百八十八話 亀の子
前回の皇子面会から、さらに日にちが経って、次の面会日。
今日は他の侍女仲間が翠(すい)さまに付いて北の宮へ行ったので、私や毛蘭(もうらん)さんはお留守番である。
「こういうときに限って赤ちゃんは元気に起きて遊んでたりするんですよね。私ってずっと昔からそうなんです。持ってないって言うか、間が悪いって言うか」
ぶーを垂れながら、やる気のない手つきで自分の居住スペースを整頓する私。
椿珠(ちんじゅ)さんが司午本家から私の日用品を送り直してくれたので、その荷解きをしているのだ。
「でもあの寝顔、可愛かったじゃないの。いつまでも見ていられるわ」
「そうなんですよね~~。鼻と口が『ぷぅぷぅぷぅ』って言ってて、これずっと見守りながら気持ちよく死ねたら最高だなって思いました。って言うかあのとき、幸せすぎて私、少し死んでました」
「おめでたいのか縁起が悪いのか、よくわからない話ね」
毛蘭さんも私のタワゴトに一々驚かなくなっているので、変なたとえで物を言っても特に動じることはない。
まあつい最近、冗談抜きで一回死んだ気がしないでもないけど?
忘れた忘れた、そんなことは!
なんてことを取り留めもなく毛蘭さんと話し、割とだらけた午前中を過ごしていたら。
「ごめんくださいな。司午(しご)貴妃のお部屋の方、誰かおられますか?」
聞き覚えのある親しみやすい声が、部屋の戸口から聞こえて来た。
翠さま不在のこの場所に、誰がなんの用事だろうな。
「はーい、どちらさまでしょうか」
「ご機嫌よう、麗」
応対に出た私は、相手の顔を見て。
「わっ! へ、塀(へい)貴妃殿下! これはだらしないところをお見せして失礼をげっふげっふ!!」
夏みかんをもぐもぐと口に入れたまま出てしまったのを、無理矢理に飲み込んだので、むせた。
「大丈夫ですか。はい、手拭」
「い、いえそんな、もったいないことです。畏れ多い」
無様に咳き込んだ私に、塀貴妃は綺麗な花柄のハンカチ的な布を差し出してくれた。
私の顔なんてその辺の雑巾で拭いたって良いようなものなのに、いや良くない。
「構いません。こういうときに誰かに貰っていただくために持ち歩いているの。私ももう少しは、部屋から出ていろいろな方と仲良くなろうと思って」
不器用さの滲む笑顔を塀貴妃は見せて、私の手にハンカチを押し付けた。
元々の知り合いで、しかも下っ端侍女である私のポイントを稼いでも意味はないと思うけれど。
変わろうとする塀貴妃の心を記念して、感謝とともに受け取ろう。
「本当にありがとうございます。ところでどういったご用向きでしょうか」
「あら、塀殿下、よくいらっしゃいました。けれど生憎、あるじは不在でして」
毛蘭さんも奥から出て来て、申し訳なさそうに報告する。
わざわざ使用人ではなく塀殿下が直々にいらしているのだから、翠さまに大事な話でもあったに違いない。
と、私は思ったのだけれど、斜めの方向で違った。
塀殿下が説明してくれたのは。
「司午貴妃がお出かけなさっているのは知っています。そうではなく今、後宮の南門前にほらあの子、神台邑(じんだいむら)の紺(こん)が来ていますよ。麗に会いに」
「え、翔霏(しょうひ)が?」
いや、翔霏が来るのは予定の内だったので、そこはいいんだけど。
少し呆れたような苦笑いで、毛蘭さんが言う。
「そんなことでしたら、誰か宦官か、お部屋の子を使いに出して教えていただければ」
「いえ……散歩のついででしたし、あなたたちの顔も見たいなと思ったところでしたから」
照れのある気まずそうな顔で、塀貴妃はモゴモゴと言い訳臭くおっしゃった。
うんうん、あなたの社交性強化のために、私たちくらいでしたらいくらでも、練習台にしてくださいませ。
なんとなくでも、ぎこちなくでも、外に出てお友だちを増やすのは良いことだ。
「塀殿下、わざわざご足労をおかけして申し訳ございません、いえ、ありがとうございます。毛蘭さん、私ちょっと行ってきますね」
ベッド周りの整理を半端に放置したまま、私は翔霏を迎えに行くことにした。
「翠さまもまだ戻ってこないでしょうし、ゆっくり話してらっしゃい」
私が離れていくとき、塀貴妃が小声で毛蘭さんに次のようなことを聞いていた。
「さ、西苑(さいえん)の中で、穏やかでお話しやすい、あまり声の大きくないお妃と言えば、誰でしょうか……」
「ええ? そうですねえ……あの方はもういらっしゃらないし……」
それを聞きたいから、翠さま不在のタイミングに押しかけて来たのかと、私は笑ってしまった。
ふふ、でも頑張るあなたは美しいですよ、塀殿下。
誰だって最初はまず一歩から。
少しずつ、だけど確かであるその進みを誰も笑えない。
なんだか良いものを見られた気分で、私は南門へ向かった。
「ふわぁあ、お、来たか。忙しくはなかったか?」
門の外にある池のほとりの大石に、翔霏は座って待っていた。
寝不足なのか、半分閉じた目であくびをかいている。
それでも砂利ほどの小粒な石を、池の水面を泳いでいる亀の甲羅にぽいぽいと投げて、コツコツと見事に命中させていた。
「これそこの娘さんや、亀をいじめるのはやめてあげなさい」
「んん? 亀なんて私も軽螢(けいけい)も、よく投げて遊んでいたものだがな」
「な、投げっ? どこからどこに?」
予想もしない言葉が返って来て、私、混乱。
「どこって、それは瀧の上から瀧つぼに落としたりとか、腹の立つやつに後ろから投げてぶつけたりとか。怪魔の頭を亀の甲で殴ったこともあったかな」
山育ち少年少女の遊び、無邪気で残酷すぎる。
亀で殴るって、なんだよ。
土地が違えば文化が違うなあ、というのはさておき。
「それでそれで、翠さまに悪さをした連中が捕まって、斜羅(しゃら)の街で取り調べを受けてるんだって?」
「ああ。これが詳しいことをまとめた文(ふみ)だ。ここに来る途中、国境の砦にいる玄霧(げんむ)どのにも同じものを渡してきた。調査はまだまだ続いているから、追加情報もその都度、私が運ぶ段取りになっている」
翔霏からお手紙を受け取る。
翠さまは事件捜査に対してあまり積極出来ではないとしても、報告責任というものがあるからね。
「じゃあ今、想雲(そううん)くんが国の偉い人にもこの報告書を渡しに行ってるってことかな」
「そういうことだ。なんと言ったかな。枢密(すうみつ)? とか言う、東庁の奥にある建物に届けに行ったよ。もっとも角州からの公式の通信も行っているだろうから、内容はほぼ被っているのだろうが」
枢密は国の特務機関、言うなれば公安的スパイ庁である。
特に貴族公人など偉い人の国家への背信、反逆罪や、大規模な集団犯罪、反乱勢力を調べたり取り締まったりする部署だ。
お妃や州公に宦官さん、果ては皇帝陛下と皇子までお目通りが叶った私だけれど、枢密にどんな人が働いているのかは知らない。
司午家があえて私的なルートで文書を枢密に渡すのは、被害者としての当事者感情を伝えるためだろうな。
「何度も往復する予定なら、翔霏はまたすぐ角州に戻っちゃうの?」
切なさ満開のぴえん顔で私は訊く。
皇都にも美味しいものは、たくさんあるんだよぉ〜〜?
ちょっとくらいのんびり遊んで行っても、バチは当たらないんじゃないかな〜〜?
「想雲の予定次第だな。何日かは滞在するだろうが詳しいことは聞いてみないとわからん」
「じゃあさじゃあさ、銭湯行こうよ! 明日私、半日のお休み貰ってるから、買い物とお風呂とお茶の流れで!」
翔霏も馬上で長旅の後だし、きっと疲れが溜まっているだろう。
お城の近くにある市場のお風呂は広くて綺麗なので、最高のリフレッシュになるに違いない。
心なしか、少し元気がないように見えるし。
いつも「スンッ……」って顔をしている翔霏だから、正直私にもよくわからないんだけれどね。
「風呂か、いいな。じゃあ明日になったら、司午別邸まで来て呼んでくれるか」
「うん、朝のお仕事が終わったらすぐに迎えに行くよ」
明日は女子二人、水入らずでデートだ、楽しみだな~えへへ。
それからも池で亀を眺めながら二人で他愛のない話をしていると、想雲くんが用事を終えて私たちのところへ来た。
「あ、皇子さまの従兄さまだ、こんにちは、けちな使用人女です」
「やめてくださいよ……まったくそんな実感もありませんし」
私がからかうと、苦笑いして頬をぽりぽりとかいている。
生まれたとき以来、会って遊んだりできていない関係だから、親戚と言われてもピンとは来ないよね。
「で、役人どもはなんと言ってた?」
翔霏の質問に、真面目な顔に戻った想雲くんが報告する。
「角州での基本的な調査が終わったら、例のいかさま法師たちは皇都に移送されて、枢密が直接に尋問するようです。除葛(じょかつ)帥(すい)や尾州の貴族たちと、どのようなつながりがあるのかをまとめて追及するのでしょう」
宮廷や宮妃に絡む大きな事件だし、確かにそれが妥当なところか。
犯罪の内実は角州だけの規模に収まらないのだ。
「じゃあ想雲くんたちも、しばらく河旭(かきょく)にいればいいよ。そんなに何度も往復で走り回る必要はなくなったよね?」
だとすれば私も遊び相手が増える、と言う点がとても重要です。
私の簡単な希望に、むうと言うような顔で翔霏が難色を示す。
「玄霧どのからはこまめに連絡に走ってくれと言われているからな……ことがどう進もうが、とりあえず一度は玄霧どのと、角州の本家には戻って話さなければならんだろう」
「そうですね、翔霏さんにはご苦労をかけてしまいますけど……」
想雲くんも申し訳なさげにシュンとなる。
優秀な人材は使い倒されるのが世の常なんやのう。
玄霧さん、自分がせっかちで働き者だからって、他人もそうでなければならないと勘違いしているのではなかろうな?
その考えはブラック企業の始まりですからね、私が目を光らせて食い止めたい。
後で玄霧さん宛てのお手紙に文句でも書いておこうっと。
「先のことはわからんが、とりあえず明日は羽を伸ばして遊ぼう。都の夏はなにが美味いんだろうな」
「どうか楽しんでいらしてください。ムラサキアユという魚がこちらでは美味しいと聞きます」
私たちがなにを言うでもなく、スマートに身を引いておすすめ情報まで発信する想雲くん、できた青年や。
こうして私は翔霏との約束を詰めて、後宮に戻った。
「おっと」
座っていた岩から立ち上がる瞬間。
珍しく立ち眩みでもしたのか、翔霏が片足のバランスを崩しかけたけれど。
「亀の子を踏むところだった。死にたくなければ池に帰れ」
這い出てきた小さな亀を拾い、翔霏はポチャと池に放った。
亀を除けるために歩幅を調整しただけだったんだな。
これで亀を助けたので、私も翔霏も竜宮城で歓待される資格が得られて良かったぞ。
なんて、後から見ればバカなことを、まだこのときは考えていた。
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