百八十九話 お背中、流します
「翔霏(しょうひ)と遊びに行くんだったら小遣いをあげるわ。良いものをたらふく食べさせてあげてちょうだい」
「うわあい、ありがとうございます翠(すい)さまあ」
市場に翔霏とお出かけに行く前、翠さまから軍資金を貰い受ける。
四割金(しわりきん)と言って、普通の金貨の四分の一の価値がある貨幣だ。
女の子二人が昼間に遊興する額としては、十分すぎるお金である。
「銭湯に行くならついでに近所のお豆腐屋さんがまだ潰れてないかどうか見て来てよ。営業してたら帰るときになにか買って来て」
「わかりました。適当に見繕っていくつかお持ち帰りしますね」
わあい買い食い、麗央那買い食い大好き。
私が日に焼けて痩せてしまったこともあり、さすがにもう替え玉影武者作戦を使うことはできない。
いや、それでも無茶を通せば少しくらいは成りすましも不可能じゃないとは思うけれどさ。
赤ちゃんのことや、留守にしていた間に溜まっていた貴妃のお役目のことなど、難しい問題は目の前に多く存在している。
ホイホイと外に脱け出してなどいられない翠さまの現状があるので、身代わりとかの話は今のところ、出て来ないのだ。
だから翠さまは私たち侍女を市場へお遣いに出して、流行りのものや珍しいもの、自分が愛好しているものを買って来させることが増えた。
「行ってらっしゃい。馬車や物盗りに気を付けてね」
「はい。夕ご飯の準備までには戻ります」
毛蘭さんに南門で見送ってもらい、私はまず市場の外れにある司午家(しごけ)別邸へと向かう。
司午家に限らず全国八州の有力者たちは、ここ首都の河旭(かきょく)にもお屋敷を構えていて、政治活動の拠点や出張所として使っているわけだ。
「うお、いつ見てもでっかいなあ、素乾(そかん)別邸」
中でも正妃さまのご実家である素乾家と、南苑統括を務める塀(へい)貴妃のご実家である塀家の別邸が、最も皇城に近い場所にあり、面積も広い。
この二家は州公の地位を永代世襲できるという極大の特権を持っているので、名実ともに皇族の次に偉い名門氏族である。
市場に行く途中にデンとそびえる素乾別邸には、今日も挨拶なのか商売なのか、それとも政治的会合かで訪れる客が列を成していた。
「正妃さまの胎児の情報がなんにも聞こえて来ないけど、お身体は大丈夫なのかな」
他人事ながら私は多少の心配を口にして、巨大邸宅を横目に私は市場の外れを目指した。
通い慣れた司午別邸、その通用門。
私は顔見知りの守衛さんに来訪の意図を伝え、翔霏を呼んでもらう。
待つこと少し、まだ眠気が覚めてないのか、あくびをしながら翔霏が来た。
「おはよう、麗央那。さすがに宮仕えは朝が早いな」
「あれ、髪の毛」
違和感に気付いた私が指摘する。
いつもはざっくりと頭の後ろでひとまとめにしてポニーテールを作っている黒髪ロングが、今日は結んでおらずにストレートだ。
「なんか面倒でな。別に構いやしないだろう」
「まあそうだけど。そのままでも似合ってるし」
ともあれ私は翔霏と連れだって、午前中から活気を放っている市場の中へと足を踏み入れた。
「今からたくさん食べたら、お風呂入ると気持ち悪くなっちゃうかな」
「私はそれくらいなんともないぞ」
さすが、鋼のインナーマッスルを持っている翔霏さんは、お風呂の水圧で胃が圧迫されても平気らしい。
私は温泉旅行中、満腹で湯船に入ったら一気に吐き気が来て浴室でマーライオンになりかけたことがある。
それ以降トラウマになって、食前じゃないとお風呂に入れない人になってしまったのだ。
水圧を体に受けないシャワーとか水浴びなら平気だけれどね。
「なら軽く朝ごはん食べられるお店に行こうか。美味しいお粥のお店があるって馬蝋(ばろう)さんに聞いたんだよね」
「あの丸っこい宦官さんか。確かに都じゅうの美味いものを知ってそうな顔をしている。楽しみだな」
なにげに失礼な物言いで期待を膨らませながら、翔霏は私の先導でお店に入った。
店内にはお粥を大量に炊いている蒸気に混ざって、多種多様な食材が調理されている香りが漂っている。
これは最高の朝食の予感!
「あら可愛いお嬢さんたち、いらっしゃいませ。なににしましょうか? おすすめは……」
「美味い順に卓がいっぱいになるまで持って来て並べてくれ」
食欲の権化となった翔霏に理屈は通じない。
ぽかんと口を開けて面食らっている店員さんに、お願いします、と頭を下げて、私はその注文が冗談ではないことを意思表示する。
「お粥なんか飲みものだからな。いくらでも入る」
彼女の言葉は誇張でもなんでもない。
運ばれてきたのは野菜の漬物のお粥。
魚の塩漬けのお粥。
肉そぼろのお粥。
お茶粥。
煮干しのお粥。
甘納豆のお粥。
山菜のお粥。
貝の塩辛のお粥。
それらをかっぱかっぱとまさに飲むように嚥下していき、最後に薄い塩だけのお粥をごっくんと平らげた翔霏。
「ようやく目が覚めた。体も温まって来たぞ」
食後の玄米茶を飲んでそう言った翔霏は、さっきまでよりもキリッとした表情に変わる。
元気になったついでに髪も結んだ。
これだけ食べて太らないんだから、よほど普段から激しくカロリーを消費しているんだよなあ。
と、羨ましいやら、まったく私には届かない世界だと感嘆するやらして店を出る。
「美味い店だった。また機会があれば行きたいな」
「そうだね。次は想雲くんも連れてきてあげようか」
ちなみにここのお店の支払いがいくらかかって、その金額は普通に働いたらどのくらいの時間で稼げるお金に相当するのかということも、翔霏は分かっていない。
算数能力に障害のある翔霏は、お金の価値がわからないし計算もできないのだ。
そのことで前に、軽螢がこんな話をしてくれた。
「少年団の連中と一緒に翼州(よくしゅう)の国境沿いをフラフラしてたしてたときにさ、軍の兄さんたちが食料を分けてくれたことがあったんだ。そのときに翔霏のやつ『腹がいっぱいになった礼になにか仕事をしてやる。困ってることはないか?』って申し出たんだよ。軍の人は『なら怪魔を見張る夜警を手伝ってくれ』って言って、翔霏はその仕事を引き受けたんだ」
翔霏らしい恩の返し方であると、私はその話を聞いて思った。
けれどその顛末は、私の予想をわずかに超えていたのだ。
続きを軽螢はこう話したと記憶している。
「あいつ、見張りを頼まれただけなのに、俺たちを引きずり回して周辺の怪魔を片っ端から掃除しまくってさ。貰った食料分の仕事はとっくに果たしただろ、もう十分働いたよって俺らがうんざりして言っても『まだあの軍人から、もう結構だと言われていない』って、何日も何日も、夜の夜中じゅう、怪魔を殺しまくったんだ。でも頼んだ軍の兄さんだって、最初から翔霏の手伝いなんてアテにしてなかったんだよ。山と積まれた怪魔の耳を後でドンとまとめて持って来られたとき、目を白黒させて翔霏に謝ってたさ。凄い勢いで『すまん、悪かった、そこまで頑張ってくれるなんて思ってなかった。せいぜい二、三日で飽きて違うところへ行くだろうとばかり』ってな」
細かい計算のできない翔霏の世界観は、常に「あるか、ないか」であり、その「ある」場合でも「足りるか、足りないか」しか区別はないのだ。
私たちが普段、当たり前に行っている「○○時まで働けば終わり」とか「××個まで仕上げればノルマ達成」という数量的な計算を、翔霏はできないし、しない。
足りなければ足りるまで続けるだけであり、足りると判断すれば、それ以上は一切、必要のないことはしないのである。
そんな翔霏だからいつも全力で、やるかやらないかのみの判断で時間を過ごしていて。
小さな数字の上限に一喜一憂する私なんかは、それがたまにすごく眩しく感じる。
「でもそれ、翔霏の能力があってこそできる生き方だよな」
軽螢から話を聞いた私は、そんな風に嫉妬の混じったちょっとだけ暗い感情を持ったりもした。
その後、私のお腹を落ち着かせるために歩いて散策し、商店街を覗く。
「なんか都で流行ってるんだって、この首飾り。二人お揃いの買おうよ」
ミサンガのような、色糸の編み込み帯。
これを首飾りにするのが、どうやら今の河旭ギャルたちのトレンドらしい。
「街で流行るものってのは、いったい誰が最初に流行らせたのだろうな」
自然にその帯が切れたら願いが叶うという言い伝えがあるのかは知らないけれど、青基調の品を二つ買って、さっそくお互いに身に付けた。
翔霏はお洒落に疎いけれど、決して興味がないわけではない。
玄霧さんから貰った可愛い髪帯をちゃんと今でも使っているし、巧みな剃刀の技でシャキッと眉毛を整えてもいる。
ちなみに私が翔霏と一緒に銭湯に行きたいのも、産毛ムダ毛をその技でちょちょいと処理して欲しいからという、勝手な都合が入っているのだ。
ほら、首の後ろとかさ、気になるけれど自分では難しいじゃん?
「ここのお風呂も久し振りだな。前は後宮から逃げ出したときに来たんだっけ」
本日最大の目標、大型大衆浴場に到着。
約半年ぶりのその店は、相変わらず盛況のようで午前中から賑やかに人が出入りしている。
「私ははじめてだな。想雲に頼んでも、連れて来てくれないんだ。司午の屋敷にある風呂も十分に大きいが」
「そりゃ、年上のお姉さんと二人で銭湯に行くのは、想雲くんには敷居が高いでしょ」
二人で銭湯とか焼肉屋に行くカップル、かなり深い仲説、あると思います。
そしてここは先に入場料を払うシステム。
お金さえ払えば店員さんが荷物を預かってくれて、預かり証として色のついた木札を渡される。
中で多少の買い物ができるので、小銭だけを巾着に入れて持ち歩く。
「湯上りはここで休めるのか。お菓子やお茶も置いてあるんだな」
二階を覗いた翔霏が少し嬉しそうに言った。
この階の全部が休憩所になっている。
窓が半分開け放たれているから風が入って、初夏の今はとても爽快。
いわゆる道後温泉スタイルというやつだ。
石鹸も垢こすりも浴場に備え付けてあるので、タオルさえあればひとっ風呂浴びれる、良い施設である。
私のあとをくっついて歩きながら他の客の挙動を観察し、店のシステムやルールを把握していく翔霏。
「男と女で、別の湯船に入るんだな。環家(かんけ)の風呂みたいだ」
「そりゃお店だし、そうでしょ」
椿珠(ちんじゅ)さんのご実家は超お金持ちなので、常識の範囲外です。
私の知る範囲では、河旭の街に混浴のお風呂屋さんはない。
いや、あっても行かんけど。
「さーてまずは入ろう入ろう。きれいさっぱり汗を流して二階でまったりのんびりしよう」
「服をここに脱いで置きっぱなしにして、盗まれないのか?」
脱衣所の信頼性を気にする翔霏に大丈夫大丈夫と軽く言って、私は浴室に入る。
私が前を歩いていたので、気付かなかったけれど。
翔霏の背中がどうであるかを見る機会が、今までなかったのだけれど。
「せっかくだから背中の流しっこしようよ、まず私が洗ってあげるね」
浴室の洗い場に腰をかけて、並んで座った翔霏の背中を見る。
私は目の前に見えたものに対し、一瞬、固まってしまい。
「え、翔霏、背中に刺青なんか入れてたっけ?」
そんな的外れなことを呟いた。
「背中? そんなもの入れてるわけがないだろう。なにか変なものでも付いてたか」
ぺたぺたと自分の背中を手で触り、特に違和感がないので首をひねる翔霏。
でも、彼女の背中には、一面に。
ぼんやりと、でも確かに、像を成して浮かぶものがあり。
「あ、痣……? 茨(いばら)の棘とか蔓みたいな模様が、翔霏の背中に、びっしり見えるよ……?」
「知らんな。自分の背中なんて、見ることはないからな」
慄きながら私は、翔霏の背面を埋めている紋様に障る。
肌がどうなっているという感じは、感触としてはわからないけれど。
ぞくっ、とした。
私の心の底の中に、冷たいつららの束でもぶち込まれたような悪寒が、急激に走ったのだ。
「確かに最近、肩や背中が凝る気はするな。ゆっくり風呂に浸かれば治るだろう。早く背中を流してくれ」
「う、うん……」
私は、翔霏の背中をぐいぐいごしごしと念入りに洗い、流した。
不吉にも見える赤紫色の茨の棘模様は、それでも消え落ちてはくれなかった。
いつも体温が高く、ぬくぬくな翔霏の肌も。
私の身体と同じか、むしろそれより冷たいのではないかと思った。
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