第二十四章 血の熱さ、命の奔流

二百八話 生きるために線を超えろ

 刹屠(せつと)と呼ばれるこの地域。

 その中でも私たちが暮らす東方山岳地帯の一角で、謎の熱病が流行り始めた。

 小獅宮(しょうしきゅう)の前庭には、病疫に対処するための第一陣が組織されて、出発に向けて準備をしている。

 私たちのように医薬学の講義を受けている女学僧の他に、その道に知識や経験のある男性僧たちもずらりと参加していた。

 うち一人に、私たちもよく知っている男性まで。


「やはりふもとの町か。いつ出発する? 僕も同行するよ」

「獏(ばく)さん」


 彼は中書堂で百憩(ひゃっけい)さんの仕事である、医療文書の翻訳を手伝っていたことがある。

 基本的な、最低限の医療知識は持っているわけだ。

 伊達にガリ勉していたわけではないということか。

 いざというときにどんな知識技術が役に立つか、わからんもんやねえ。


「たくさんの方にお集まりいただき、非常に感激しております」


 全体のリーダーであるジュミン先生が、居並ぶ面々を前に決起の号令をかけた。


「病など、ない方が良いに決まっているのです。そう言う意味では、私たちが学び身に付けている医術など、必要のない世の中であった方が人々にとって幸せなことなのは疑いようもありません」


 前にジュミン先生は言っていた。

 死も病も、存在して欲しくなどないのだと。

 彼女は本当に、たとえ話ではなく心からそう思っているのだ。

 だからこの世界から病気というものを消して、絶滅させて、みんなが明るく笑って暮らせるために医の道に進んだのだろう。

 途方もない夢だ。

 非現実的なことだ。

 けれど私には、その決意を笑うことなどできない。

 そうあれと信じない限り、達成することも、きっと近付くことすらもできないのだから。

 ジュミン先生の、冷静なのに怒りを感じさせられる言葉は続く。


「しかし、現実はそうはなっていません。忌々しい病魔は、常に私たちの命を狙い、虎視眈々と蔓延(まんえん)跋扈(ばっこ)の機会を窺っています。そのとき、私たちになにができるでしょうか。ただ座して、指をくわえて病魔の拡散を傍観し、苦しみ倒れる同胞を葬送するしかないのでしょうか」

「違います! 私たちには、できることがあるのです! 先生がそう教えてくれました!」


 女学生の一人が、震える大声で叫んだ。

 あ、カモシカの心臓を刺したお姉さんだ。

 ジュミン先生に厳しく促されて、震えて泣きながらもその手で命のなんたるかをわずかでも学ぶことができた彼女は、それを糧にさらなる学びの深みを進むことができたのだ。

 そうだよ。

 私たちは、学んで、身に着けて、できることを増やしている。

 それはきっと、こういう日が来たときのためなんだ!

 にっこり微笑んだジュミン先生は、優しい口調に変えて言った。


「そうです。私たちが学んでいることには、意味があるのです。いえ、学ぶ意味は、自分で作り、見出すことができるのです。私は今回の病魔にも、人の力が勝てると信じています。それだけの修業と研鑽を積んできました。どうかみなさまも私と、周りの仲間を信じて力を尽くしていただきたい。それでは参りましょう。道中、移動の心構えを、翔霏(しょうひ)さんからお願いいたします」

「私か」


 指名された翔霏は前に出てジュミン先生に並び、ふもとの町までの地図をチラ見して、みんなに説明した。


「平和な国だと聞いているから、物盗りなどの心配はそれほどないだろう。となれば気を付けるべきは怪魔などだが」


 そこで翔霏は言葉を区切り、嫌なことを思い出したというむっつり顔で続きを話す。


「人なのか怪魔なのかも知れぬ、妖しげな刀の技を使う通り魔がこの近くをうろついている可能性がある。見かけた際には、とにかく大声を出して私のいる方まで逃げてくれ。私がなんとかする。一般の怪魔に遭遇したときも、その段取りで頼む。くれぐれも無茶はするな」


 翔霏は今回の行動で、移動経路の安全確保、用心棒に専念する。

 みんなが医療器具や支援物資を持ち運んで、ふもとの町を往復する際の、治安維持を担うということだ。

 一度は痛み分けに終わった私たちと片手斬刀女だけれど。

 次に遭遇したら、勝てる算段は、ない。

 けれど、だからと言って逃げる翔霏ではないし、止める私でもないのだ。

 逃げればマイナス、進めばプラス。

 数学が苦手な翔霏であっても、その世界観を共有しているのだから。

 私たちが疫病に立ち向かう闘志をふつふつと燃やしている、その場で。

 湖面のように静かで変化のない姿勢と表情を崩さずに、不意に江雪(こうせつ)さんが言った。


「わたくしも、今回はお役に立てるでしょうか」


 その言葉から、私は彼女の中に眠っていたのであろう無力感と後悔に、今やっと気付く。

 去年の晩秋、覇聖鳳(はせお)が後宮を襲ったときのこと。

 江雪さんは対処案のいくつかを、翠(すい)さまに化ける私の前で口にしてくれた。

 けれど状況が悪かったこともあり、私は却下してしまったのだ。

 きっと、江雪さんの後悔は。

 大事なときに、みんなの役に立てなかったこと。

 無力で無知な自分だったという、身を引き裂きたくなるほどの忸怩(じくじ)たる思い。

 後宮が襲われてもどうでもよかったのではなく、いつもと変わらない涼しい顔の下で、彼女なりに戦ってくれていたのだ。


「頑張りましょう。あの秋だって、一緒に生き伸びれたんですから」

「ふふ、懐かしいですね」


 私の言葉に江雪さんは屈託なく笑う。

 あのとき、私が翠さまに化けて叫んでいるということは、西苑(さいえん)の多くの妃にはバレていた。

 兆(ちょう)博柚(はくゆう)佳人が教えてくれたんだよね。

 みんな、知ってて騙された振りをして、私と一緒に戦ってくれたんだ。

 ジュミン先生の指示を聞き、出発の支度に取り掛かる中で獏さんが私の近くに寄って来て、言った。


「冷静なのに熱い先生だね。学者より将軍とかの方が向いてそうだ。百憩僧人のお姉さんだって話だけど、全然違うなあ」


 百憩さんの方が、病も呪いも「そこにあるもの」として、良くも悪くも受け入れて諦めている分、ある意味では大人である。

 疾病を蛇蝎のごとくに恨んで敵視しているジュミン先生は、訳知り顔の弟よりも子どもっぽく意地っ張りで、それゆえに可愛いとも言えるな。


「病という敵と戦うことに身命を賭している点では、ある意味で軍人さんたちと似てるかもですね。ちょっと厳しいけど頼りになる人ですよ」


 私の言葉に満足げに頷いた獏さん。

 ジュミン先生を見つめて、温度と湿度の高い吐露を漏らした。


「素敵な女性だ。ここにいる間に仲良くなれるかなあ」

「こんな真面目な場でキモいこと言うなや、このスケベ野郎。てめえみてえな下半身脳は病気をうつされて死んじまえ」


 百憩さんの双子だからかなりの年齢なはずだけれど、お構いなしかい。

 小師さまぁ、コイツ全然、修業の成果が身になってませんよ?

 もっと厳しく当たってもらうように、あとでこっそり言いつけておくか。


「そこまで言うことないじゃないか。別にいやらしい意味じゃないんだし」


 私に暴言を吐かれて肩を小さく竦めた獏さんは、すごすごと男性陣の中へ戻って行った。

 あの人、男性の友だちが少なそうなタイプだけれど、男子寮で上手くやれているのかしら。

 ちょっとだけ心配してあげちゃう私は優しい。

 居場所がなくぼっちとか、私もかつて人生の局所局所では経験したことがあるからさ。

 そんな境遇だって、学校だけが自分の居場所じゃないという、至極当たり前のことに気づけたなら、別に気にならないんだけれどね。

 マジ温かい家庭とお母さんに感謝、リスペクト過ぎる。

 数頭のラバに荷車を引かせて、ジュミン先生が歩き進めた。


「さあ行きましょう。翔霏さん、道中よろしくお願いします」

「ああ。みんなの力で無事に病を癒せると良いな」


 私たち第一陣の面子が、列をなしてぞろぞろと峠の向こう、南西にある町へと向かう。

 そのとき、道を歩いていた私の後頭部に、なにかこつんと当たるものがあった。


「なんだよう、誰か石でも投げた?」


 訝しんで後ろを見て確認する。

 ぱさり、と地面に軽いものが落ちたのがわかった。


「飛行機の模型だ。プロペラ付いてる」


 遠くまで振り返り仰ぎ見ると、小獅宮が構えられている崖の上に、仁王立ちの人影があった。

 山泰(さんたい)くんが、こんなに離れたところまで模型を飛ばしたんだ。

 今回は失敗しなかったんだ。


「帰るまでは、早まって飛び降りて死んだりしないでね」


 今まで生き急いでいた自分と彼の姿を、重ねるように見つめる。

 私たちは、まだまだ生きなくちゃいけない。

 それが、生きて遺されたものたちの使命であり、責任だと思うから。

 熱い思いを抱えて、私たちは病魔に襲われている町に入った。

 石灰岩の切り石を積んだ、密閉性の高い住居が立ち並んでいる。

 道中、変なやつに襲われたりしなかったのは僥倖と言える。

 けれど、ああ、世界はそこまで私たちに都合よく作られてはいないらしく。


「痘瘡(とうそう)だ、なんてこった……!」


 町の入り口付近にうずまって患部を掻き毟っている、男性患者。

 彼の顔を見て獏さんが、慄いた声を上げた。

 私の体にも抗体が存在しない、極めて悪質な伝染病。

 天然痘、もしくはそれに類すると思われる重篤な疱瘡の病気が、町の住人たちを襲っていた。

 ジュミン先生は、荷車の中から石灰の粉を持ち出して、町の入り口に白線を引いた。

 まさに、学校のグラウンドに石灰粉の手押し車で引くような、真っ白なあの線だ。

 そして自らまず一歩、線を超えて町の内側に足を踏み入れて、力強く申し渡した。


「療養に直接、関わらないものはこの線を決して超えてはいけません。中に入らない人たちは、物資をこの場に置いて直ちに小獅宮に戻り、重い痘瘡の蔓延が発生したことを高僧たちに急ぎ伝えてください。今すぐ!」

「は、はいっ!」


 声を掛けられた一団が、急いで今来た道を引き返す。

 

「麗央那……」


 彼女たちを護衛しなければならない翔霏とも、ここでしばしの別れだ。

 もちろん私は、ジュミン先生と一緒に町の内部で療術と防疫に取り組むつもりだからだ。

 私たちの間で常に発せられる、魔法の言葉。

 今回も、よろしくね。


「大丈夫、大丈夫。翔霏もしっかり、気を付けてね」

「わかった。信じているよ」


 翔霏は護衛として小獅宮へ戻り。

 私は反対方向に足を進める。

 ジュミン先生が地面に描いたか細い白線が、私の運命の境界を示している。


「あのときに比べりゃ、屁でもねえわ」


 去年の秋。

 覇聖鳳(はせお)たちがたむろしている後宮の外へ、塀を乗り越えて飛びだしたときを思い出す。


「わたくしも、今日はこの先へ行けるのですね」


 横に並んだ江雪さんと一緒に、私は病魔の巣へと飛び込んだ。

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