二百十九話 仰げば尊し
昂国(こうこく)へ帰る前に、疫病の対処をした町の様子をもう一度、自分で見ておきたいと思った。
もちろん今も働いてくれているジュミン先生や、一緒に医薬を学んだ聴講生仲間も休ませてあげたいからね。
「こんにちは、央那(おうな)さん、翔霏(しょうひ)さん。町も随分と落ち着きを取り戻してくれました。課題もまだまだ山積みですが……」
少しやつれた顔で、ジュミン先生が私たちの到着を出迎えてくれた。
みんなの頑張りのおかげで伝染病の拡散は封じ込められ、病に苦しんでいた人たちもあらかた快方に向かっている。
けれど、良いことばかりではなく。
「まず私たち、亡くなられた方のお墓参りと掃除をしてきますね」
「よろしくお願いします」
私の申し出にジュミン先生が静かに頷いた。
どんなに未来が明るくても、死んでしまった人たちは生き返ってはくれないのだ。
病気が流行するごく初期から対応できたことが功を奏して、町の中で伝染病そのもので死亡した人は、最終的に二十人に満たない数と聞く。
人口千人ほどの町でこの数字を、多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだろう。
けれどその一人ひとりが、誰かにとってはかけがえのない、最愛の人だったのだ。
墓地に着くと、母を失った少年が静かに祈っていた。
「私が看病した子なんだ。一番早い時期に、お母さんが罹患しちゃって」
「そうか……」
控えめな声で翔霏に教えて、少年の邪魔にならないように私たちも後ろから祈る。
今回の小獅宮(しょうしきゅう)滞在で、私も翔霏も多くの貴重な、得難いものを有形無形問わずに学び、手に入れることができた。
一度失われてしまったものが、もう二度と同じように戻ることはない。
けれどその先には、決して傷付くことも壊れることもない、なにか、すごく強くて大きな、言葉にしにくいものを、得られたに違いないのだ。
「あ、医婦(いふ)のねえちゃんやなかと。お参りに来てくれたとたいね」
私たちに気付いた少年が、笑顔で話しかけて来た。
皮膚には痘痕(あばた)の跡がチラホラ見受けられるけれど、まだ若いし、いずれすっかり消えるだろう。
「うん。私たちもうすぐ、国に帰るから。その前に町のみんなにご挨拶をと思って」
「なんじゃ、もうおらんくなってしまうんかよぉ。薄情な女どもじゃ」
いじけてそっぽ向く少年の顔を見て、私は胸に刺さるものを感じる。
そりゃあね、私だって何人かに分身できれば、そのうち一人くらいはずっと西方で学問を究める道に進みたいさ。
これでも学究の徒であるアイデンティティは捨てていないつもりだからね。
けれど昂国の方にもいくつか気になる案件があったりするし、兎にも角にも翔霏の呪いは無事に解けましたと、翠(すい)さまたちに報告しなければならない。
大人には大人の事情があるんやで、と私が悶々としていたら、翔霏に突っ込まれた。
「この町の子たちを、河旭(かきょく)の都見物に連れて行ってやるという約束をしたのではなかったか?」
「ほうじゃほうじゃ、忘れたたぁ言わせんきにのう!」
私が患者の子どもたちを元気付けるために言ってしまったことを、少年もしっかり覚えていた。
くまったな、いや、忘れてたわけじゃないんですよ。
と、舌をぺろりと出して私はおどけて言った。
「来たいなら別にこっちは良いけど、準備とかいろいろあるでしょ?」
「おぃ以外にもすっかり行く気になっとるけん、声さかければいつでも行けるとよ!」
うーん、フットワーク軽いなー。
どうしようか、と私は翔霏の顔を覗く。
「帰るときに連れていく分には問題ないだろう。念のために突骨無(とごん)のやつから、護送の兵と馬を借りるとするか」
「そうだね。約束しちゃった以上、私たちの方からダメって言えないし」
約束は約束、なにがあろうと守らなければならない。
向こうに着いたときにみんなから大いに驚かれそうだけれど、なせばなる、なんとでもなるさ!
「へへ、楽しみばい。まあ昂の都っちゅうても、少しか太いくらいの街やろ? おぃはそげに驚かんけんね、田舎もんと思われたらいかんばってん」
楽しみを隠しきれないニヤニヤ顔で語る少年の頭を、翔霏が撫でる。
「飛びきり美味い揚げ豆腐をご馳走してやる。楽しみにしていろ」
「都には豆腐しか食うもんがないとや!?」
やりとりを見て、私は悲しさを心の奥にしまい込み、自然に笑うことができたのだった。
こんなときは、笑うんだよ!
「ジュミン先生、後片付けくらいは私たちに任せて、少しは休んでください」
町の医療拠点として構えたテント設備の中。
散らかった不用品、使用済み道具などを整理しているジュミン先生がいる。
まさに「現場もできるリーダー」である彼女の動きが止まっているところを、私たちはほぼ見たことがない。
「ありがとうございます。ちょうど一息入れようと思っていたところでした。お茶にしましょうか」
「酒を飲んでもいいんじゃないか、こういうときくらい。山場は脱したんだろう?」
翔霏が普段では言わないような提案をしたので、私はついつい驚いて埴輪のような顔になる。
ジュミン先生も同様に、意外さを隠さない顔で訊いた。
「翔霏さん、あまりお酒は好まないと聞いていましたけれど。薬と同じで、体に変化をもたらすものだからという理由で」
「確かに普段はそう思っている。前後不覚になりたくはないし、手足の動きも鈍るからな。ただ」
そこで翔霏は一度、言葉を切ってテントの中を見渡した。
私たちが一生懸命、包帯を洗濯したり、各道具を煮沸消毒したり、医療器具を使いやすいように並べた形跡が残っている。
私と江雪さんの血を溜めたお盆も、隅っこに寄せられていた。
ここは文字通り、私たちの戦場だった。
「戦いは終わったんだ。ならば次は、慰霊と慰労の時間があっても良い。そう思うのさ」
翔霏に説かれて、けれどジュミン先生は沈痛な面持ちを浮かべる。
「ですが、亡くなられた人も多くいます。私はこの戦いを、勝利で終えられたとは思っていません。力及ばず命を終えてしまった方たちへの責任を思うと、今ここで浮かれているわけにはいかないと、私は思うのです」
鋼の女。
ジュミン先生は最初から最後までぶれずに戦い続け、その強さを徹頭徹尾示したまま、町を去りたいと思っているのだろう。
先を生きると書いて先生と読む。
まさに彼女はその呼び名にふさわしい、偉大な人だった。
そんなジュミン先生を私は心から尊敬するし、自分もこうなりたいと憧れの思いでいっぱいである。
けれど、翔霏の言いたいことも私は不思議とわかる気がして、余計かと思いつつも口を挟む。
「ジュミン先生は最後まで責任を果たしました。だから今くらい、弱くなってくれてもいいのだと、翔霏は言っているんだと思います。小獅宮から来た私たちだけでなく、町の人みんなも戦ってくれたんです。なら今はみんなで労わり合い、慰め合い、哀しいなら涙を分かち合って、お互いの弱さを受け入れる時間と機会が必要ではないでしょうか」
「麗央那の言う通りだ。先生、あなたは常に『強くあろう』とし過ぎている。しかしそれは硬いが折れやすい鋼の在り方だ。ときには風に吹かれて柔らかく曲がる弱さも必要なのではないかと、私は近頃になって考えるようになったんだ」
さすがに他人への洞察が鋭い翔霏である。
病への憤り、病苦に苛まれる弱き人たちの理不尽な運命への憎しみ。
ジュミン先生の行動原理は、徹頭徹尾、怒りに支配されている。
最強を捨て、弱さを得た翔霏だからこそ、前よりも深くジュミン先生の本質と内面を見通しているのかもしれないな。
その上で、少ないながら私たちも今まで戦い、抗い、一生懸命に生きてきた答えの一つの例を挙げることが私にはできる。
「怒りと、戦いの使命に支配されて、常に強くあろうと頑なに思い続けることは、きっと『自由』じゃないと思うんです。ジュミン先生が弱っているなら、私たちが手を添えることができます。でもジュミン先生がいつまでも強いジュミン先生でい続けたら、私たちは仲間として、なにができるでしょうか」
これはジュミン先生の双子の弟である、百憩(ひゃっけい)さんの持論だ。
「こうしなければならない」という感情や身体の都合は、かえって魂の自由を縛りつけるのである。
敢えてお姉さんであるジュミン先生に、私はこの場にいない百憩さんの代わりのような形で言うのだった。
私の言葉に、少し呆然としたジュミン先生は。
くっ、と下を向き、一筋の涙を流した。
けれどそれは、哀しさや悔しさではなかったようで。
「……私は、良い教え子に恵まれました。いつか誰かにそう言ってもらえることを待っていたのかもしれません。そうですね。私だけが強くある必要なんて、一つもないのです。これだけ多くの、頼もしい仲間がいるのですから」
涙の滲んだままの笑顔でそう言ったジュミン先生。
毅然とした顔に一瞬で戻り、テントの外に出て声を張り上げ、高らかに宣言した。
「みなさん、今まで本当にお疲れさまでした! 早く食べないと腐ってしまう食料がまだ十分に残っています! 今夜は町のみなさん全員で、大いに食べ、飲み明かしましょう!」
「すっからかんになるまで気兼ねせずにやっていいぞ! 追加の物資は白髪(はくはつ)の洒落男にツケで運ばせるからな!!」
続いて翔霏も叫ぶ。
突骨無(とごん)さんは今も西方と戌族(じゅつぞく)領内の間を走り回り、物資の買い付けとピストン輸送の任に当たってくれている。
彼にまるっとタカることになるけれど、ま、いいんじゃね?
「えっ今日はみんな好きなだけ食うてええんか!?」
「宴じゃあ! 酒持って来い! 太鼓ば鳴らせ!! 童(わらし)どもは歌声を響かせちゃれや!!」
「みんなしんどい思いをしたんじゃけ、今くらい贅沢しても、バチ当たらんよの?」
「おっ母、おぃ、おっ母がおらんくなっても、頑張るけん。虚空から見守っちゃってくれや……」
町の人たちは喜びの声と喝采をブチ上げ、手を叩き口笛を鳴らし合った。
道行く人は摘んだ花を大量に通りの脇に添えて、肩を抱き合って笑い、お互いの頬に伝う涙を拭い合っている。
辺りには歌声が満ち、野良犬野良猫も陽気につられて興奮しはしゃぎまわり、小鳥たちが宙を舞い踊る。
ジュミン先生、見えるでしょ、聞こえるでしょ?
私たちが今回の戦いで得た、その結果が。
「終わってるどん底だった昨日から拾い上げた『明日』こそ、今なんですよ!」
私が、将来はこんな立派な人になりたいと、心から憧れる鋼の女、ジュミン先生。
いつも張り詰めていた彼女も、今は眩しいくらいに柔らかく明るく、優しい笑顔で町の人たちと抱擁を交わしていた。
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