二百十二話 血

 突骨無(とごん)さんが颯爽と走り去った後、獏さんが私の傍に寄って聞いた。

 彼ももう重度濃厚接触者扱いなので、重症者にも、症状が過ぎ去った人にもお構いなしに近付いている。


「ず、ずいぶん精悍な武者だったけど、央那ちゃんの知り合いかい?」


 勉強と女のことにしか興味ないのではと思っていたけれど、突骨無さんの纏うオーラが獏さんにも見えたらしいな。


「白髪部(はくはつぶ)の大統さまですよ。北方に何度か行った縁で顔見知りなんです」


 私が平然と答えるので、獏さんは口をあんぐりと開けて黙り込んでしまった。

 色男、金も力もありにけり、だからね彼は。

 なんだこいつ、身の程知らずにもやっかんでるのかしら。

 あんたじゃ到底及びもしないような大人物だから、下手に対抗心とか燃やさない方が良いぞ、マジで。

 男の嫉妬心ほど、煮ても焼いても食えないものはないのだから。


「そ、そうか、戌族(じゅつぞく)の、大頭目かあ……」

「ちなみに中書堂の下手な青びょうたん連中より頭もずっと良いです。気さくで優しいし話しやすいので領民にも慕われています」

「嘘を吐くなよ。そんな完璧な男がいるわけ、いるわけ……」


 希望の芽を摘み取るために止めを刺してやったら、うわ言を呟いてどっか行った。

 うんうん、その普通さを好きだと言ってくれる女性だって、きっとたくさんいますよ、元気出して。

 まったくもって私の趣味じゃないけれど。

 でも真面目に患者さんたちに向き合って丁寧にお話を聞きながら治療を進めている獏さんの姿勢は、麗央那的にポイント高い!

 女の患者さんにばかりやたら時間をかけている気がするので、プラマイゼロかな。


「突骨無が持ってきた荷物の中に、手紙が紛れていたぞ。麗央那宛らしい」


 町の入口外で荷下ろしと仕分けをしている翔霏(しょうひ)が声をかけてくれた。

 どうやら突骨無さんは西方に来るついでに、私の知り合いからの手紙を預かってくれていたようだ。

 偉い人にお遣いさせちゃって、申し訳ないですね。

 

「わざわざ私に手紙なんて、誰だろ?」

「わからん。表書きに差出人の名前はないな」


 翔霏が乱暴にクシャっと丸めた手紙を、ぽーいとこっちに投げてよこす。

 手紙は言葉と想いが乗ったものですからね、もう少し丁重に扱ってもいいのではないでしょうか。

 翔霏は忙しくピストン輸送の任に戻る。

 私は受け取った手紙を丁寧に開いて伸ばして。


「送付麗」


 その三文字だけが大書きしてある表(おもて)を見て、誰がくれた手紙なのかを直感した。


「玄霧(げんむ)さんか。ちゃんと気にしてくれているのは嬉しいけどさ」


 あの人がわざわざ手紙を書くんだから、なにかまた厄介ごとなんじゃないかとげんなりするような、複雑な気持ちも同居する。

 私、今こっちのことがいっぱいいっぱいなんで、昂国(こうこく)や後宮周りの問題には、さすがに対処できませんのことよ。

 ときめきとは遠いドキドキを胸に抱え、私は内容に目を通す。

 中に書かれていたことも、長くはない、たった一つの報告ごと。

 誰が困っているとか、私になにをしてほしいとか、そんな負担の発生する記述はまったくないと言うのに。

 私はその内容に、重い冷水を大量にぶっかけられたような衝撃を受ける。


「除葛姜 賜恩赦 而還尾州」


 首狩り軍師、除葛氏(じょかつし)旧王族傍流の姜(きょう)さんが。

 おそらくは皇帝陛下からの恩赦をもらい、拘禁が解かれて地元の尾州(びしゅう)に帰還した。

 たった数文字、ただそれだけの事実を記した一枚の紙っきれであるはずなのに。


「なんッで、そーなるんだよぉぉぉぉッ!?」

 

 私の頭と全身の血液を沸騰させるには、十分だった。

 怒髪天を衝く大絶叫に驚いたのか、ジュミン先生が駆け寄って来た。

 と言ってもお互いの喋る飛沫が届かないくらいの、微妙に距離を開けた場所までだ。

 ジュミン先生が倒れてしまっては私たちは終わりなので、彼女には固く密を避けてもらっている。


「どうされました、急にそんな大声を出して」

「取り調べ中だったはずの姜さんが解放されて、尾州に帰っちゃったんです! 誰だそんなことを皇帝陛下に具申したやつは! ちゃんと事件の全容は解明されたんだろーなぁこんにゃろー!!」


 私の言っていることがよくわからないのか、ジュミン先生は江雪(こうせつ)さんの顔を見て「なんの話?」と無言で訊くジェスチャーをした。

 江雪さんも翠(すい)さまの妊娠中に朱蜂宮(しゅほうきゅう)を去り、ここ西方で修業の日々を送っていたので、知らないはずである。


「尾州宰相の除葛姜さまのことでしょうか」


 のほほんと尋ねる江雪さんに、私は口角泡を、なるべく飛ばさないように下を向いて地団駄しながら答える。

 布マスクもしてるし、江雪さんはすでに濃厚接触者なんであんまり気にしてないんだけれど。


「その姜さんです! あいつ、尾州のろくでなしどもと結託してこともあろうに私の大事な翠さまを、呪いで眠らせやがったんですよ! その事件の取り調べで都に召喚されて取り調べを受けてたはずなのに! キィィィィェーーーッ!!」


 私の猿叫(えんきょう)を聞いて、ジュミン先生が難しい顔で語る。


「百憩(ひゃっけい)がこっちに帰省したとき、言葉を濁していたのはその件ですか。あの幼麒(ようき)が、まさか後宮の貴妃にそんな真似を……?」


 イマイチ釈然としない風のジュミン先生の顔からは、百憩さんと同じように「周りにせっつかれて、仕方なくやったんじゃないか」という感想がありありだった。

 私もさ、それはふんわりとわかっているよ。

 そうでないかなー、と頭では思うのだ。

 だけど、それでも!


「あいつが絵図を書かなきゃ、私たちあんなに苦労しなかった! 煮え湯を飲まされることもなかった! 挙句の果てには北で死ぬ思いまでして、肩からお腹までバッサリ傷痕まで残っちゃったこの乙女の怒りを、怒りをォ~~~~ン……!!」


 関係ない事件まで半ば姜さんのせいにしているけれど、今の私の正直な気持ちだ。

 もう、なんでもかんでも、あいつが悪い!

 その諸悪の根源が、あろうことかなんの罰も下されずに、のほほんと家に帰りやがっただとぅ!?

 怒号を放ち続ける私から誰しもが数歩ほど離れて、珍獣を見る視線を投げる。

 言いたいことは言えるときに言っておかないと、心に悪いものが溜まる。

 ので、私はついでだと勢いのままに別の人にも矛先を向けた。


「玄霧の野郎もたいがいだ! 説明が、足りねーんだよォォォォォ! なんだこの簡潔な文章は! これで伝わると思ってんのか! ちゃんと司午(しご)と除葛の間でナシがついたのかァ? 翠さまは納得してるのかよォ? まったくわからねーじゃねえかァァァァ!? ちくしょうめえーッ!!」


 雄叫びを響かせ、私は玄霧さんからの手紙を地面に叩きつける。

 惨劇が襲っている町の中にあって。

 私は、自分のことのみに精神を煮えたぎらせ、無駄な力を消費してしまっている。

 なんで、今、このタイミングで!

 玄霧さんは、こんな手紙を私にくれたんだ!!

 いや、手紙を書いているときの玄霧さんは、きっと疫病の対処で私が大童(おおわらわ)になってるなんて知らないんだろうけどさあ?

 それでも私は、やり場のない怒りの矛先をどこに向けていいかわからず。

 今考えられる、最も建設的で前向きな衝動に、己が身を任せた。


「江雪さん! 血を採取する術はまだですか!? 早くしてくれないと、私の体は血という血を全身から吹き出してしまいそうです! この行き場のない熱を、穴を空けて垂れ流してくれませんか!?」

「今、これからですか?」

「そうです! なるべく早く! 私の体が煩悶で爆発四散してしまわないうちに、すぐにでも!!」


 今の私が置かれた、この町から身動きの取れない状況で。

 除葛姜の野郎が、自由を手に入れて大手を振って故郷にすごすごと逃げ帰っている。

 ああ、出来得ることなら翔霏のように、二人に分身してしまいたい!

 そうすれば片方の私を河旭(かきょく)の都に走らせて、関係者全員の胸倉を掴んで引きずり回し、どないなっとんねーんと小一時間問い詰めることができるのに!

 血走った目で唸りを上げる私の姿を見て、江雪さんは。


「確かに今の央那さんは、水を入れ過ぎてはち切れそうになった皮袋のようですね。これも未だ見ぬ神の思し召しでしょうか」


 そう言って私の手を取り、優しく、しかし真剣さの籠った声で言った。


「ここまで血気が充実しているのであれば、すぐにでも術に取り掛かりましょう。わたくしの体調も悪くはありません。今がまさに機だと、天が教えてくれたのでしょうか」

「思い立ったが吉です! 私の気が変わらないうちに早く早く!」


 ガオォと迫る私を猛獣使いのように巧みになだめながら、江雪さんは促した。


「では準備に取り掛かりますので、手伝っていただけますか。ジュミン先生、しばらくお仕事には戻れませんが、どうかお許しください」

「そんなことを気にしてはいけません。あなたたちには、あなたたちであるからこその、為すことがあるのですから」


 みなさまに寛容に見送られて私と江雪さんは、作業場として借りている小さな小屋に入る。

 ジュミン先生の言葉が嬉しかった。

 するべきことではなく。

 こんな状況であっても、したいことを、していいんだ。

 

「ところで、準備っていったいどういうものでしょうか? なにかお祈りを唱えたり、印字や結界のようなものを描くんですか?」


 私の質問に、江雪さんはふるふると軽く首を振って。

 とても簡潔で、分かりやすい手順の解答をくれた。


「お互いの手首を切り、大きな盆に血を溜めます」

「いきなり本番キタコレ」

「死なない程度に、けれど十分に血を溜めることができたら、お互いの傷口を、固く布で抑えて縛ります。わたくしたちお互いが、相手の命を握っているのです」


 巳(へび)の氏族に伝わる異能の薬法、ちからわざすぎる。

 シンプルイズベストってレベルじゃねーぞこれ。

 さらに加えて江雪さんが説明することには。


「その間ずっと、片方の手は向かい合う相手と繋いでなければいけません。繋がっているからこそ、循環と永劫、生と死、病と癒し、そして毒と薬の転換を産むのです。蛇の神の力を借りるために、そうしなければいけないのです」

「お互いの尻尾を、噛み合う蛇ですか」


 脱皮という不思議な生態を持つヘビは、もともと若返りや不死の象徴とされ、毒を持っていることも併せて医学薬学に縁の深い動物である。

 だからWHO、いわゆる世界保健機構のシンボルもアスクレピオスの蛇杖だし、尻尾を噛んで円環を作る蛇は世界各地の神話で永遠や不滅を意味するモチーフになるのだ。

 片手で全部やらなきゃいけねーのかよ、と少し不安になったけれど。


「二人で力を合せれば、大丈夫ですよね」


 希望的観測ではなく、確信を持って私は言った。

 たとえ片方の手が戒められていても。

 二人いるから、手は二本。

 ならいつもと同じことを、やってやれないことはない!


「では一緒に、同時にやります。この青い血管です」


 私と江雪さんは、小屋の中央に置かれた盆を挟み、向かい合って手を繋ぐ。

 空いている方の手には、お互いが切れ味鋭い剃刀を持っている。

 日焼けした私と、象牙のように白い江雪さんの手。

 両者の指が絡まり合う、その根元の手首、腱から少し浮く静脈にカミソリの刃を当てる。

 と、その前に。

 江雪さんは。

 今まで誰にも見せたことのないこわばった顔で、震えながら、言った。


「間違いがあれば、もうそこで、終わりです。実はわたくし、姉や叔母の教導の下でしか、この術法を行ったことがないんです」


 土壇場で告白された事実に私も震えそうになるけれど、必死で抑えて。

 私はとっておきの魔法の言葉の加護を、江雪さんにも与える。


「大丈夫、大丈夫。結果がどうあっても、私たちはしたいように、そうしたんですから」


 目に涙を溜めた江雪さんも、私につられて笑った。

 私たちは同時に、お互いの手首に刃を圧し当て、引くように切った。

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