二百二十一話 人生足別離
昂国(こうこく)から留学名目で滞在していた一行。
すなわち獏(ばく)さん、翔霏(しょうひ)、そしてこの私、麗央那。
とうとう小獅宮(しょうしきゅう)を去る日の朝を迎えた。
「おはよう翔霏。忘れ物はなさそう?」
「ん……どうせ大した荷物もない……」
翔霏は昨夜に飲んだお酒がまだ少し残っているのか、眉間に皺を寄せてのろのろとベッドから這い出て来た。
一方で湿っぽい別れにしたくないと思い、早起きして事前に泣けるだけ泣いておいた私に隙はない。
結局あの後、空中遊泳を果たした翔霏は屋上で飛行男子やその他ギャラリーに囲まれて、夜が更けるまで飲めや歌えの大宴会を開催してしまったのだ。
私も一曲、その席で高らかに歌いましょうとやる気を出していたのだけれど、翔霏に止められてしまったのが最後の心残りである。
「……麗央那の歌を、こいつらに聴かせるのはもったいない」
なんて翔霏は言ってくれたけれど、それが優しさという名の残酷であることを、私は十分に知っているのです。
結局は偉い高僧のおじさんに「いつまで騒いどるんかこのだらずどもがぁ!」としこたま怒鳴られて、みんな逃げるように解散した。
それもまた良い思い出だよね。
「うううう、もう泣かないって決めたのにぃ」
楽しいこと、大変だったこと。
それら様々なことを思い出すとどうしたって際限なく、眼鼻から水が湧き出て来てしまう。
この力で水不足を解消できるのでは?
私が干からびるだけだし、誰もこんな汚水を使いたがらないんだよなあ。
「楽しいところだったな、本当に」
ぐずる私をむぎゅっと優しく抱きしめて、翔霏も鼻声で言った。
うん、楽しかったんだよ。
辛いこともひっくるめて、それをみんなで一緒に乗り越えたからこそ楽しかったんだ。
「また来ようね。今度はもっと、しっかり勉強するために」
「そうだな。まだまだ私たちはなにも知らないちっぽけな若造だ。学べば学ぶほど、そのことを思い知らされた気がしたよ」
世界は想像するよりもずっと広いのだということを、私たちは小獅宮という岩を掘ったあなぐらで知ることができた。
その感謝を、同じく早起きして私たちを待ってくれている小師さまに伝えるため、私たちは一層の奥にある大堂へと向かった。
「二人ともおはよう。いやあ昨日はしこたま飲んだねえ。まだ頭が痛いよ」
堂の入り口で獏さんが待ってくれていた。
「え、獏さんも帰るの? まだまだ修業してってくれていいんですよ?」
「なんで隙あらば僕だけ仲間外れにしようとするのかな、央那ちゃんは……」
最近は、雑な扱いにもしっかりクレームを入れてくる生意気な獏さんであった。
「せっかく西方まで来たのに、どうせスケベは治ってないじゃないですか」
「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。僕は別に下心から女性に近付こうとしているわけじゃないんだ。日々を暮らす中での自然な流れとして、お互い分かり合って仲良くなるのは素晴らしいことだろう?」
「あー聞きたくない聞きたくないー」
下半身魔獣の屁理屈に騙されるこの麗央那ではないわ。
貴様が昨日の飲み会の途中で、なんかむっちりふくよかな極めて色っぽいお姉さんと物陰でコソコソ話していたのは、まるっとお見通しなんだからな?
「さっさと入ろう。年寄りをあまり待たせるものじゃない。くたびれてぽっくり逝ってしまうかもしれんぞ」
冷静で口の悪い翔霏が、私たちのバカ話に区切りを打って、大堂の扉を開けた。
相変わらず、小師さまは奥の高段にちょこんと座って私たちを待っていた。
この人が立って歩いている姿を、最後まで見ることはできなかったな。
「しゃしゃしゃ、もう帰るんかよお、寂しいなるわいな」
「すっごい良い顔で笑ってんじゃん」
どの口が言ってるんだ、とばかりに私がノータイムで突っ込んだ。
こりゃ一本取られた、とばかりに小師さまは自分の額をぴしゃりと手で打って続ける。
「ワシももう長いことありゃせんでの。これが今生の別れになるかもしれんと思うたら、笑う方がええじゃろがい」
「縁起でもない。長生きしてくださいよ小師さま。また顔を見せに来ますから」
獏さんが獏さんらしからぬ、まっとうで良いことを言った。
くそう、獏のやつに泣かされてたまるもんか!
ウンウンと静かに私も翔霏も頷きを見せる。
なんとなくだけれど、そう遠くないうちに再訪する予感がするんだよね、実際。
獏さんの専門はただでさえ西方の技術知識を、昂国の言葉に翻訳して伝える仕事でもあるのだから。
「嬉しいこと言うてくれるのお。ワシもおめえさんらが来ると、気持ちがちくとは若返る気がするんじゃわ。気兼ねせんといつでも遊びに来いやぁ」
「はい、それまでお元気で。お身体にお気を付けてください」
こだわりなく言って、私たちは小師さまとお別れをした。
しみったれた別離にならなかったのは、ひとえに小師さまの笑顔と軽やかさがあったおかげだ。
正直言うと、いったいこの人はなにがどう偉くて指導者の座に収まっているのだろうと疑問に思っていたときもある。
けれどそれは私の不見識で、誰に対しても裏表なく、あの態度で接することができるというその一点で、小師を務めるのにまったく不足がないんだろうな。
実際に学問を教えたり沸(ふつ)の道を追究してくれるスタッフは他に多くいるから、小師さまの役割は精神的支柱ということなのだ。
「そこにいるだけでみんなが安心して、活き活きと暮らすことができる存在というものか。どれだけの経験と年輪を重ねればその域に達するのか、想像もつかんな」
荷物をまとめて外に運び出しながら、翔霏も感心している。
「うちの軽螢(けいけい)もいつかはそんな長老さんになって、邑の人を導いてくれればいいけどねえ。道は果てしなく遠そうだ」
来たときよりもずいぶんと重くなった背嚢(リュック)をひいこらと担ぎ、私も言う。
ジュミン先生の講義を聴いていた医薬生の仲間たちが、要点をまとめて昂国の言葉に翻訳したノート、メモ類をたくさん、プレゼントしてくれたからだ。
「また一緒に、カモシカの鍋を食べましょう」
いつだかに獣の解剖実技に参加した彼女も、明るくそう言って私たちを送り出してくれた。
実際に一緒に学んだ時間は決して長くはなかったけれど、私は彼女たちとの確かな絆を抱えて帰国できることを、本当に嬉しく、誇りに思う。
そして、なによりその中でも。
「もう、発(た)たれるのですね。帰りの道中も、どうかお気をつけて」
いつも通り、穏やかな微笑で私たちを見送りに前庭まで来てくれた、楠(なん)江雪(こうせつ)さん。
後宮の妃を引退し、今度こそ本当の「自分の生きる世界」を手に入れた彼女は、目に見えない自信のオーラに包まれているようでもあった。
ずいっと迫って、まだ切り裂いた傷跡が深く残ったままの手を握り合って。
私はもう、無理に涙を抑えようとせずに、心のままに江雪さんに伝えた。
「私、江雪さんと一緒に血を流した夜のこと、一生、忘れませんから。私たちはもう、同じ日に同じ目的のために血を流し合った本当の仲間で、姉妹なんです。また絶対に会いに来ますからね。そのときも鬱陶しがらないで迎えてくださいね」
江雪さんも優しく笑う目尻に涙を溜めて、私の言葉に応えてくれる。
「わたくしも、央那さん……いえ、央那のこと、けっして忘れません。朱蜂宮(しゅほうきゅう)のみなさまにもぜひ、自慢してお伝えください。わたくしは、江雪はここ小獅宮で、目いっぱい、生きているのだと。みなさまに負けないくらい、力の限りに生きているのだと……」
「わああん、江雪~~! またすぐ会いに来るからね~~! それまで元気でね~~~! 約束だよ~~~!!」
滝のような涙を流し、私たちはお互いの名を呼び捨て、きっつく抱き合いながら再会を誓う。
次の約束があるから、それまで絶対に、元気で生きて行けるんだ。
こうして私たちは、小獅宮で果たすべきことを一旦はすべて終えて。
再びの未来に必ず果たすことをたくさん携えて、帰る場所へと向かう。
途上でまず、真っ先にやるべきことは。
「はぁ女の準備は長うてかなわんわ。いつんなったら出発すると?」
「ほうじゃほうじゃ、こんだけ期待させとってからに、昂国の都がしょぼくれてつまらんとこじゃったら、食らわしたるけんな!」
口の悪い西方のガキども数人を、皇都の河旭(かきょく)に引率しなければならない。
遊びに連れて行ってあげると約束してしまったからには、ちゃんとしっかりお姉さんとして、保護者として務めなきゃね!
かかる費用は、考え得る限り、頭に思い浮かぶ全員に、押し付けてやるさ!
私は、一銭も、払わん!!
「はいはい、良い子にしてないとお菓子をあげませんよ。途中の山道で怖~い獅子が出るから生意気言う子は食べられちゃうかもね」
私は子どもたちに飴ちゃんを配る。
同時に、列をはぐれたりすると獣に食われるかもしれないと脅しにかかる。
「で、デマカセば言うなや、ねえちゃん」
「獅子なんぞ、こん辺りにはもうおらんけんね。ばっちゃも見たことなんぞありゃせんって言うとったが」
あら~、私ってば地元の人でもお目にかかれない激レア動物に遭遇しちゃった?
フフンと自慢げな顔を示し、無知な小童どもに得意げに言って聞かせる。
「カッコ良かったんだぞ~。ふっさふさの鬣(たてがみ)でね。目つきもキリッとしてて、手や爪も逞しくて、そんじょそこらの熊より強そうでさ。濃い灰色の毛並みがなんとも言えず渋かったなあ」
気持ちよく語る私に対し、少年少女たちは顔を引き攣らせて。
明らかに恐怖を浮かべた声色で、こう言った。
「は、は、灰色獅子ばい……」
「ね、ねえちゃん、まさか灰色獅子の目ぇば見たとや? 見入られて見初められてもうたんじゃなかとね!?」
「あ、あぅぅぅぅ、もう終わりじゃァ……ねえちゃんも永劫の円環に導かれて、閉じ込められてしまうんじゃあ……」
おしっこまで漏らしそうなほどガタガタ震えている子もいる。
え、ちょっと遠くからライオンを見たくらいで、なにこの騒ぎ?
ひょっとして私、またなにか良くないものに出くわしちゃいました?
「獅子に睨まれていたのは私だ。それがなにかあるのか?」
翔霏の質問に、こわごわと顔を青くした子どもたちは答える。
「は、灰色獅子は、万獣(ばんじゅう)の王で、戦いの神なんじゃ」
「善人じゃろうが悪人じゃろうが、お構いなしに『強い戦士』を求めて、自分の御使(みつか)いにしてまうっちゅう話を、ねえちゃんらは知らんとね?」
子どもたちは、さも常識のように言うけれど。
「知らんなぁ~、初耳だワ。きみたちの町に伝わってた昔話?」
私たち、そこまで西方の刹屠(せつと)という土地に詳しいわけじゃないのでね。
一気に無知を晒してしまった私を憐れむように、子どもたちが教えてくれる。
「ほうじゃほうじゃ。灰色獅子に見止められたもんは、終わりない戦いと争いの地獄に招かれるんじゃ」
「死にとうても死ねん、なんも報いなんぞありゃあせん、永遠の血の海に……」
「ただの一度も負けはせんのに、誰一人として理解してくれるもんはおらんのやで……」
ひぃぃぃぃ、と話しながら怖さの限界を迎えてしまった子どもたちが、お互いの体を抱き、身を寄せる。
おそらく灰色獅子の怪異たるお伽噺は、西方に伝わる民話、神話の類だろう。
争いの少ない平和な土地だからこそ、戦いや暴力に夢中になるような攻撃的な人間を戒める必要がある。
そのために語られ続けた、道徳訓話の一種じゃないかなと私は思う。
一通りを聞き終えた翔霏は、そんな私の見解とは少し違う視点から意見を述べた。
「獅子に見初められた哀れな戦餓鬼(いくさがき)は、もうどこにもいない。私がぶちのめして、あの世に、虚空の果てに送ってやった。これからは灰色の獅子を見てもお前らは怖れなくてもいいんだ。ただの大きい猫だからな」
自信満々に言った翔霏を、子どもたちはぽかんとした顔で見つめて。
「ね、ねえちゃん、獅子の、戦神(いくさがみ)の御使いに勝ったとや!?」
「生きちょる人間が勝てよるもんなんかよぉ!?」
色めき立って、翔霏の周りに寄ってたかった。
一瞬にして子どもたちのヒーローになった我らが翔霏さんは。
「フッ、まあまあやるようだったが、所詮は私の敵ではなかったな。誰かに使われて戦っているようなやつなど、ものの数ではない。いくらでもかかって来いと言う感じだ。片っ端から、頭の鉢を割ってやろう」
満面のドヤ顔で言い放ったのだった。
「おかしいな、僕の記憶では、一度は負けそうになってたのを見逃されたはずだけど……イデッ!?」
獏さんが余計なことを言いかけて、太腿にキツい爪先蹴りを喰らっていた。
あまりにも速い突っ込み、私でなきゃ見逃しちゃうね。
このようにやっぱり翔霏は、なにがあっても私の大好きな翔霏のままでありましたとさ。
そして私は。
一つの、ひょっとしたらそうかもしれないという想定を。
世界の別の観方を得る。
きっと翔霏の呪いが綺麗さっぱり消えてなくなったのは、すべてが私と江雪の血薬のおかげではなく。
もう一人の「戦いに憑りつかれた翔霏」が、忌まわしき呪いの大半を抱えたまま、虚空へと消え去ったからではないのだろうかと。
根拠もなにもないのに、不思議とそう思えてならないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます