二百十話 絶叫西国日誌

 二日目。


 重い症状を発している子どもたちが一つの区画に集められ、私はその子たちの看護にあたっている。


「熱か、熱かばい、雨雪(あめゆき)ば取って来よらんね……」


 まだ冬は遠いというのに、ある女の子は熱にうなされて「みぞれが食べたい」とうわ言のように口にするようになった。


「ほら、おねえちゃんが頑張って山まで行って取って来たよ、いっぱいお食べ」


 井戸で冷やした梨の実をぐじゅぐじゅに潰したものをみぞれに見立てて、私はその子の口元へ匙を寄せる。

 うつろな目でそれを一口だけすすった女の子は、つきものが取れたように柔らかく微笑んで。


「うまかっちゃん……」


 そう言って昏睡したきり、二度と目を覚まさなかった。

 私はあまりの悔しさに壁に頭を打ちつけまくって、怒りと憤りで必死に涙が流れてしまうのを抑えた。

 狂ったように壁に頭突きしてたら、失血と痛みでいつの間にか、気絶して寝ていた。

 

 三日目。


「痒い、痛い、痒い、痒い……」

「だめ! 掻き毟ったら余計に傷が広がっちゃう!」


 痘瘡の患部をずっと指でひっかいて、血まで流してしまっている男の子。

 私は彼にがばっと抱きついて、手の動きを戒める。

 正面から抱き締める私の背中に爪を当てて掻き毟るようにしながら、男の子は泣いて喚く。


「もう嫌じゃあ、もう嫌なんじゃあ、オラもおっ母の待っちょる虚空に行きたいとよ。ねえちゃんはどがんして邪魔するったい」


 疫病が流行の兆しを見せた初期、最も早い段階で彼のお母さんは亡くなっていた。

 おそらくはお母さんからうつされた病が、今度はその息子の命を狙って心身を痛めつけている。

 医療の過酷な現実を目の当たりにして。

 私は本当の意味で、ジュミン先生の気持ちも理解した。

 こんなクソ病、この世から消えてなくなっちまった方が、絶対に良い!

 お母さんを失い、自分までも苦しんでいる私の腕の中の男の子。

 彼が一体、どんな理由があってここまで苦しまなきゃならないんだよ!!


「お母さんだって、きみが病に負けることを望んでないはずだよ! 一緒に生き残って、美味しいものを食べたり楽しいことをいっぱいしようよ! おねえちゃんはね、こう見えてお金持ちの知り合いがたくさんいるから! もうどこへだって連れてってあげちゃうよ!!」

「美味いもん、腹いっぱい食えるとたい?」

「うん、たくさんご馳走してあげるよ! 豆腐は好き? 昂国(こうこく)の都に、名店があるの知ってるから!」


 気休めでしかないと他人は笑うだろうけれど、本心から私は提案する。

 回復して生き延びた子どもたちを連れて、河旭(かきょく)の街を観光するなんて、なかなかイケてるアイデアじゃないか。

 費用はまあ、翠(すい)さまとか博柚(はくゆう)さんとか、誰かが出してくれるでしょ!

 大事なところは偉い人任せ、それが北原流処世術奥義である!!


「せっかく太か街ば行くンに、豆腐なんぞ食うてもつまらんばい」


 気力を取り戻した笑みを浮かべた彼は、その後にどんどん復調した。

 この調子なら痘瘡はかさぶたになり、それが固まって剥がれるのを待つばかりだな。


 四日目。


「赤ン坊に、わーしの子に会わせてくいやんせ。後生じゃ、今生一度のお願いったい」


 症状の出ていない若いお母さんが、重症で隔離された我が子に一目会いたい、お乳をあげたいと懇願してきた。

 今までは、重症患者の区画と健全な人の区画は、絶対不可侵として混ざり合わないようにしていた。

 けれどこの奥さんの言い分を認めてしまえば、発症者とそうでない人の区画が曖昧になってしまう。

 両方の区画を行き来できる人が存在してしまうと、せっかく厳密に分けた境界の意味が消失してしまうのだ。


「そ、それは……」


 私のようなおぼこ娘は、母子の強い愛情に深く介入できない。

 絶対にダメです、と突っぱねてしまったら、このお母さんは心を病んで発狂したり、最悪は自殺してしまうかもしれない。

 一生に一度のお願い、とまで言ってこの場に来た母の心は、それほどまでに重いはず。

 せっかくまだ病魔に侵されていない、健康な体なのに、やはりお腹を痛めて産んだ我が子と言うのは、理屈を超えた絶対存在である。

 こういう場面で正論はまったく意味を持たない。

 若いお母さんの心を慰撫しながら、同時に表面上の理屈も通すなんて芸当、人生経験の浅い私には、できっこないよ。

 上手いことを言えず、でも若奥さんを部屋の中に入れることもできず、だんまりの通せんぼを貫いていると。


「こんにちは」

「あ、ジュミン先生、お疲れさまです」


 医療団の全体を監督しているジュミン先生が、見回りに来た。

 私たちの話を途中から聞いていたようで、若いお母さんの目をじっと見つめて、ジュミン先生は言った。


「今、あの子は唇に痘瘡が及んでいて、上手く乳を吸えない状態にあります。あと二、三日、様子を見て報告しますので、そのときにまたいらしてください」

「あ、明後日かそん次ね? 本当やね?」


 ジュミン先生の言葉に奥さんは、切なさと喜びとの入り混じった、とても複雑な表情を浮かべた。

 明後日辺りには快方にあるかもしれないと、高名な医者が言っているのだ。

 今は会えなくても、それは大きな希望となるだろう。


「はい、それまで奥さまもしっかり食べ、しっかり休み、お身体に気を付けてください」

「ええ、ええ、お任せしたとよ、先生らも気張っておくんな」


 一縷の望みがつながった。

 そんな顔を覗かせて、奥さんは戻って行った。

 彼女の背中をずっと見つめていたジュミン先生が、ぽつりと私に問う。


「央那さんは、私を嘘つきだと軽蔑しますか。この場しのぎのデマカセを口にする藪医者だと責めますか」

「そんなことはできませんし、しません」


 赤ちゃんの容態は峠を迎えていて、明日明後日に生きていられる保証は、まったくなかった。

 なにせ口周りに痘痕(あばた)が発生してしまったことで、水も果汁もお粥も、痛がって口にしてくれないのだ。

 そのままなにも食べられない状態が続くと体力が、持たない。

 私もジュミン先生もそのことは重々わかっていて、けれど先行きなんかまったくわからないのだ。


「なじってくれた方が、幾分か気が紛れたのでしょうけれど。私たちが投げやりになっていてはいけませんね」


 疲れた顔でジュミン先生は首を振り、別の区画を診に行った。

 私は祈る気持ちで赤ちゃんの痘痕に薬を塗る処置に戻った。


「お願い、もうちょっとでいいから頑張ろう? 食べて元気になって、お母さんに会おう? みんな元気になるのを待ってるよ?」

「あっぷぇ、ぴえぇ……」


 か弱い泣き声を聞いていると、知らず知らずに私の目からも涙が流れて来た。

 ここに来てから、どれだけ泣いたか、もうわからない。


 五日目。


 昨日と引き続き、赤ちゃんをあやしながら疵口に浮く膿のケアをしていたら。


「央那さん、大丈夫ですか?」


 同じ部屋で重症の子たちの世話をしている江雪さんに声を掛けられた。


「あ、はい。疲れてはいますけど、なんとか」

「しばらく止まっていましたよ」

「え、ホントですか」


 座り姿勢で赤ちゃんを膝抱っこしながら、十数秒ほどぽかんと口を半開きにして放心していたらしい。

 

「うー、うぅー」


 腕の中にある赤ちゃんは、口元の痛みにやっと慣れて来たのか、少しずつ果汁やお粥を飲み込んでくれるようになった。

 熱も引いたので、これは良い傾向だ。

 重症者の区画から、治りかけ軽症者の区画に移る日は近いよ!


「私たちは絶対に負けないぞ。負けてたまるもんか」


 今までに出会った大勢の人たちの顔を思い出し、私は自分を勇気づける。

 記憶の中のみんなが、笑顔で私を励ましてくれた。

 私はまだ

     大

       丈

            夫。 



 六日目。


 起き上がれなくなった。

 まったく体が動かないし、眼もなんだかかすんで周囲の景色がぼやける。

 自分の手足がどこに付いているのかさえ、なんだか自信がない有様だ。


「あ、あああ、ううう」


 寝床で言葉にならない呻き声を発していると、ジュミン先生と江雪さんが話す声が聞こえた。


「……過労でしょう。鍼を打ちますので、しばらく休ませてあげてください」

「わかりました。起きても無理をしないように見ていますね」


 どうやら背中と首に鍼をブチ込まれているらしいけれど、まったくもって感触がない。

 こんなところで、私一人、のんきに寝てる場合じゃねえんだ!

 泣いてる子どもたちが、まだまだたくさん、待ってるんだよぉ!!

 なんて、心がいくら叫んでも、現実はなにも変わらない。

 私は無力な小娘であるのだと、散々に打ちのめされ、思い知らされるばかり。

 大勢の人を助けられる知恵とか、力が欲しいと、暗い闇に包まれた悪夢の中で思った。


 七日目。


 少しだるいけれど、なんとか動けるまでに回復した。

 

「くれぐれも、無理はしないでくださいね」

「はいッス」


 ことあるごとに江雪さんが目を光らせて私に注意してくるので、今日は主に片付けものなどの雑用を引き受ける。

 包帯、サラシ布なんかは川の水でしっかり洗って、念のために煮沸消毒をして、天日で日光消毒もして。

 子どもたちや赤ちゃんが気持ち悪くないように、下着もいっぱい洗って干して。

 まっさらな状態で使ってもらうため、一心不乱に洗濯である。

 天気が良いのはなによりもありがたい。


「あ、トンビ」


 上空をぽかんと見つめていたら、ぴーひょろろと鳴きながら、鳥が優雅に飛んでいる。

 私たちの喜怒哀楽などまったくお構いなしに、空は晴れ、川は流れ、山は泰然といつもの場所にあり、鳥が悠々と飛翔する。

 私たちはこんな目に遭ってるってのに。


「まったくこの世界は、嫌になるくらい綺麗だなあ、ちっくしょうめ!!」


 小さな女が地べたから蒼穹に向かって、怒鳴る。

 人は終わりから始まる、という章句がなにかの宗教説話にあった気がする。

 今の私たちはまさに、すっかり終わっちゃってるような絶望のどん底から、天の光を見ている。

 次に始められるのはさらなる地獄か、それとも。

 洗濯から戻ると、先日の若奥さんが、赤ちゃんの顔を見に来た。


「赤ん坊は、元気んなったとやね? やったらお乳を……」


 我が子に当然会えるもの、と思っていた奥さんは、切実な顔でジュミン先生に訴えかけるけれど。


「そうすると奥さま、今度はあなたに病がうつります」

「わーしは、どうなっても平気ばい! あんたぁ、子がおるとね? 子を抱けん母の気持ちが、わかっとらすとね!?」

「あなたが罹患すると、今度はそれだけ多くの人員があなたの治療に対応しなければならなくなります」


 ジュミン先生の言い分はもっともだ。

 けれどさすがの先生も、多忙と疲労で気持ちに余裕がなくなっているのか、奥さんの気持ちに寄り添ってあげられるような、気の効いたコメントができなくなっている。

 ちょうどその押し問答の間に、江雪さんが割って入った。


「ジュミン先生、その言い方はあまりにも酷で、奥方の気持ちを汲んでいないものと思います」

「ですが、江雪さん」

「今が、今がまさに奥方にも、赤子にも大事な時期なのです。ここで間違いがあっては、母子もろとも倒れられるは自明の理。なんとか、なんとか奥方にはここをこらえていただき、快癒した暁には目いっぱい、赤子を抱いていただけるように全力を尽くすのが、私たちの務めではないですか。この奥方も、私たちと同じく、必死で戦っておられるのです」


 その言葉に感じ入るものがあったのか、奥さんは涙ぐんで江雪さんの手を握った。


「そうばい、わーしも、辛くて張り裂けそうなんを、ぐっと耐えとるとよ。あんたにはそぃがわかるとばいね」

「はい、痛いほどに」

「わーしの赤ん坊を、よろしく、よろしく頼むばい。今生の頼みやっけん、どうか、どうかね」

「おまかせください。あとは痘痕(あばた)のかさぶたが乾いて取れれば平癒です。もうしばらくのご辛抱ですよ」


 べそをかきながらもぺこぺこと頭を下げて、奥さんは引き下がって行った。

 すご、収まっちゃったよ。

 どうにか、どうにもできないのなら、論破するより感情に訴えかけた方が良い。

 江雪さんの言っていることはなんの解決策にもなっていないのだけれど、気持ちに寄り添ってくれた人がいるということが、奥さんの心を安心させたのだ。

 そして、私が更に驚いたことは。


「江雪さん、ご協力ありがとうございます」

「いいえ、このくらい。それよりさすがジュミン先生です。本当におっしゃる通りになりましたね」


 これは、ジュミン先生の書いた脚本だった!

 ジュミン先生は、自分を悪役の冷酷医師、江雪さんを人情のある優しい看護婦と設定することで、飴と鞭効果で見事に奥さんを納得させてしまったのだ。

 焦燥して余裕がなくなっていたなんてとんでもない、この人はある種の化物だよ。

 医者とは、治療とは。

 患者や家族との関係はどうあらねばならないか。

 それがもう、心身の細部に根付いてしまっているのだ。

 しかも「ジュミン先生ならこういうことを言いそうだ」という伏線をしっかり撒くために、毎日毎日、厳しい顔つきで町の中を巡察、回診して歩き通している。

 まさに戦場における「有能だけれど近寄りがたい将軍」の役目を、演技、ペルソナとして貫き通しているんだ。


「勉強ができるだけじゃ、ダメなんだなあ」


 呆れにも似た感心を抱き、私は洗濯の続きに移った。

 百憩(ひゃっけい)さんとも姜(きょう)さんとも違うタイプの知の巨人。

 彼女の闊歩する姿に、私は憧れに満ちた視線を送るのだった。


 八日目。


 昨日の夜から、悪寒がひどい。

 ああ、潜伏期間が終わって、熱が出てきたんだな。

 これから、私も正真正銘、重症患者の仲間入り。

 重症者区画から出て歩かないで、良かったよ。


「外で頑張ってる翔霏(しょうひ)に、手紙を書かなきゃ」


 まだ、体が動くうちに、忘れずに残しておかないと。


「大好きな翔霏へ」


 一行目に大きくそう記した私は、さてなにを、どの順番で書こうかと、茫漠朦朧とした頭で考えるのだった。

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