百九十話 涼風
都の繁華街に位置する大衆浴場。
翔霏(しょうひ)の背中を洗い終えた私は言った。
「ねえ本当になんともないの? 痛いとか痒いとか気持ち悪いとか」
「麗央那がぐいぐい洗ってくれたから気持ち良かった。次は私がやってやろう」
心配する私をよそに、翔霏は私の背後に取りついてごっしごっしと力を入れて垢こすりを振るう。
「痛い痛い、お姉さんもう少し加減を」
「こういうのは少し痛いくらいの方が良いんだ。どんどん体が熱くなって目も冴えるぞ」
乾布摩擦ならぬ温布摩擦ですか。
確かに刺激になれて来ると体中がぽっかぽかに温かくなって来て、まだ湯船に入ってもいないのに額に汗の玉が浮いてきた。
うーん、これは痛いけれどクセになるやつかも。
しっかり体を洗い終わった私たちは、大浴槽にざぶーんと飛び込むように浸かる。
「ヴぁ~~、この瞬間のために生きてる~~」
おっさん臭い台詞を口から漏らし、私はお湯を堪能する。
ここは本来的な意味の温泉ではなく、地下水を薪や石炭で加温する、いわゆる沸かし湯だ。
お店を外から見たときに、巨大な煙突からもうもうと煙が出ていたので間違いない。
水質が鉄分に寄っているのか、お湯は若干赤っぽい。
この手のお湯で頭を洗いすぎると、髪の毛が脱色してしまうので気を付けましょう。
「少しぬるいな。もっと熱い方が好みなんだが」
江戸っ子のような感想を口にしつつも、翔霏は四肢をゆったりと伸ばして、極楽気分で鼻歌を口ずさむ。
私、高校受験の前後で東京に寝泊まりしてたときに、なんとなく下町の銭湯に入ってみたことあるんだけれど、そこの浴槽が50℃近くあって死ぬかと思ったんだよね。
歴史を感じさせる古めかしいあの銭湯、まだ潰れずにあるのかなあ。
ちなみに私も翔霏も、お湯に浮かぶほどの立派な果実を持ってはいない、ほっとけ。
「ゆっくり浸かってると、そのうち体の内側からじんわり温まって来るよ。遠赤外線って言ってね」
ぬるめのお湯は心臓への負担も少なく、健康にとても良いと言います。
最近、微妙に疲れているように見えたけれど、こうしてお風呂に入れば元気を取り戻してくれるだろうか。
それにしてもあの不吉な痣は、いったいなんなのだろう。
ストレスや疲れなんかで発疹が出たり帯状疱疹(たいじょうほうしん)を患ったりするという話はたまに聞くけれど、赤斑(せきはん)のような痣が心身の変調で浮かぶなんて、あるのだろうか。
そもそも翔霏の心身に、その原因となるような問題が眠っているかどうかも、今はよくわからない。
「汗をかいたからか、なんだか腹が減ったし喉が渇いたな」
キンキンに冷えた水出しのお茶をごっきゅごっきゅと飲みながら、燃費の激しく悪い旧型アメリカ車みたいなことを翔霏が言う。
「ここの近くにお豆腐屋さんあるから、そこでなにか買い食いしようか。確かお店の前に椅子があったからそこで買ったものを食べられるはず」
火照った体を風の通る休憩室で十分に鎮めて、私たちは豆腐屋へ向かった。
目的のお店はこれまた以前の通りに大盛況。
店主のオッチャンが揚げたり焼いたりした豆腐各種を、店頭でおかみさんが威勢よく売っていた。
「あら、久しぶりだねえあんた。また来てくれて嬉しいよ」
「覚えててくれたんですね。とりあえず十人前くらい、色々詰合せてお持ち帰りでお願いします」
店のおっかさんは、私の顔を記憶していた。
さすがに客商売している人は凄いなあと思いながら、私は山ほどの豆腐菓子、豆腐お惣菜を受け取って抱える。
もっとも、半分は翔霏にこの場で食べられちゃうんだけれどね。
「もっくもっく。そう言えば麗央那は、石数(せきすう)のこともあるのだろうが、やけに大豆や豆腐に執着しているな。なにか他に特別な理由でもあるのか? ごくん」
豆腐とでんぷんを混ぜて揚げたお団子を食べながら、翔霏が質問する。
「大豆は育てやすくて収穫も簡単だし、栄養もあってお腹にも溜まるからさ。あと料理の種類が多いから付加価値も付けやすいと思うんだよね。枝豆のままでも美味しいし、加工してもいろいろな食べ方があるし」
「確かに実った豆を収穫するのは子どもでもできる仕事だな。そうか、邑人総出で商売することを考えるなら、誰でも簡単にできる仕事ということも大事なのか」
「私が農業の詳しいことをわかってないからね。自分でもできることから考えてるだけだよ。軽螢(けいけい)なんかはもっと細かいことがわかってると思うし、相談しながらかな」
神台邑は真夏にクソ暑くなる以外は、基本的に冷涼な気候帯に属している。
それもあって秋ごろに急激に気温が下がるため、お米の収穫率があまり良くない。
メインの収益作物は北国でも育つような麦、蕎麦、大豆、そしてキビなどの雑穀である。
中でも大豆は痩せた土地でも育つことで知られている。
休耕地と大豆畑とその他作物の畑を年ごとに上手くサイクルさせれば、他の作物の収益性を損なうことなく、大豆をたくさん育てることができるのだ。
と、あくまでも理屈の上ではそうなっているけれど。
「まあ、やってみないことにはわからんな」
数種の豆腐お惣菜をぺろりと食べ尽くし、満足そうな顔で翔霏が言った。
そう、なんでもまだ机上の空論、想像の域を出ず、実際にやらないことには成果も問題点も見えて来ない。
実地で試してそれを確認する日が近付いている。
そのことを、私も翔霏も確かに予感して、私たちはその日、別れた。
「百憩(ひゃっけい)さん、いるかな」
翌日。
私は翔霏の痣がどうしても気になり、医療呪術に詳しい沸教(ふっきょう)の学僧、百憩さんの姿を求めて中書堂へ足を運んだ。
「おや、央那さん。角州(かくしゅう)で会った以来ですね」
彼は以前の中書堂と変わらぬ、三階東の間に自分の席を構え、相変わらず抜群に綺麗な字で異国文献の翻訳を書いていた。
「こんにちは。ちょっと友人の体で気になることがあって、百憩さんにお話を聞きたくて来たんです」
「ご友人。どなたでしょう。拙僧も知っている方でしょうか」
「紺(こん)翔霏って言う、長い髪を後ろで一つに結んだ女の子です」
ああ、と百憩さんは頷く。
「司午(しご)貴妃がお目覚めされるときに、力を貸してくれましたね。あの子がどうかしましたか?」
「なんか、背中一面にびっしり、茨の棘模様の痣が浮き出ていて。本人は平気だって言うんですけど、私はなんだか、すごく心配で、でもよくわからなくて」
「茨ですって!?」
私の説明に、百憩さんは目を剥いて席から立ち上がった。
「は、はい。ぼんやりとうっすらと、発疹や斑紋のような赤い痣が広範囲に見えるんです。痒いとか痛いとかは、ないようなんですけど」
「他に、彼女の体に異変は見当たりませんでしたか? 物忘れが激しくなっているとか、足元がおぼつかないとか、頻繁に手元からものを落とす、であるなどは」
「ええと、そういうのは」
私は言われて記憶の隅々まで検索し。
あった。
普段の翔霏からは見られなかったことが、些細だけれど確実にあったことに思い当たった。
「普段だと転ばないようなところで転んだり、足を踏み外しかけたりしてました。それに、いつもより眠気が強いようで、しょっちゅうあくびを放ってました」
私が北方で、突骨無(とごん)さんの青銅剣に斬られて、謎の復活を遂げたとき。
翔霏は明らかに、驚いて足を踏み外して、盛大に転げまわった。
そして一昨日に後宮の南門前で会ったときも、疲れが溜まっているような眠たそうな顔で、しきりにあくびをしていたし、亀の子どもが地面を這っていたのに驚いて足元をふらつかせていたのだ。
絶対に、普段の翔霏ならそんな様子を見せることなど有り得ない。
そんな僅かな迂闊も見せないくらい、翔霏は「平常時」が「完璧」だったのだから。
私がそのように話すと、百憩さんはしばらく黙って考え込み。
「央那さんたちの北方での歩みを、拙僧は詳しく知りません。ですが、お話を聞く限り翔霏さんは、深く鋭い戒めの呪いをその身に受けているように、拙僧には見受けられます。呪いが脳に及んでいるかもしれません」
確かに、足元があやふやになったり、しきりにあくびをしたりと言うのは、脳にダメージがある場合に見られる兆候だ。
「そ、そうです。翔霏は覇聖鳳(はせお)の部下を殺し過ぎたせいで、死んだ連中の怨念で強い呪いを受けたかもしれないって前に言ってました。それを高山(こうざん)の大海寺(だいかいじ)で解いてもらうはずだったんですけど」
私が途中で言葉を止めたことに百憩さんは怪訝な顔を浮かべ、詰問するような顔で訊く。
「解いてもらうはずだった、けれど、どうしたのです? まだ寺に行ってないのですか? それはもう、一刻も早く行かなければ」
「い、いえ、翔霏は大海寺での解呪の儀式を、途中で嫌になって、半分くらいのところで逃げ出しちゃったんです。いえ、私を助けるためにお城に駆けつけてくれたせいでもあるんですけど。とにかく翔霏の解呪は、まだ中途半端なんです」
「な、なんてことだ……」
片手で頭を抱えて、すとんと百憩さんは力を失ったように椅子に座り直した。
深刻さがわからない私は、不安な気持ちで百憩さんの顔を覗き、次の言葉を待つ。
重々しく放たれたその説明は。
「解呪の礼式を途中で放り出してしまっては、もう同じ手法で解呪を再開することは不可能です。さらに強い解呪の法を、最初からもう一度受け直さなければ、ご友人の、翔霏さんの呪いは体から出て行かないでしょう」
「え、でも、でもその別の、さらに強い解呪法は、大海寺でもできるんですよね!?」
「いえ、その可能性は限りなく低いでしょう。彼らも最初から全力を尽くして解呪に取り組んだはずです。それ以上の効能のある解法を今から段取りすることは、さすがに……」
「そ、そんな……」
私は、絶望でその場に膝を崩した。
翔霏にかけられた、忌まわしき青牙部の怨念は。
もう、二度と解くことはできないのだと、聞かされたから。
「や、やだ……そんなのやだあ、翔霏ぃ……」
うわっとその場に屈みこんで、哀しみに支配され泣き伏す私。
しかし、そのときに。
空気を読まないとぼけた声の主が、私たちの会話を聞いていたのか、割って入って来た。
「百憩僧人、西方の『小獅宮(しょうしきゅう)』に行けば、なんとかなりませんかそれ?」
「うあ?」
涙に濡れた顔を上げると、そこにはチャラ男系若手書官、涼(りょう)獏(ばく)の姿が。
百憩さんはそれを聞き、難しい顔を浮かべる。
「確かに、考えられる手段としてはもうそれしかないでしょうが……翔霏さんの解呪をして欲しいとこちらが頼んだところで、向こうが受けてくれるかの問題が……」
「手が残ってるなら、なんだってします! ダメでもともと、なんとかお願いできませんか!?」
小獅宮と言う場所が、いったいどんなものであるのか、私にはまったく分からないけれど。
翔霏がいなければ、私だって生きてここにいられなかった。
ならば彼女のためになにかするのに、ためらう理由なんてないじゃないか!
「今度は私が、翔霏のために命を使う番なんです! 一生のお願いですからなんとかしてください、百憩さん! 私、なんだってしますから!!」
号泣し絶叫しながら、私は百憩さんの衣服に縋りつく。
「僕、西方に行くのに必要な手続きを、馬蝋(ばろう)総太監(そうたいかん)と相談してきますね!」
軽やかに言って、獏さんは階段を下りて行った。
私の懊悩を、苦悶を嘲笑い、彼方へと流すかのように。
初夏の爽やかな風が、新しい中書堂の三階を吹き抜けて行った。
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