二百一話 女大学

 巌窟の中の温泉。

 それだけでテンションが上がると言うのに、思いがけず古代生物の化石にまで出会えてしまった、幸運すぎる私。


「あ、つい恐竜って言っちゃったけどモササウルス属は厳密に言うと恐竜じゃなくてね? 爬虫類の中でも蛇とか大トカゲに近い種族で、まあざっくり言っちゃえば『海にいる超でっかいトカゲ』みたいな感じ? だから鳥と同じ分類って言われてる普通の恐竜、ティラノさんとかトリケラさんとかとは結構違うんだけどあっあっ」


 いったい誰に聞かせているのかわからない解説を、超早口でまくしたてるオタクと化した私。

 たまにあることだとすっかり慣れてしまった翔霏(しょうひ)は、湯船のお湯をぺろりと舐めて不思議そうな顔をした。


「塩辛いな。まるで海の水だ」


 どうやらここの温泉は、塩水であるらしい。

 もちろん私は聞かれてもいないのに、そのことについてもマシンガントークでべらべらと喋り倒す。


「きっとここは何億年か前に海底か海岸だったから石灰質の岩石が多いんだと思うよ! どうして海だと石灰が多いんだってのは、珊瑚や貝が化石になると石灰になっちゃうからでね、えっとえっと、でもモササウルスは深海の生き物じゃないからそんなに深い海の底じゃなかったと思う! 温泉がしょっぱいのも太古の昔に岩の間に閉じ込められた海水か岩塩層が地下に眠ってるからで、あと塩分が濃かったら擦り傷とかあるときに超絶に染みるから気を付けてね!」


 茨城の浜辺にいい感じの海水温泉があるのだけれどさ。

 海で遊んで日焼けしたときに入ったら、体全身が紙やすりでこすられてんのか、ってくらいの痛みに襲われたからね、あたしゃ。


「まあ、お詳しいのですね」


 わかっているのかわかっていないのか、鷹揚におっとりとした声で江雪(こうせつ)さんが感心してくれる。

 翔霏と江雪さんはもう体を洗い終わり、私の興奮を置き去りにして湯船に浸かった。

 はぁー、と幸せそうな吐息の後で、江雪さんが言う。


「でも、昔々に生きていた蛇の仲間ですか。それならわたくしのご先祖さまかもしれませんね、ふふふ」


 大きめな口をにっかりと機嫌良さげに吊り上げ、江雪さんが笑う。

 彼女の生まれである楠家(なんけ)は、八畜の巳族(しぞく)、いわゆる蛇であったな。

 だから子(ネズミ)の氏族に由来を持つ博柚(はくゆう)佳人から、警戒され眼の仇にされていたのだ。

 蛇はネズミを丸飲みにするからね。


「確かにピリピリする感じがあるが、それもまた気持ちいいな……」


 湯船の中、だらーんと四肢を伸ばして温泉成分を堪能している翔霏。

 私もオタ活にいい加減の区切りをつけて、当たり前にお湯を楽しもう。


「ンギィ、心身のいろんなところに効ッくゥ~~ッ」


 かなりの塩分濃度を誇るその温泉に全身を浸す。

 お肌よ綺麗になあれと必死で体全身をさすり、美肌成分を体中に擦り込む。

 毎日じゃなく順番当番制だとしても、この温泉に入れるだけで小獅宮(しょうしきゅう)にはオンリーワンの価値があるわ。

 ここで暮らしていれば女っぷりも上がっちゃうかも、ウフ。


「翠(すい)さまもお家や信仰の問題さえなければ、ここの極上の湯に入れるのになあ」


 などと、私は遠く離れた主人に思いを馳せる。

 私の吐露した言葉を聞いた江雪さんが、大きめのお乳を湯に浮かばせながら訊いてきた。

 なにを食べたらそんなに痩せ巨乳になれるのか、後で教えてもらおう。


「翠貴人は、沸の教えや西方の僧がお嫌いですか」

「いやあ、本人はどうでもいいと思ってるっぽいですけど、お家が堅いので」


 角州の名士として古くから恒教(こうきょう)を、特に八氏族を中心とした社会秩序の維持に心を砕いてきた、ご先祖さまから続く伝統。

 司午家(しごけ)が担ってきたものは長く、重いのである。

 翠さま自身にその伝統に逆らう動機や理由などありはしないので、基本的に沸教に深く関わることはない。

 呪いを解くために百憩(ひゃっけい)さんが遣わされたのも、あくまで緊急の対処だからね。

 司午家からしてみれば、沸の連中が余計なことをしたんだから、同じく沸の連中が尻拭いをしてくれないと困るぞ、くらいの意識だったんだろう。

 浴槽に全身を沈め、顔だけ水面に出す面白ムーブをしながら翔霏が江雪さんに尋ねる。


「翠蝶(すいちょう)殿下とは、あまり親しくなかったのですか」

「ええ、わたくし、朱蜂宮(しゅほうきゅう)に仲の良い方は一人もいませんでしたから。田舎貴族の出自なのでそう言うものかなと思っていましたけど」


 うう、胸を刺す言葉だ。

 私もね? 小学校から中学校に上がったとき、学区が混じって変わったりしたせいで、仲良かった子がクラスに一人もいなかったりしてね?

 いやあ、なんとなくクラスに溶け込めていないまんま、中三になるまで過ごしたのは私の振る舞いに問題があったんだろうなと、思春期を過ぎた今では思うけれどさ。

 あの時間は、なんとも言えねえ閉塞感とか、寂しさがやっぱあるわけよ。

 別にいじめられていたわけじゃないし、家に帰れば平和で幸せだったので、私はグレることなく家出をすることもなく、普通の女の子になれましたのでご心配なく。


「江雪さんは自ら一念発起して、ここ小獅宮に来たんですねえ」


 ぼんやり温まって曖昧になった意識で、私は呟く。

 この人も、自分の道を、変わるための一歩を踏み出せた人なんだ。

 私の感嘆に、あくまでも簡単な、些細なことだといういつもの口調と穏やかな表情で、江雪さんは答えた。


「幸いにも、わたくしは蛇の氏族に生まれたおかげか、薬理薬術に多少の異能があるようです。この力を少しでも世のお役に立てられたならと思い、こちらで学ばせていただくことにしました。為すべきことが定まっているという暮らしは、楽しいものですね」

「立派な心がけだ。そうか、蛇は毒、毒は転じて薬になるのか……」


 眠ってしまいそうなほど気持ち良さそうになってしまいながら、翔霏が呟く。

 

「そのまま寝たら溺れるからね、気を付けてよ」

「うむ……」


 あなたってば、ただでさえ泳げないんだから、と私が注意する。

 でもこの温泉、塩分濃度が高いからか、真水より良く浮かぶ気がするな。

 試しに背泳ぎにチャレンジしてみたら、前よりも上手にスイスイ泳げている気がする。


「まあお見事。まるでカワイルカのようですね」

「えへへ、それほどでもぉ」


 つたない泳ぎっぷりだけれど、江雪さんに褒めてもらっちゃった。

 その口ぶりだと、カワイルカを実際に見たことがあるようだな。

 小獅宮の近くに生息しているのだとしたら、それを見ずに帰るわけにはいかんぞ。


「ぶくぶくぶく……」

「って翔霏、言ったそばから沈んでんじゃん!!」


 疲労が溜まっていたのか、あまりの気持ち良さからか、ほぼ意識を失った翔霏がお湯の中に沈みかけていた。

 結局、のぼせ上がった翔霏を江雪さんの手も借りて部屋に運び、湯あたりから回復させてその日は終わった。


「明日から私たちも他の女僧さんたちと一緒に、お勉強と修業の日々だよ。翔霏は準備できてる?」

「ん……なんとでもなる……」


 勉強が得意か苦手かだとか、周りのみんなに付いて行けるだろうかという心配は、翔霏にはない。

 細かい数字を意識しない翔霏の世界観には、ノルマや成績といった概念がそもそも希薄なのだ。

 自分が困らないことに関しては実に適当と言うか、どうせ死ぬわけでもない、と言うがごとき大らかな態度で、堂々と受け止め、受け流し、やり過ごす。

 そう考えると翔霏の算数障害は、欠点ではなく確かな個性なのだよな。


「解呪の手掛かりが、早く見つかると良いね」

「そうだな。しかしここの環境なら、多少時間がかかっても構わないと思えて来たよ。あの老師の言い分に感化されてしまったかもしれん。おかずに肉が少ないのは寂しいが、暇を見つけて私が狩りに行けばいいか」


 焦らなくても。

 信じて続けていれば、いつかきっと果たせるという、小師さまの説諭。

 時間の長短や手間、苦労の大小なんかは些末な問題なのだ。

 果たせるまで信じて取り組めるかどうかでしかないという考えは、とてもシンプルであり、同時に優しく、希望に満ちたものだと私も思う。


「イワダヌキとかカワクジラを食べながら、のんびり頑張ろうか」

「ああ。風呂場にあった骨のような巨大な獣が、ひょっとすると今でもどこかに隠れているかもしれん。引きずり出して食ってやるさ」

「恐竜、どんな味がするんだろう」


 私と翔霏は和やかにそんな話をして夜を過ごし、修業初日の朝を迎えた。

 江雪さんが私たちを迎えに来て、段取りを教えてくれる。 


「小獅宮の中には、皆が学ぶための講堂がいくつもあります。今日は三層目の西奥へ行きましょう。病理薬理に詳しい方がお話してくれるようですから、呪いのことにも話が及ぶかもしれません」

「わかりました。なにからなにまでかたじけない」


 翔霏が丁重に頭を下げ、江雪さんの導きに従う。

 私も筆記用具を抱え、いざ講堂へ。

 受験で受かった東京の高校には、いろいろあって通えなかったけれど。

 今いる岩の中の学び舎だって、きっと大事なことを私に教えてくれるに違いない。

 そう信じて、未だ知らぬ学問の入り口をくぐる。


「初めての方がいらっしゃいましたね。今日からよろしくお願いします」


 大石板の前、おそらくは教壇教卓と呼ぶべき場所にいたおかっぱ頭の女僧さんが、私たちを見て挨拶した。

 若々しく見えるけれど落ち着いた佇まいに、凛とした背筋。

 男性か女性かパッと見では判別しにくいその面持ちを目の当たりにして、私はつい疑問の声を上げる。


「百憩(ひゃっけい)さん? 皇都にいるはずでは?」


 私が良く知る中書堂の怪僧に、あまりにもそっくりだったからだ。

 けれど、簡素な法衣の奥でおっぱいがやんわりと膨らんでいるので、別人ではあるのだろう。

 戸惑っている私にニコリと微笑みかけて、女体化百憩さんが自己紹介した。


「私はジュミンと言います。昂(こう)の国に行くときは『十眠(じゅうみん)』と名乗っています。中書堂の百憩は私の双子の弟なんですよ」

「お、お姉さまでしたか。いやはやよく似ておいでで」


 そう言えば百憩さんも医術療術のエキスパートだったね。

 姉弟揃って、その道の専門家、求道者なのだな。


「いつも弟と仲良くしていただいているそうで、私からもお礼を申し上げます、央那さん」

「いやあ、それほどでもないっスけど」


 なんだよ百憩さんのやつ、お姉さんへの手紙に私のことを書いてたり、里帰り中の世間話で私の話題を出してたりするのかな。

 どうせろくな話が伝わってないだろうし、恥ずかしいからやめてよね。


「さあ、好きな席にお座りください。お集まりのみなさま今日も一日、共に学びましょう。一日学ぶことの積み重ねだけが、学び続けることを完成させ得るのです。学び続けることだけが、答えと理(ことわり)に近付くたった一つの道なのです」


 前置きをさっくりと済ませて、ジュミンさんの講義が始まった。

 それは女大学(おんなだいがく)とも言うべきこの施設での、私と翔霏の新しい日々が、本当の意味で始まった瞬間でもあった。

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