二百二話 因果の根元

 岩崖に掘り込まれ造られた小獅宮(しょうしきゅう)の三層め、西奥に位置する講堂である。

 講義の始まりに合わせて、講師役を務めるジュミン先生――彼女は百憩(ひゃっけい)さんの姉でもある――が、一同を見渡してこう質問した。


「新しいお仲間もいることですし、ここでひとつ、思考の体操をしましょうか。さて、みなさんは『人はなぜ病を得るのか』という問いに、どう答えますか?」


 素朴で、しかしながら医学薬学を学ぶにあたっては根源的とも言える、重い質問だ。

 なぜ人は病気になったり怪我をしたり、体調が悪くなるのだろうかという疑問は、誰でも一度は胸に抱いたことがあるだろう。

 一番前の席に座っている、赤い髪の女性が起立して次のように答えた。


「心身が不調の際に徹夜や不摂生などの無理をする本人の問題、いわば内的要因と、疫病の流行や不衛生な環境がもたらす外的要因とが重なり合い、人は病を得ることが多いと思います」


 私も似たように考えた答えを、先に言われてしまった。

 病気になる場合はたいてい、健康状態などに代表される自分の体のトラブルと、周囲の環境の問題が大きいと思う。

 あとは遺伝的な疾患もあるけれど、それも自分の体の中に原因があるという意味では、赤髪さんの解答にある「内的要因」に含まれるだろう。

 しかし、優等生的な模範解答を聞いたジュミン先生は、わずかに首をひねって苦笑いし、こう言ったのだった。


「あなたが言ったのは『どのように』病がもたらされるのかという、状況と機序(きじょ)を説明したに過ぎません。その説明では、人が『なぜ』病むのかという問いに対する答えにならないということは、わかっていただけますか?」

「え? そ、それは……」


 困惑する赤髪さんと同じく、私もジュミン先生の言葉にハッとしてしまった。

 私たちは普段、どのように、という「HOW」の概念と、そもそもいったいなぜなのかと言う「WHY」の解釈を、ごっちゃにして物事を考えてしまっている。

 細菌やウイルス、運動不足や高カロリー食事で病気になるのは、あくまでも「人はどうしたら、どのように病にかかるのか」という「HOW」の説明でしかない。

 状況やシステムを理解し並べたところで「WHY」を解き明かすことはできないのだ。

 私たちの戸惑いを見透かすように、ジュミン先生はひとつ、とても分かりやすい例を出した。


「誰であっても、普通に暮らしているだけなのに、不幸にも重い病、大きな怪我に見舞われることがあります。そのときにみなさんは、こう考えたはずです。どうして私がこんな目に、なぜ私ばかり、こんな辛い思いをしなければならないの、と。そのとき抱いた『どうして、なぜ』の理由を、今日は考えようじゃありませんか」


 ジュミン先生の言いたいことがみんなに伝わったのか、講堂内の空気が少し、変わったように思えた。

 どのように人は病むのかを考えるのは、いわば科学的な知識の範疇だ。

 客観的な事実を基に、仮定や推論を重ねて行けば、まあまあ妥当な結論を導けるだろう。

 けれど、そもそも人はなぜ病み衰え、老いて死んで往くのかを考え始めたら、その答えに辿り着くことは容易ではない。

 ぶっちゃけ、誰にもわからないじゃん、それ。

 と一瞬思ったけれど。


「なるほど、答えがあるのかないのかわからないことを考えるからこその、頭の体操と言うことか」


 フムフム、と意外にも興味深そうな面持ちで、私の隣に座る翔霏(しょうひ)が呟く。

 真面目に講義に参加してくれている姿勢が嬉しいのか、ジュミン先生はニコっと笑って翔霏に問いかけた。


「なにか、これはと言う考えが浮かびましたか。気軽にお答えいただけると私も嬉しいです」

「そうだな。なぜ人は病むのかということなら、答えは決まっている。生きているから病むんだ。この世に生を受けた以上、病気や怪我、老いは付いて回るものだと納得するしかあるまい。もちろん、日々の心がけで治すことも減らすこともできるだろうが」


 それを言っちゃあおしめえよ。

 と思わないではないけれど、私も翔霏に同意。

 本当の意味で根源的な理由を探すのであれば、私たちが生きてこの世にいるから。

 存在しているからこそ、すべての問題は付随するという認識は、究極にして絶対である。

 やりたいようにやって、その結果としての呪いを今まさに体に受けている翔霏ならではの視点だね。

 青牙部(せいがぶ)相手の敵討ちも、その果てに受けた呪怨も。

 翔霏が翔霏であればこそ、避けることはできない道だったのだ。

 自信満々な翔霏の答えを面白そうに聞いていたジュミン先生。

 少し意地悪な笑みを浮かべて、重ねてこう訊いて来た。


「生きているからこそ、という答えは、確かにその通りと言えます。では、なぜ生きとし生けるものたちは、病、老、そして死の運命を背負わされてしまったのでしょうか? そんな忌まわしいもの、なくてもいいではないですか。老いも病もなければ、死の不安もなければ、さぞ楽しく幸せなことでしょうにと私は思うのです」

「むむ……? そんなことを言ったところで、人はどうしたって死ぬのだから仕方あるまい……」


 ジュミンさんがさらに一段階、別の次元で問いを投げかけたことで、翔霏も答えるべき言葉を見失った。

 これを子どもじみた屁理屈のやり取りだと、掃いて捨ててしまうことは簡単だ。

 けれどジュミンさんはこの、一見してバカバカしいような問答をあえて重ねることで、普段の私たちが見過ごしがちな「根源的な問い」に気付かせてくれているのではなかろうか。 

 なによりこういう自由課題を与えられたときは、斜に構えて「答えない」という選択をしても、なにひとつとして学びがない時間を過ごすことになる。

 なにかしら、なんでもいいから思ったことを発言してみて、それを材料にまたあれこれと考えた方が良いのだ。

 私は半分ほどしか考えがまとまらない中で、おずおずと挙手。


「央那さん、なにかありますか?」

「はい、自分ごとで申し訳ないんですけど」


 前置きして、自分の意見を述べてみる。


「私、変な夢を見ることが多かったんです。疲れているときとか、色々としんどいことが重なっているときに、暗い部屋を歩いている夢とか、海に浮かんでいる夢とか、高い所から落ちる夢とか」


 北原麗央那、鉄板ネタの夢遊病エピソードである。


「落ちる夢は、たまに私も見ます。目覚めて体が無事だったことを確かめると、ほっと安心しますね」


 ジュミン先生もよくあることだと共感してくれた。

 私は頷きを返して、続きを話す。


「変な夢を見るときは、たいてい問題ごとが重なっていて、それを考えすぎて心が疲れているときだと、私は感じたんです。実際に、夢を見たあとは少し頭がすっきりして、どうしてこんなことで悩んでいたんだろうと気持ちを切り替えることができたように思います」


 私の話を聞いたジュミン先生は、ほう、と好奇心が刺激された顔を見せ、言った。


「ならば央那さんにとって、おかしな夢を見ることは心の安寧に、役に立っていたと?」

「はい。この経験から私は考えるようになったんです。病や体の不調でなにかおかしなことが発症するというのは『私たち自身の心と体が、治りたがっているからこそ』だと思うんです。人が病む理由は、治りたいという身体からの信号が出ているから。人がなぜ病むのか。その答えの一つは、治りたいと心身が願っているからこそ、病と言う形になって表れるのだと思います」


 風邪を引いたらなぜ熱が出るのか、と言う話だ。

 人間の体は体温を上げることで免疫機能を高めて、菌やウイルスを体から追い出そうとする。

 熱にうなされている間って、自分は病んでいると弱気になってしまうものだけれど、その内実は「体が病魔と闘っている、治ろうとしているからこそ熱が出る」のである。 

 もちろんこれも生命、生物の体が持っているシステムであって、状況の説明でしかないかもしれない。

 けれど根本的な問いの答え、その一つとして。

 体は、治りたいと思うからこそ、病を発症するのだ。

 私たちの体には、病魔に負けたくない、治癒しなければならないという、強固な悪あがきのプログラムがDNAレベルで書きこまれているのだから。


「治りたいからこそ病む、ということですか。軽く聞いただけだと相反する、転倒した見解に思えますが……」


 少し難しい面持ちで考えたのち、ぱあっと明るい顔に変わり、ジュミン先生が声を張った。


「美しく、そして希望の感じられる論理です。様々な悪い条件が重なり、病に負けてしまう場合はもちろんあるでしょう。しかし、人の身体と魂は、最初から病に負けるつもりはないのです。必ず治るのだという強い力の奔流が、咳や発熱、痛みなどとして表れる、それが央那さんの考えでしょうか?」

「はい、だいたいそのようなものです」

 

 満足そうにジュミン先生は頷いてくれた。

 けれど私の言い分に引っかかるところがあるのか、後ろの席にいた長い三つ編みの女性が腰を上げ、反論を述べる。


「治りたいから病むというご意見、確かに興味深いところではありますが、それでは閉じた輪の中で論理が循環していませんか? なぜ病むのかという問いに対して、病むこと自体が条件として語られてしまっては、因果を説いていないと思うのですが」


 難しいこと言う姉ちゃんだな、おい。

 まあでも私の言い分も半ば詭弁に近いので、この手の反証が出るのは仕方ないね。

 さらにまた別のところから、別の人の意見も上がる。


「ハァうちのおっ父がよォ、勘違いで呪いさかけられっちまって、まんず一年も足萎えンなっちまったことあるんだわさ。いっこもイイ話でねえし、なンも救いさなかったでなァ。なしておっ父がこんな思いをってな塩梅で、あン頃はうちもおっ母もいっつも、ベソかいてたもんだあ」


 痛ましい話だなあと思う。

 まったく自分たちに責任がないのに、他者から悪意を向けられ、実際に危害を受けるなんて。

 その後も講堂にいるみんなの意見を、数多く聞いた。


「わっちの里では、池に悪さをすると足腰がただれるという言い伝えがありんす。池を綺麗に保つ方便かと思っとりんしたが、実際に池の中で粗相をしたものが、大事なところを腫らしんしたなあ」

「やはり天は見ているのです。天神に恥じぬ暮らしを送っているかどうかで、病にかかるか、かかっても癒えるかが変わって来るのではないでしょうか」

「あたしゃ、ただの偶然でしかないと思うけどねえ」

「んだんだ。性悪なくっせによお、威張って良い思いしちょる金持ちや役人ばっか、叩き売りするほどいるでねっか」


 彼女たちの様々な意見を聞いているうちに、一つ気付いたことがある。

 なぜ、どうしてものごとは、私たちの意志を超えたところで善くも悪くも転ぶのか。

 因果の答えはきっと、人それぞれの世界観、世界の観えかたを表すのだ。

 見えている世界が苦痛に満ちている人は、万事の因果を苦しいもの、厳しいものにとらえがちで、ともすればそれは悲観主義や厭世主義に傾く。

 逆に、自分が幸せであり、世界は素晴らしいと思っている人は、因果を問われたときも明るく前向きな答えを見出す傾向にあるのではないか。

 幸不幸は自己責任だという視点も、運命や偶然の産物であるという視点も、どちらも間違いではなく認識の差異でしかないのだから。

 講義の終わりが近付き、ジュミン先生が区切りの言葉を告げた。


「このように、万物諸事の因果を考えても、答えを一つに定めるのはとても難しいということがわかりました。ならば、そのような問いは無意味で、徒労に終わるのでしょうか。私はそうは思いません。今、私たちは『答えが沢山ある』ということを、まさに知ることができたのです。考えたところでどうせわからない、と投げ捨てるよりは、よほど素敵で意味のある時間だったと思いませんか」


 全員が納得しているかどうかはわからない。

 けれど私は心の中で深く頷き、その教えを受け止めた。

 ジュミン先生は、今回の質疑と議論を通して「誰しも見ている世界は違う。世界の捉え方が違う」と言うことを、実地で教えてくれたのだ。

 人間、どうしても明快で単純な「たった一つの答え」を求めがちだ。

 けれど、正解なんて本当はいくつあっても良い。

 いくつもあるなら、いくつでも考えて、たくさん知れば良いと認識することは、現実的であると同時に、とても優しく寛容な考えかたなのだ。


「先生は恒教(こうきょう)の考え方も、否定はしないのだな」


 翔霏も感心したように呟く。

 人の禍福や運命が天道に従うというのは、恒教が強く説くところだ。

 その理念に心服しているかどうかはもちろん個人差がある。

 けれど昂国に暮らす人の大部分はその考え方が染みついていて、やんわりと天命論を受け入れながら、日々を暮らしている。

 涼(りょう)子春(ししゅん)と言う名の一青年が誰よりも尊い皇帝陛下であり、それは天が定めたのだから必ずそうなのだ、と言う具合にね。

 ジュミン先生はそれを肯定した上で、別の視点も同時に肯定するのだ。

 私たちは今、色んな縁あってこの岩窟の講堂で、同じ講師から医学薬学を学ぶ仲間となった。

 その一体性を踏まえた上で、一人一人が観ているヴィジョン、心に持っている世界は違うことを、ジュミン先生は知らしめる必要があったのだろう。


「今日は薬の話を聞けませんでした」


 少し残念そうに零(こぼ)した江雪(こうせつ)さん。

 彼女もまた、この講義に取り組む姿勢、期待することは私と少し違うのだ。

 その違いを楽しめと、心の中でもう一人の自分に言われた気がした。


 さて。

 そもそも私はなぜ、煙立ちこめる東京の雑貨屋から神台邑(じんだいむら)の郊外にすっ飛ばされたのでしょうね。

 因果を真に理解するためには、まだまだかかりそうだぞっと。

 

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