百九十一話 翼州の少女、翔霏
翔霏(しょうひ)の体を蝕む呪いを快癒させるため、西方に赴く。
方針が決まってからの私たちの動きは、まさに電光石火の早さだった。
「翠(すい)さまごめんなさい! しばらくお暇をいただきます!」
「ななななにをいきなり大声で言ってるのよ。休みくらい別にいくらでもあげるけど事情を説明しなさい事情を」
お部屋に戻ると翠さまは、編み物をしていた。
秋冬が来たときに赤ちゃんに着せるための帽子や手袋、腹巻や靴下を毛糸で編んでいたのだ。
まだ夏だと言うのに、気の早いことですね。
たくさん必要になるものだから、今から用意してむしろ正解か。
「かくかくしかじか、まるまるいのししと言う理由で、翔霏を西方に連れて行かなきゃいけないんです」
「なによそれ一大事じゃないのさっさと準備しなさいな。必要なものがあれば全部あたしのツケで買ってきなさい」
さすが、うちのボスは話が早いし、話が通じてからの対処もマッハである。
西方にいくつかある、沸教(ふっきょう)を政治経済、文化の中心基軸に据える国々。
中でも、昂国(こうこく)に比較的近い場所にあるのは百憩(ひゃっけい)さんの出身地である「刹屠(せつと)独立領」という地域である。
王や皇帝、いわゆる国家元首に相当する人間がおらず、数人で構成される宗教指導部の中から持ち回りで最高指導者を決めている中規模集団、雑に言うと小国家だ。
「そこに、昂国と西方の文化や学問を統合的に研究している『小獅宮(しょうしきゅう)』という施設があるようなんです」
私の説明に、興味半分、不信半分の複雑な表情で翠さまが返す。
「沸の連中にとっての中書堂みたいなもんかしらね。閉じこもって共同生活しているってんだから後宮にも似てるのかしら」
翠さまが言うように、中書堂と後宮をミックスしたような施設なのかもしれない。
お寺と全寮制大学が合わさったようなその場所で、信者兼研究者たちが共同生活を送りながら、沸の道と諸派百学を日夜、研鑽しているのだ。
もちろん、百憩さんも若い頃はそこで学んだという。
「もう今ごろ、百憩さんや場蝋(ばろう)さんたちが、私と翔霏を小獅宮で受け入れてもらえるように段取りを始めてくれています。翠さま、私ちょっと急いで翔霏と具体的な相談したいので、申し訳ありませんが」
「早く行きなさい! 屋敷(うち)の人間にも手伝えることがあるならなんでも言いつけて良いから!」
「わっかりましたあ! 行って参ります!」
カタパルトのような勢いで翠さまに背中を押され、私は司午(しご)別邸へと走る。
屋敷に着いて案内もそこそこに、勝手知ったる主人の家と言う勢いで大声を出しながら中にお邪魔する。
「ごめんください! 翔霏、起きてる!? 大事な話があるんだけどー、って」
翔霏が寝起きで借りている部屋の扉を、ノックもせずに開ける。
そこで私が目にした光景は。
自分のベッドに腰掛け、真っ白に燃え尽きた某ボクサーのように頭を下げて項垂れている、翔霏の姿だった。
「ど、どしたの翔霏!? 気分悪いの?」
私が呼びかけて肩に手を置くと、翔霏はゆっくりと顔を少しだけ上げた。
「……ああ、麗央那か。別に気分は悪くないぞ。最近、朝起きるとなんだかだるくってな。しばらくじっとしていれば、いつも通りだ」
「いつも通りなわけ、ないじゃん」
私はか細い声でそう言って、翔霏を横から抱き締めた。
「どうした麗央那。後宮で誰かにいじめられたか。それともイヤミな宦官に意地悪でもされたか。なら私がやっつけてやるぞ」
冷たい肌、力の入っていない四肢で。
それでも翔霏は、私を心配して、お姉さんぶったことを言っている。
いつも強くて、強がりで、負けず嫌いで。
それ以上に仲間想いの翔霏だから、どんなときでもそうしていなければいけなかったのだ。
私が、周りのみんなが、いつも翔霏に強さを求めていたから。
翔霏はいつしか、弱音の一つも吐けず、強い自分として振る舞うことしかできなくなったのだろう。
「翔霏、震えてるよ」
抱き締めた私の体にも伝わる、微細な振動。
「寝苦しくて毛布を蹴とばしたからな。体が少し冷えたんだろう」
「気持ち悪いんでしょ。頭も痛いんでしょ。体もいつもみたいに力が入らないんでしょ」
「誰だってそんなときくらいあるだろう。まだ眠気から覚めていないだけだ」
意地っ張りの分からず屋の、一つ年上の女の子。
いや、もう数えで翔霏は十八になったのだから、立派な大人のレディの仲間入りをしているのだ。
そんな彼女に私は、優しくこう言う。
「お医者さまに診てもらうからね。ほら、翠さまのところにも来た百憩さんって」
「嫌だ」
翔霏の体が硬直した。
なにを言っても聞くつもりはなく、テコで以ても一歩たりとも動かないという決意を感じさせる、強い声だった。
「わがまま言わないの。翔霏は病気か、呪いか、なんかよくわからないことになっちゃってるんだから。自分の体が思い通りにならないの、翔霏が一番よくわかってるでしょ?」
まるでお母さんになったような気分で私は説諭する。
けれど翔霏は頑なに首を縦に振らず、
「医者も坊主も嫌いだ。なにより、あの、暗くて、狭い、かび臭い部屋……」
ぎゅ、と自分の体を両腕で抱き、口をとがらせて翔霏がこぼす。
「なにも自由がないんだ。なにひとつ好きにできないあんなところに放り込まれてまで、治したいものなんかない。あんなところ、二度と行かない」
そうじゃないだろうか、と半分予想していたことが、当たった。
私が漣(れん)さまのお部屋で働いて、各種の陰謀を調べて回っていた、そのとき。
危機一髪、翔霏がナイスタイミングで颯爽と現れて、助けてくれたことがあった。
そのときの翔霏は、私に気を使わせないために「解呪が嫌で脱け出して来た」と言ってくれたのだろうと最初は思っていたけれど。
本当に、言葉通りに、古めかしい寺のお堂に閉じ込められて呪いを解く儀式が。
無敵最強の翔霏にとって、なにより怖く、心細くて、たまらなかったのだ。
きっとそれは、自由に身体を動かせるからこその自分の強さを、翔霏が深く自覚しているからだろう。
その自由が奪われたとき、翔霏は翼州(よくしゅう)が誇る最強の少女では、なくなってしまうのだから。
「大丈夫だよ、大海寺(だいかいじ)にはもう行かないから。別のところで治してもらえるんだって。だから、行こう? 今度は私も一緒に行くから怖くないよ」
「別に医者も坊主も暗い部屋も怖がってなんかいない。嫌いなんだ。不愉快なんだ。ゴキブリが怖くなくてもなんだか汚らしくて気持ち悪いのと同じだ。坊主も医者も、ゴキブリみたいな連中だ。あんなやつら、私は信用してない」
言い訳を続ける翔霏。
私はとうとう、怒りゲージのリミットがオーバーしてしまい、叫んだ。
「子どもみたいにワガママ言ってるんじゃないの! 治るって言ってるんだから治しに行くに決まってるでしょ! 翔霏のバカ! 弱虫!」
「れ、麗央那……?」
さっきまでぬるま湯のように優しかった私が突然キレ出したので、さすがの翔霏さんも困惑。
けれど私は知ったこっちゃないとばかりに怒鳴り続ける。
「私を助けてくれた翔霏が私より先に死んじゃったりしたら、私泣くからね! もうずっとこれからの人生、びいびい泣いて暮らすんだからね! 私を置いて死んじゃった翔霏も、そんな翔霏を救えなかった自分もどっちも許せなくて、お婆ちゃんになるまで懺悔して地べたを掻き毟りながら寂しく泣いて暮らしちゃうんだから!」
「そ、そんなのは良くない。麗央那は、幸せにならなくては」
オロオロして私の肩を抱く翔霏を振りほどき、なおも私は叫ぶ。
「だからそのためには翔霏が傍に居てくれなきゃダメだっつってんでしょ、この分からず屋! 私は翔霏と一緒にお婆ちゃんになりたいんだよう! お互いのたくさんの孫とか神台邑(じんだいむら)に新しく生まれた子どもたちに囲まれて、お茶飲んで日向ぼっこして『若い頃はいろんなことがあったねえ』なんてのんびり話しながら余生を終えたいんだよ! なんでそれがわかんないの! もう知らない!!」
ぷりぷり怒髪天で私は立ち上がり、ずんずんと大股で翔霏の部屋を出て行く。
「お、おい、麗央那、どこへ行くんだ」
「後宮の仕事も辞める! 翠さまともお赤ちゃんともお別れ! 私なんか一人で泣きながら神台邑で枝豆でも育ててればいいんだ! 後悔して涙と鼻水まみれになって、私だけで豆作って豆腐食って過ごすからほっといてよ! 翔霏は私を一人ぼっちにしたっていいんでしょ!!」
「そんなわけあるか!」
走って私の前に先回りし、立ちはだかった翔霏。
彼女が私の体を、むぎゅうと力いっぱい抱きしめる。
「私が、私が麗央那を一人にするはずがないだろう! 今までだってそうしてきた! これからもずっとそうだ!!」
えっぐえっぐと泣きながら私は翔霏を抱き返し。
「じゃあ、ちゃんと百憩さんの診察受ける? 呪いを解くために西方まで私と一緒に行ってくれる?」
鼻水交じりの声で、そう訊ねた。
「坊主も医者も嫌いだ。けれど、それが必要なことだというのはわかっていた。みっともなく愚図愚図してごめん。私だってちゃんと呪いを解いて、麗央那と一緒にお婆さんになりたいんだ……」
くうと泣き漏らしながら、翔霏はそう答えてくれた。
私と翔霏はしばらく、司午別邸の廊下でそうして泣きながら抱き合っていたのだけれど。
「あ、あの、央那さん。獏(ばく)書官がこちらにいらして、西方行きの段取りや必要な手続きのことを話したいと……」
想雲くんが水を差してきたので、興醒めな現実に戻らなければならないのであった。
「もうちょっとイチャイチャさせろや。空気の読めん獏ヤロウだ、ったく」
気まずい苦笑いを浮かべる翔霏の手を取って、私は連絡に来た獏さんに会って話すことにした。
次の行き先は、西かあ。
向こうでは、どんな空が見えることかしらね。
なにが待っていたって、私は私たちの希望のために、遠くへ旅に出るのだ。
怖いものなんか、ありはしない。
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