二百十三話 蛇の毒
痛み止めも飲まず塗らずに、私と江雪(こうせつ)さんはお互いの手首を、薄刃の剃刀で切り裂いた。
痛くないと自分たちの危機がわからないから、痛みを止めてはいけないのだそうだ。
「ンギィ……」
ぱっくり割れた血管から流れ出る血液が、じわりじわりと丸盆に溜まってゆく。
私の血と江雪さんの血が混じり合い、きっと私の認識が及ばない力が働いて、効果も未知の霊薬ができるのだろう。
「こんなときにお話しすることではないかもしれませんが」
鮮血を垂らす傷口から目を逸らさずに、江雪さんは語り始めた。
「本当のところ、わたくしは主上の寵愛を受け、お子まで宿した翠(すい)貴人に嫉妬していたのです。なぜわたくしではなくあの人ばかり。毎夜毎夜その気持ちが強くなるばかりで、こんな気持ちのまま朱蜂宮(しゅほうきゅう)で暮らしていても意味のないことと自棄(やけ)になって、親類の伝手を頼りここまで逃げて来たのです」
「あそこの暮らしが向いてないって、そう言った理由ですか」
誰だって、平然としている顔の下に隠しているものはある。
けれど、最初の動機が醜い妬心だったとしても、真面目に小獅宮(しょうしきゅう)で学び続け、修業の日々を送っている江雪さんを、誰が笑えるだろうか。
今、お互いの命をまさに握り合っているからこそ。
翠さまの侍女であった私に、江雪さんはこの話を告白しようと思ったのだろう。
こんな状況が来なければ、きっと私は江雪さんから打ち明けられることもなかったはずだ。
頷いて続きを話す江雪さんは、どこか心のつかえが取れたような、柔らかく優しい顔を浮かべた。
「けれどわたくし、こちらに来て気付いたのです。わたくしは、なにもしていなかった。誰のお役にも立っていなかった。わたくしは、他の誰も愛してなどいなかったのだと。そんなわたくしが翠貴人を妬む資格などないし、主上をお恨みするのもお門違いなのですよね。翠貴人は人を愛しておられるからこそ、人に愛されるのだという当たり前のことに、この歳になってようやく気付くことができたのです」
わかる、わかるよ。
あんなに熱く濃い愛情を、他者に注げる人なんて翠さまの他に私も知らない。
「誰だって普通は、翠さまの真似なんかできません。私もお側で仕えていて、自分の小ささを思い知らされてばかりでした。いちいち比べちゃいけないんです」
顔はそっくりに化けられても、私と翠さまは違うように。
誰だって、他の誰かと違うのである。
仕方のないことであると同時に、むしろそれでいい、それだからいいんじゃないかと思いたいよね。
「わたくしも、そう思えるように努力しました。自分には、自分なりというものがあるのだと」
「そうですよ。ありのままの江雪さんを私は素敵だと思います。今もこうして、病に苦しむ人のために自分の身を投げ打っているじゃありませんか」
別に誰に褒められたくてやっているわけじゃないとしても、だ。
今、私は自分を誇りに思えているし、同じく血を流している江雪さんを素晴らしい人だと思っている。
誰にも迷惑かけないんだし、ここで自画自賛したって、いいじゃないのよさ。
けれど、ポジティブに良い面を探して並べ立てる私に寂しそうな目線を向けて、江雪さんは俯いて言った。
おそらくは、彼女の心の中で、最も隠したいであろう、闇の部分を。
ひょっとしたら死ぬかもしれない術法の間にあって、江雪さんは、懺悔せずにはいられなかったのだろう。
「わたくしは、素敵だなどと言われてはいけない女なのです。だって、だって」
ぽつり、と涙の雫を落とした告白。
「この町が病に見舞われたと聞いたとき、これでやっとわたくしも、誰かの役に立てると、喜んでしまったのですよ。多くの人が苦しんで倒れているというのに。町の人たちがわたくしを必要としていることに、なんとも言えない嬉しさを感じてしまっているのです」
「江雪さん……」
涙に濡れた彼女の悔恨と、結局は消えなかった罪悪感。
「人が死ぬ状況で、わたくしは幸せだと感じてしまっているのです。わたくしはまさしく、毒を持った蛇の女なのです……」
泣き笑いの中に狂気を潜ませた江雪さんの顔は。
どうしようもなく破滅的で、儚く、美しかった。
善悪を超越した、激しく揺れる人の心の美しさを、余すことなく私に見せつけていた。
その話を聞いて、私は。
「くくくっ」
「……お、央那さん?」
「あっ、あはははは、くっはははは」
こらえきれず、声を出して笑った。
「な、なにがおかしいのでしょう」
問いに、私は爆発しそうな羞恥心を抱えて答える。
江雪さんが正直に、他人には話せないことを打ち明けてくれたのだから。
私も、そうするしかあるまいよ。
それが封じられし闇の記憶を、解き放つことになっても、だ!
「実は私も、もう少し今より若い頃、悪いやつがいきなり襲って来ないかなー、世界が滅茶苦茶にされないかなー、って思っていました」
「は?」
「そこで私に特殊な力が目覚めて、苦しむ人たちを助けながら、バッタバッタと悪いやつを薙ぎ倒すんです。退屈な毎日が嫌で嫌で、そう言うことを考えることがよくあったんです」
顔から火が出そうだし、今すぐこの場をのた打ち回りたいけれど、手を繋がなければいけない術の間なので、我慢する。
けれど私の荒唐無稽な話に不満があるのか、そうじゃねーんだ、なんの話をしてやがる、とでも言いたげな顔で江雪さんは意見を差し挟んだ。
「……あなたのそれは、若い時分によくある、熱に浮かされたような空想のお話でしょう。そうではなくわたくしは今、現実に」
「空想でも妄想でも、なかったんです」
「え」
私がハッキリと告げたとき、江雪さんは驚いたと同時に、涙を引っ込めた。
そして私はごくかいつまんで、説明した。
私と、戌族(じゅつぞく)青牙部(せいがぶ)の頭領、覇聖鳳(はせお)という男の因縁を。
そして私は、恥ずかしいけれど胸を張って言い切った。
「覇聖鳳と二度目の出会いになる、江雪さんも知っている秋の後宮襲撃事件のとき。私は心から喜んでいました。よくぞ今、私のいる朱蜂宮を襲ってくれた! と、膝を叩いて叫びたくなるほどの歓喜に溺れました。中書堂が燃やされ、後宮の塀が打ち破られ、大好きな先輩の毛蘭(もうらん)さんまで大怪我している最中なのに、私は」
一気にまくし立てているのを区切り、すー、と息を吸って。
恍惚とした気分で、私は昨年秋の思い出に浸り、吐露した。
今まで誰にも言っていなかった、秘密の本音を。
「震えるほど、幸せでした。ここで死んでもいいって、本当に心から思えるくらいに。私はこの日のために、ここまで生きていたんだなって感じました」
私の話を、ぽかんとした顔で聞いていた江雪さんだけれど。
少し考え、納得するような表情を見せ、当時の私たちに共通した思い出を述べた。
「……だからあんなに、活き活きとしていらしたのですね」
「やっぱり江雪さんも、あのとき私が翠さまに化けていたことに気付いてましたか」
イタズラがばれたような照れ笑いを私は浮かべた。
そう、あのときの私は、楽しかった。
いくらきれいごとや偉そうな言い訳を重ねても、その感情は誤魔化せない。
むしろ今だって、それに近い気持ちだよ。
病という恐ろしい敵に苦しむ人のために文字通り、血を流しているなんてさ。
今の私と江雪さんってば、最ッ高にヒーローじゃんか!!
自信満々に紅潮した私の顔を見て、江雪さんはクスリと笑う。
「そうか、そう思っても、いいんですね。それが嘘偽りない、わたくしたちなんですものね」
「まあ人によっては私たちの感情に文句を言ったり説教垂れたりするかもしれませんけど、どうでもいいんですよ、他人の解釈なんて。私がたとえそう考えていたとして、それで誰か困ってるのか? くらいの気持ちでいいと思います」
一人一人、持っている、見えている世界は違うのだから。
心の中くらい、自由でいさせてくれや。
なんて、私も偉そうに言ってしまったけれど、まだまだそこまでこだわりなく生きられているわけではない。
けれど私も江雪さんも若いんだし、これからいろいろと悩んで学んで、大事なことを少しでも掴みながら過ごせばいいじゃないか。
今の段階で絶対完璧な人間なんて、世界のどこにもいるはずはないのだから。
「ふふふ、そうですね。自分は自分、それがきっとなにより大事なのですね」
「わかっていただけると嬉しいです。ところでそろそろ私たち、止血に取り掛からないと、命が危険な気がするんですけど」
ついうっかり話し込んでしまい、お互いの失血に意識が向いていなかった。
盆の中に溜められた血液の量、麗央那なりの目算で計測するに、すでに700ミリリットル以上!!
あーダメダメ、私たちそこまで体が大きくないんだから、一人当たり400ミリリットル以上の血液を失うのは非常に不味いですよ!!
「あら本当ですね。わたくし、空いている方の手が利き手ではないので、止血の帯を結ぶのが上手くできないかもしれません」
「それはもうちょっと早く言ってくれませんか!?」
私と江雪さんがジタバタしながら、上手く協力できずに包帯と格闘していると。
「二人とも、加減はどうです? なにか手伝えることはありますか?」
ナイスなタイミングで、ジュミン先生が様子を見に来てくれた。
「もう十分、血は採れたので私たちを止血してくださいお願いします!」
「それを早く言いなさい! 呼べば来られるところで待っていたのですから!!」
私の要求に激怒の声で応じたジュミン先生が、驚くべき手際の良さで二人分の止血を見事にこなした。
あっぶねー、不器用二人、小屋の中で出血多量で死ぬところだったぜ。
安心したのか、江雪さんはうつらうつらと船を漕ぎだして。
「あ、気が遠くなってきました。ジュミン先生、後の段取りはよろしくお願いいたします」
そう言い残して、スヤァと気を失った。
「私もなんか、寒い、眠い……」
死ぬような予感はないけれど、私も貧血を覚えてその場にこてんと倒れる。
「まったく無茶をして! 誰か! お湯と布巾を持って来て、彼女たちの体を温めてください! 今すぐ!!」
薄れゆく意識の中で、ジュミン先生の怒りの指示が飛び交うのを私は聞くのだった。
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