が、どうしたって厳然と立ちはだかるのだった。
川久太監の言葉のせいで、一気に愁嘆場のように哀しみが広がる、会堂の中。
せっかく生まれた赤ちゃんを。
まだ目も開かないうちから、取り上げられてしまうなんて!!
でも私が歯ぎしりして川久に殴りかからんほどの勢いで震えていると。
「じゃあ行きましょうか」
翠さまは毛蘭さんに促して、自分の身支度を整え始めた。
はてな?
と川久太監も私も、心配で会堂を覗きに来た人たちもみんな、首をひねる。
その疑問と混乱を払拭するように、翠さまはきっぱりと、力強く言った。
「あたしもそのまま朱蜂宮(しゅほうきゅう)に帰るわ。どうせお産が終わったら貴妃のお役目に戻るつもりだったのだし。なにか問題ある?」
「え、そ、それは、拙からはなんとも……」
翠さまのスピード感しかない決断に、川久太監は分かりやすく目を白黒させた。
「ほら坊や。あんたの本当のおうちに帰りましょうね。ここに集まってくれたみなさんにお礼を言える?」
毅然と歩く翠さまに抱かれ、促された赤ちゃんは。
「ぶみゃああああああ~!!」
神台邑に集まってくれた大勢の人、全員に聞こえる大声で、どこか切ない別れの咆哮を響かせた。
彼もこの邑を離れがたく思ってくれているなら、そんなに嬉しいことはない。
私はこの場合どうしたものか、展開の早さに付いて行けず立ち尽くしていたのだけれど。
「なにボケっとしてんのよ央那。あんたもさっさと来なさい」
翠さまに、そうするのが当然であるという顔で命じられて。
「必要なもののあれこれは、後で送ってやる。心配すんな」
椿珠さんが頼もしく後始末を引き受けて言ってくれた。
「は、はいっ! この央那、西苑(さいえん)統括を務める翠蝶殿下の侍女に戻ります!」
私は元気良く返事して、翠さまの後ろにひょこひょこと従う。
都に着くまでは、赤子を決してこの手から離すものか。
そう決意して涼しげな顔で前を向き、決して宦官たちに子を触らせない翠さま。
「チッ、予定が狂ったな。まあいい……」
思い通りにいかなかった腹立ちからか、川久太監が舌打ちする。
「ざまぁ」
キキキと笑い、私は一人ごちた。
みんな、翼州や角州のことはひとまず、色々諸々任せたよ。
私は、麗央那は。
普通の侍女に戻ります!
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