百八十四話 すいちょうにおまかせ
「あっぷ、ぶうぶうぅ~~」
揺れを抑えてゆっくり走る馬車の上。
我らがプリンスさまは、些細な振動と車輪の音がいたく気に入ったのか、上機嫌でリズミカルにはしゃいでおられた。
男の子がなぜか乗り物を好むのは、いつでもどこでも同じなのかな。
「でも私、赤ちゃんが生まれたらすぐにでも別の乳母さんに預けられるなんて、ちっとも知りませんでしたよ」
恨みがましい顔で私は翠(すい)さまにクレームを入れる。
翠さまの赤子は身元も人柄も確かな乳母さんの下で生活し、生育させられる。
それを監督するのは皇帝陛下や皇太后さま、正妃さまたちと、上位の宦官さんたちだ。
しかし、私という人間をよく知る翠さまはなんでもお見通しと言った顔で、こうおっしゃられた。
「事前に言ったらあんたなんかどん底までしょげちゃうじゃないの。気落ちするだけならまだしもおかしなことを考えて暴れ出されちゃかなわないわ。北の宮に火でもつけかねないじゃない」
「そんなことしませんよ、さすがの私でも」
北の宮なんかがあるから、赤ちゃんを奪われるんだ。
なら、北の宮がなくなっちゃえばいいのでは?
そんな風に電流走って考えて付け火なんてするやつがいたら、八百屋(はっぴゃくや)お七よりヤベーよ。
しかし私がアホみたいに有り得ない話を手を振って否定しても、翠さまは信用していない顔で言う。
「誰もあんたの『そんなことしません』は信じてないのよ。たっぷり前科があるんだから」
ぎゃふん。
正論パンチで打ちのめされた私を見て、上手く飴と鞭を使い分ける翠さまが優しく言う。
「もっともあんたの場合は自分でそんなつもりがなくてもなにかに引っ張られるようにそうしていることが多いのでしょ。目に見えない不思議な力に突き動かされてるのかもしれないわね」
「確かにそう感じることは、少なくありません」
私は自由でありたいと思うし、それは同時に自分の言動に対して常に意識的でありたいと思うことでもある。
自分の行動の結果はどうしたって自分で責任を取らなければいけない。
ならせめて私は確固たる自分の意思で行動したいと思うし、それならば結果も責任も真っ向から受け止められると思うからだ。
けれど人生、ままならないことが多い。
よくわからない感覚で、なんとなく道を、行動を選択決定してしまう局面ってあるよね。
つい先日もそのせいで、なんか凄く痛い目に遭った気がするし。
ううう、鎮まれ私の胸の傷!!
消沈気味で黒歴史と向き合っている私を安心させるように、翠さまが希望のある話をくれた。
「まったく子どもに関われないってわけでもないのだからあまり心配するんじゃないわよ。あたしたちが不安がればそれだけ赤ちゃんにも伝わっちゃうでしょ。なるようになるからどーんと構えて真面目に日々のお勤めに励みなさいな」
「翠さまがそうおっしゃられるのでしたら、私も信じます」
現状、私にできることはそれ以外にない。
「あいぅ~~。びぃぃ~~」
と思ったら、赤ちゃんがむずがった。
「あら、おしめね」
毛蘭さんが確認して、笑いながら私の方を見る。
話を聞いた御者さんもゆっくり静かに馬車を停めた。
「はっ、この央那めにお任せあれ!」
シュババッと荷物から換えのおむつを取り出し、交換作業に取り掛かる私。
「は~いキレイキレイにしまちゅよ~~~、気持ち悪かったでちゅねえ~~、もう大丈夫でちゅからね~~」
デレデレニヤニヤと笑いながら赤ちゃん言葉で語りかけ、赤ちゃんの下半身を丁寧に洗う私。
「ずいぶん慣れてるけどあんた子ども産んだことあるの?」
「あるわけねーですよ」
処女で喪女だっつーの、ほっとけ。
中学生の頃、福祉施設でボランティアを続けてて良かったぜ。
私は部活も無所属だったし、生徒会活動に参加してたわけでもない。
良い高校に入るため、通知表の釣り書きを高める要素がなにかないかな~? と考えて、施設や病院のボランティアに月イチくらいで申し込んでいたのだ。
実際に今、こうしてその経験は役に立っているのだから、過去の自分をマジで褒めてあげたいわ。
たとえ動機が自分勝手で不純であっても、身に付けた技術や知識に貴賤はないのである。
「ぬふふ~可愛いおちりでちゅね~~。は~いぴかぴかになりまちたよ~」
「あんまりじろじろ見るんじゃないの。不敬でしょっぴかれるわよ」
ベイビーのお尻ケアにテンション上げまくっている私を、翠さまが若干以上に引いた目で見つめるのだった。
むほほほ、皇子のお尻をしつこすぎるくらいに丁寧に洗った罪で牢屋に放り込まれるなら、むしろ本望ですわ。
などという幸せな時間が、永遠に続くわけもなく。
「赤子ロスだわ~~。これが人間のすることかよぉ~~」
ときは少し流れ、朱蜂宮(しゅほうきゅう)の西苑(さいえん)である。
洗濯物の山を前に、私は廃人のように半開きの口で恨み言を述べる機械と化していた。
私たち翠さまグループから赤ちゃんは非情にも取り上げられ、今は同じく皇城区画内にある北の宮で暮らしている。
「いずれお生まれになる正妃さまのお子と、同じ乳母の下で育てたいというお考えが主上や母大后さまにはあるようね」
絶望して枯れている私に毛蘭さんが、やんごとなき方々の思惑を教えてくれた。
正妃さまの赤ちゃんも、このまま問題がなければ秋ごろには生まれる計算だ。
母が違えど二人は同い年の、かけがえのない兄弟、あるいは兄妹なのだ。
「乳兄弟(ちきょうだい)、というやつですか」
「そうね。どちらが上とか下とかではない、同じ乳を飲んだかけがえのない絆ということなのでしょ」
この考え自体は、正直言って私も嫌いではない。
翠さまの子も、これから産まれる正妃さまの子も、私人の事情を離れた公(おおやけ)の存在なのだ。
ならば両者の間に分け隔てがあって良いわけはなく、できる限り同じ環境で、同じだけの愛情と養育の機会を与えるという理屈は、私にも重々、理解できる。
でも、それを弁えた上で私はこのように、泣き言を漏らさざるを得ないのである。
「うう~私たちの赤ちゃんなのに~~。私がいっぱいお世話するんだって思い込んでたのに~~。顔芸をたくさん仕込む予定だったのに~~」
「あなたの赤ちゃんではないでしょ……変なことを教えたら翠さまにドヤされるだけじゃ済まないわよ……」
泣き濡れて過ごす日々も長く続きすぎてしまったので、毛蘭さんはもう私に同情してはくれないのだった。
付き合いきれない、とばかりに呆れたように言って、毛蘭さんは溜まった洗濯物を干しにかかる。
こんなにも打ちひしがれているのに、月日は無情にも過ぎ去って行き、仕事は容赦なく溜まって行くのだ。
衣類を干し終わった昼下がり、翠さまが部屋に戻って、私たち侍女に向かって言った。
赤ちゃんのことについて話し合うため、北の宮へ行っていたのだ。
「四日に一日はあたしがお乳を赤ん坊に飲ませられることに決まったわ」
その顔は、閉塞された現状を打破し、明るい未来を手に入れた母としての、喜びと誇りに満ちていた。
私は今まで曇り空だった自分の意識と脳が、ぱぁっと晴れ渡ったように明るくなり叫ぶ。
「おおおおおめでとうございます! そのときはあれですか、わ、私たちも北の宮にお伴として付いて行っても!?」
「もちろん構わないわよ。そう言えば赤ん坊の名前なんだけど」
興奮して翠さまの腰に抱きつく私。
その頭をぺしっと叩き、翠さまが言う。
赤ちゃんの呼び名はまだ幼名であり、正式な命名ではないけれど、そのことに就いても話し合ってきたようだ。
「あの子は初夏の梅雨どきなのに暑くて晴れた日に生まれたでしょ。それで主上が『明晴(みょうせい)』という名はどうだろうとおっしゃったのよ。みんな異論がなくそれに決まったわ」
「良い名前です~~~」
清々しくもどこか力強さがある。
翠さまの息子としてこれ以上はないと思った。
きっと多くの人々を明るく照らす、天晴な快男子に育ってくれるに違いないね!
でも皇帝陛下も、やっぱり自分の赤ちゃんなだけあって、色々と心を配って素敵な名前を考えてくれてたんだなあ。
「さてあたしも赤ん坊に恥ずかしくない程度にはお母さんも西苑統括も頑張らないとね。ほら央那行くわよ」
「はっ、かしこまりました。ところでどこへ?」
よく分かりもしないのに、返事だけは快活に口にしてしまう私であった。
こういう人間がよく理解できない契約書にポンポンとハンコを押して、後で泣きを見るんですね分かります。
「留守にしていた間をしっかり守ってくれた他の妃にお礼を言いに行くのよ。それとなにかあたしの知らない問題ごとも溜まっているかもしれないから話を聞かなきゃならないでしょ」
「かしこまりました。記録係はお任せあれ」
こうして、凛とした美しい姿勢で西苑統括の務めに戻った翠さまを、私は補佐する。
母としても、統括貴妃としても。
やっぱり私たちの翠さまは、最高だぜ!!
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