二百三話 飛べる!

 切り立った岩の崖に、横穴縦穴を細かく掘って刻んで造られた小獅宮(しょうしきゅう)。

 この施設には、実に結構なことに出入り自由の屋上がある。

 要するに崖のてっぺん、台地部分が屋上の役割を果たしているわけだ。

 屋上はそのまま背後に連なる岩山の尾根に繋がっていて、眼下にはまばらな森林をちょこんと頭に乗せた大小の山岳、丘陵が見渡せる。

 石灰質の白っぽい、あるいは黄色っぽい明るい景色が視界を占領し、なんとも絶景である。

 地上までの高さ的には40メートルあるかないか、くらいだろうか。

 

「人によって見えてる世界が違うから、考え方も違うってことか。なるほどねえ」


 高いところが怖いのか、下を見ないように意識している雰囲気で獏(ばく)さんが感心の言葉を述べた。

 普段は男子女子で完全に分かれた生活をしているけれど、屋上だけは交流がフリーダムなのだ。

 先日にジュミン先生の講義で話し合った内容を、ここで獏さんに伝えたわけである。


「あんたはどうせ女の尻ばかり見てるんだろう」


 翔霏(しょうひ)にズバッと言われて、照れくさそうに首の後ろをカキカキする獏さん。

 屋上でキャッキャウフフしている女性学僧たちを、横目で、しかししっかりとガン見しているのを見逃す私たちではなかった。

 けれど獏さんはすぐに少しばかり真面目くさった顔に変わり、遠くを見つめながら語り始めた。


「小さい頃、家の近所に生えてた大きなイチョウの樹が怖くてさ。夕暮れどきに見ると、妖魔が手を広げて襲い掛かってくるような姿に重なって思えたんだよ」


 獏少年、在りし日のエピソードらしい。

 

「樹はただの樹じゃないか。なにを怖がる必要がある。むしろイチョウは実が多く生るから私は好きだな」


 翔霏はまったく共感できないようだけれど、私は獏さんの気持ちが少しわかる。

 小さい頃、近所にあった廃屋とか、やたら高いブロック塀とか、古くて巨大すぎる団地群になぜか、不安な感覚を抱いたなあ、とね。

 けれど、ただ怖いだけではない、いわゆる落ちの部分を獏さんは続けて話した。


「僕が十(とお)になるかならないかのときにさ、近所の子どもたちからはやし立てられて、そのイチョウの樹に登ったことがあるんだ。あれくらいの樹なら登れるだろうと挑発されてさ。やってやるよ、って気持ちになって、怖いくせに無理して木登りに挑戦したんだ」

「獏さん、チョロいですね」


 おだてたら樹に登るなんとやらじゃん、そのまんま。


「茶々を入れないでくれるかな。それで下手くそなりに、なんとか勇気を振り絞ってイチョウの樹を登ったときにね。樹上から町の景色を見たんだ。家々の屋根が自分の足より下にあるなんて経験は、生まれてはじめてだった。自分が住んでいた町の、本当の姿をそのときになってやっと見ることができたんだ。驚きとか喜びとか達成感とか、とにかくいろいろな衝撃で胸がいっぱいになったのを、今でも覚えてるよ。あまり高いところは相変わらず、苦手だけど」


 思いのほか良い話を聞かされて、私は鼻の奥にツンとしたものを感じ、眼をジワリと潤ませる。

 なにさ、素敵な思い出じゃないのよ、獏さんのくせに生意気だ。

 翔霏も獏少年のチャレンジをバカにすることなく、なにか納得するように頷いた。


「普段と見えている景色、いわば世界が、まさに変わったんだな。地べたを歩いていては決して見えない家の屋根の上を見て、世界の別の姿を知ったわけか」

「そうなんだよ。それからというもの、あれだけ怖かったイチョウの樹が怖くなくなってさ。秋には近所のみんなに混ざって種を集めて食べたもんだ。それまでは本当に、化物のように怖れていて近付くことさえ嫌だったのに。不思議なことってあるもんだな」


 人によって見えている世界が違う。

 それと並行して、同じ人間でも心境や場面によって、世界の見え方は変わる。

 獏さんに限らず、私たちの誰にでもその体験はあるわけだ。

 イチョウを登らずに大人になったら、きっと獏さんは覇聖鳳(はせお)に焼かれて燃え盛る中書堂の欄干から、飛び降りることができずに焼け死んでいたかもしれないね。

 

「すべてのものはいつまでも同じではない。常に移り変わり一つ所に留まることはない。まさに沸(ふつ)の教えそのものだな」


 流れゆく雲の形が変わるのをぼんやりと眺めながら、翔霏が言った。

 諸行無常と万物流転。

 生命も非生命も姿形、役割を変化させて世界中をぐるぐる循環しているという世界観は、沸教(ふっきょう)のもっとも基幹となる命題である。

 その理屈で言えば神はいつまでも神ではないし、悪い人も心変わりして善人になるし、いつかこの世界は滅びてまた別の世界が始まるのかもしれない。

 悪魔だと思い込んでいたイチョウの大木が、いつしか楽しい遊び場になり、美味しい実をもたらす恵みの源となるように。

 

「僕もここで修業を頑張れば、帰った後で出世できるかなあ」


 いったいなにを頑張っているのか私たちにはわからない獏さんが、切実な声で自問した。


「偉くなった獏さんというのを正直、想像できませんね」

「まずは女癖を直せ」


 私たちから冷たいアドバイスを受けた獏さん。


「おっと、そろそろ戻らないと寮長にどやされる。じゃあまたね」

 

 説教が続いてはかなわないと思ったのか、逃げるように男性側の宿舎に戻った。

 私たちは引き続き、日向ぼっこと雲の観察である。

 たまにはのんびり遠くを見る時間が必要だと百憩(ひゃっけい)さんに言われてから、意識してそう言う機会を作るようになったのだ。


「あの雲、人間の赤ちゃんみたい。明晴(みょうせい)さまは元気かなあ」


 ふわふわもこもこの丸っこい雲を見て、私は翠(すい)さまの赤子の安否を思う。


「もう夏も終わるな。帰る頃にはどれくらい大きくなっているだろう」


 飴玉を舐めながら、翔霏が私の雑談に乗る。

 小獅宮でいつまで暮らすのか、まだ見通しは立たないけれど、赤ちゃんの成長は早いからね。

 なんて、のどかに青空のおやつタイムを楽しんでいたら。


「飴、いいな」


 なんか、突然現れた知らん少年に巾着袋を凝視されてる。

 丸坊主で日に焼けた、私より少し若いくらいの男の子が、飴玉に向けて超・物欲しそうな視線を向けていた。


「欲しけりゃあげるけど」


 ケチるほど高価なものでもないので、私は袋から取り出した飴を一つ、おまけに二つ、と彼の掌に乗せた。

 これで満足するだろうか、と思ったのだけれど。


「こっちは五人いるんだ」


 坊主の男子は、軽く後ろに首を向ける仕草をして、お仲間が他にもいることを私に示した。

 なにかの棒やら、大きな布やらを手に抱えた年代もバラバラな男性たちが、少年と合わせて確かに五人いる。


「わかったよう。奮発してたくさんあげちゃうからねー」


 半ばヤケ気味にじゃらじゃらと、私は彼の手に十数個の飴を広げた。

 少年は実に満足そうに、屈託のない笑顔を見せて。


「良い心がけだ」


 と、謎に上から目線の称賛を私に与え、仲間の元へ駆けて行った。

 さすがに想定していなかった反応で、ポカーンと取り残される私。


「なんだあいつ、礼も言わずに」

「いいっていいって、気にしないでおこうよ」


 翔霏が「いっちょ文句でも言ってやろうか」という雰囲気でガルガルし始めたので、私はそれをやんわりと抑える。

 少年を含めた男性たちは、まさに崖の縁と言うべき屋上の端っこギリギリに集まって、私が提供した飴を舐めながらやいのやいのと議論を始めた。


「今日は天気も良いし温かく空気が澄んでいる。行けると思う」

「温度は関係ないと、前に結論が出たのではなかったか?」

「少なくとも向かい風が崖に当たって、上方向に流れているようだ。今日以上の条件はないだろう」

「ごちゃごちゃ言ってねえでよ、やるならさっさとやろうぜ」

「焦るな、道具に不備がないかを確認してからだ」


 訛りがキツくてうまく聞き取りにくかったけれど、おおよそそんな感じのことを話し合っていた。

 様子を見ていると、男たちは持ち寄った細い竹の棒を、これまた細工を仕掛けていたらしき布に通して、なにかを組み立てて行く。

 それは、私のような日本人にとっても、ごく見慣れたものに似て。


「凧(たこ)を飛ばすのかな?」


 細い棒を骨組みのように巡らせて、鳥のような、あるいはパラグライダーのような形を得た、面積のある布の幕。

 それは子どものオモチャとして昭和の懐かし映像などで見た、ゲイラカイトという凧の一種にそっくりであった。

 大きさはその何倍にもなるけれどね。

 もっとざっくり言えば、風の谷の姫さまが乗って空を飛んでいた、メーヴェと言う名のアレ。

 気持ちよく風の通るここ屋上ならば、凧揚げによる浮力空力の実験観察にうってつけということだろう。


「まさか、空を飛びたがってるアホどもというのはあいつらか」


 呆れた顔で翔霏は、飛行同好会男子の作業を見つめる。

 一人が試しに玩具の鳥、要するに紙飛行機的なものを一つ、崖から中空へと飛ばした。

 風を受けて悠々と遠くへ飛び去って行く。

 かなり巧みに作られた模型のようで、点のような小ささになるまでずっと、墜落せずに空中遊覧を成し遂げていた。

 崖の下にぽつぽつと点在する、まばらな林のどこかに入りこんで、鳥模型は見えなくなった。


「すごっ。あれ難しいんだよ」


 小学生のときに私も「紙飛行機どこまで飛ばせるか大会」を自分一人で開催してチャレンジしていたからわかる。

 紙飛行機は風の影響を受けてゆったりと飛んでくれるのだけれど、風の影響が強すぎると機体が軽いためにあっと言う間にひっくり返る。

 軽さを捨てると重力に負けて遠くまで飛ばないし、かと言って軽すぎると風力で飛行が乱れて墜落する。

 そのバランスと戦わなければ、質の良い紙飛行機は作れないのである、と私、談。


「石投げの紐を使えば私もあそこくらいまでは石を投げられるぞ」

「いや、そう言う勝負じゃなくてね」


 翔霏にはわかってもらえない世界らしい。

 見事な模型飛行物体を崖から飛ばし得た男性たちは、互いに「ウム」と言いたげな納得の顔で頷き合い。


「よし、じゃあ誰が飛ぶ?」

「ここは俺が」

「いやいやなにを言う」

「歳の順で飛ぶという話ではなかったか?」

「むしろジジイはすっこんでろよ」


 と、別の議論を始めたのだった。


「まさかあの男ども、あの大凧に乗って縄も付けずに飛ぶつもりか。落ちて助かる高さじゃないぞ」

「う、うん。そだね」


 無理だと決めてかかっている翔霏の言葉に、私は曖昧な返事を呟く。

 彼らが作った模型飛行機と、本番とも言える竹と布製の大凧を見て。


「ひょっとしたら、上手く行くんじゃないかな」


 ちらりと、そう思ってしまったからだ。

 高所恐怖症の獏さんがイチョウの樹に登り、燃え盛る中書堂からも飛び降りることができたように。

 飛べると信じるだけでなく、そのために最大限の努力をしてきたであろう彼らなら、きっと。


「どうして周りの誰も止めないんだ。同じ小獅宮の仲間だろうに。あいつらがどうなろうと知ったことじゃないが、目の前で落ちて死なれても夢見が悪い。ちょっと言って来る」


 態度を決めかねている私を置いて、ずかずかと翔霏が男性たちのいる崖っぷちへ、力強く歩いて行った。

 きっと、それが人として正しいことなんだろう。

 そう自分に言い聞かせて、私も翔霏の後に続いた。

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