百八十六話 私は銀の蜻蛉から

 中書堂、四階。

 本の分類に関し、文理の学問の判別基準を私は司礼総太監(しれいそうたいかん)の馬蝋(ばろう)さんに話している。

 自然科学、いわゆる理系の話をした際に、馬蝋さんは私へこう訊いてきたのだ。


「では今、拙や麗女史がいるこの建物はどうなるのでしょうや。中書堂は、元から自然に存在したものではありますまい。しかし建材に使われている木や石、瓦や煉瓦などは、元をたどれば自然に存在したものです。建築も人の生み出した学であれば人文の範疇でございましょうが、部分部分を見れば自然の学問ということになりませぬか」

「そうなんですよ! 凄いです場蝋さん! たったこれだけの説明でそこまで理解してくれるなんて!」


 ガタッと椅子から前に身を乗り出して私は叫んだ。

 いかんいかん、つい興奮してしまったぞ。

 でも場蝋さん、見た目はのんびりふくよかマスコットおじさんなのに、若い頃ガリ勉してただけあって鋭いなー。

 

「つまるところ、どういうことにござりますか」


 突然興奮した私にちょっと引いている場蝋さん。

 コホン、と私は咳払いを放ち居住まいを正し、今さら行儀の良い女の子の振りで椅子に座り直す。


「建築を『材料の特性を知り、丈夫な建物を造る学問』と考えたときは、建築学は自然学の範疇になります。どのように木を組めば安定するか、どのように石垣を積めば崩れないか、どのような材料で屋根を葺けば劣化しにくいかという法則は、すでに自然の中に存在するからです」

「確かに。人がいくら家に対して『倒れてくれるな、崩れてくれるな』と祈り命じたところで、風雪や年月の劣化でどんな建物もいつかは崩れましょう。それこそが自然の理、要するに自然学でありますか」


 子豚ちゃんがいくら頑張ったところで、藁の家は吹き飛ばされる運命なのだよ、ぶーふーうー。


「まさにその通りです。けれど建築物に対して『どう作れば美しいか。暮らしやすいか。良い気分でその建物を使えるか。どんな建物を作れば、建築者や所有者の威信を示せるのか』というところまで考えると、それは人の心が関与する学問になります。人文学の要素も使われているということですね」


 ちょっと乱暴で雑な言い方ではあるけれど、大意としては間違っていない、はず。

 物理的構造は自然学、理系の分野と言えるけれど、美的デザインや快適性は人間の理屈なので人文学、文系に属するわけだ。

 まさに今、軽螢や椿珠さんが取り組んでいる阿突羅(あつら)さんの大陵墓とかだね。

 機能的構造と人の心の両面から素晴らしいものを造ろうとしている、文理複合産業と言えよう。

 私の説明にほうほうと頷きながら、馬蝋さんが感心したように言う。


「便宜的に自然と人文に分けてはいるものの、両者は状況に応じて密接に絡み合い、隣り合っているわけですな」


 え、ホントマジで頭いいなこの人。

 核心を抽象的に掴むのが早すぎでは?

 世の人は俗に文系とか理系とか軽く言ってしまうけれど、実は両者の間にそんなにわかりやすい垣根は設定しにくい。

 具体的な例を挙げれば数学とかね。

 理系の代表みたいなツラをしているけれど、数という概念に数字という記号を割り振っている時点で「自然」ではない。

 徹頭徹尾人間が頭の中で考えた観念なのだから。

 そもそも「一辺が4cmの正方形があります」とか簡単に教科書に書かれてるけれど、そんなものは自然の世の中、宇宙のどこを探しても存在しないからね。

 角度は微妙にずれているし、辺は完璧な直線ではありえないし、四辺の長さも分子原子単位で見れば絶対に異なっているはずだ。

 なにより宇宙には重力があるので、完璧な平面上の正方形というものは存在できない、空想上にしか存在しない産物である。

 リンゴが3個ありますと言われても、人間が勝手に3個と言っているだけ。

 一つ一つを見れば素粒子レベルを考慮するまでもなく大きさ、重さ、含有糖度、色つや、熟し具合、そして美味しさなど、すべてのリンゴは異なる。

 同じリンゴが3個という前提は、細かい情報を端折りまくって成立する話なのだ。

 と言う余談までをすべて話はしないけれど、ざっくりと馬蝋さんに説明したのちに。


「それでも人文学と自然学の大分類は便利なので、私の暮らしていた土地では、広く使われていましたね」


 大まかに両者の代表的な学問分野の区別を紙にメモして、馬蝋さんに渡した。

 この通りに本棚を整理するわけではないだろうけれど、なにかの判断材料にでも使ってくれればよい。

 しみじみと渡された紙を見たのちに、大事そうに懐に仕舞い。


「麗女史は、いったいいつのお年頃、どのようなきっかけがあってかように深く、好学の徒であらんと志したのでありましょうか。お噂に聞くところでは、故郷(ふるさと)では普通の街娘であられたとか」


 しみじみと、馬蝋さんにそう問われた。


「え、私の話ですか?」


 深遠なる学問の世界の話を気持ち良く開陳していたせいで、自我や自己に意識が行ってなかったわい。

 うーん、私のきっかけは。

 軽く思い出して。


「よっとごめんね」


 私は風に乗って飛んで来た、欄干に翅(はね)を休める白っぽいトンボをサッと捕まえる。


「蜻蛉が、どうかなされましたか」


 私の手に翅をつままれジタバタ足掻く蜻蛉を、馬蝋さんも見つめる。


「飛ぶ虫の多くは、翅が四枚あって、足が六本なんです。その翅も足も、必ず体の胸に当たる部分から生えています」

「見慣れた、そこらにいる羽虫の姿ですな。確かに尻から翅や足の生えている虫はおりますまい」

「ええそうです。どんな虫も、空飛ぶ虫はだいたいそうなんです。ハエは珍しく羽が二枚の虫ですけど、実は三枚目と四枚目の翅の痕跡が、ちゃんと体にあるんです。だから四枚羽の虫の仲間なんですよ。ついでに言うとその手の虫はたいてい、顎が上下ではなく左右に開くんです。人間や犬とは逆ですね」

「それは……言われるまで、拙も気付きませなんだ。そうか、虫の顎は左右でありますか」

 

 あ、これはいつだか、子どもの頃に気付いてお母さんに報告したときと、同じ反応だ。

 ふふっと笑い、続きを話す。


「私、子どもの頃から虫とか動物とか魚がなぜか好きで、暇さえあれば公園とか、川原とか、ときにはよそさまの家の庭石までひっくり返して、そこにどんな生きものがいるのか観察してたんです。もちろん家に持ち帰って籠の中で飼育したり」

「鈴虫やコオロギなどは、音を楽しむために連れて帰ることもありますな。見た目の美しい蝶なども。なるほど麗女史の探求心は虫の観察から始まったのですか」


 幼少期の淡い思い出を頭に、私は頷く。

 

「ある日、飛ぶ虫は絶対に翅が四枚、足が六本、それは胸から生えていて顎は左右に開くことに、観察を続けていたら気付いたんです。そのことを家に帰ってお母さんに報告したら、次の日にお母さんが分厚い図鑑を買って来てくれたんです。虫の図巻でした」


 私が小学校に上がる前から埼玉を離れるまで、いいやきっと今でもずっと部屋の本棚の主としてデンと構える、昆虫百科図鑑。

 何度も読み返してページを綴じる糊(のり)もはがれちゃったけど、その都度自分で糊付けし直して、絶対に捨ても手放しもしなかった。

 今思うと、子ども時代の私にとって一番の、宝物。


「その図鑑に書いてあったんです。昆虫と言うのは四枚翅で、足が六本で、必ず頭と胸と腹に体の節が分かれていて、翅と足は胸部から生えているんだって。私が気付いたことと同じことが、偉い学者さん、頭のいい昆虫博士が編集したその図鑑に、そっくり書かれていたんです。私の観察と発見は間違いじゃなかったんだって、頭に雷が落ちたくらい衝撃的に、嬉しく感じた瞬間でした」

「それは……いや、まことに、素晴らしいことです。そうとしか拙には言えません」


 感銘を受けてくれているみたいだけれど。

 私が本当に言いたいのは、この後なのだ。


「私が嬉しかったのは、どんなに偉い学者さんでも、どんなに難しい問題に取り組んでいる天才の博士さんでも、私と同じことを考えていた時期があるって知れたことなんです。私と彼らの住んでいる世界は、崖も溝も壁もない、分け隔てられているわけじゃない、同じ世界なんだって、子ども心に気付いたんです。私が夢中で虫の観察をしている、同じ道の延長線上、ずっと先に、同じように歩いて到達した人たちがいるって思えたことが」


 一息で我を忘れてまくし立ててしまったと気づき。

 私は少し顔を熱くして、ふーと一呼吸して、まとめた。


「それが、すごく嬉しかったんです。誰かが登った同じ道を、私も歩いて登ってるってことが。立派な人たちが到達した頂(いただき)に私が着けるかはわからなくても、道中の、途中の高みまでは、私も自分で歩いて登れるんです。彼らがかつて見た景色を、私も見ることができるんです」


 中書堂の外、眼前。

 南の遥か先には大きな山が見える。

 姿の通りに「高山」と呼ばれる、近隣で一番高い山だ。

 

「自分がどれだけ高い山に登れるかはわかりませんけど、一歩踏み出せば、一段、自分の視点は高くなります。私はそれが気持ちいいし、私の尊敬している知性の持ち主も、きっと同じ山を登ったはずです。同じ景色を見たんです。だから私は、その次の高さの景色も見に行きたい。そう思うんです」


 オタクなので、早口でべらべらとまくし立てすぎてしまった。

 恥ずかしいので話を切り上げて、さっさと翠さまのお部屋に戻りたい。

 けれど馬蝋さんは私の話を聞き、少し涙ぐむような顔ではにかんで。


「……実は拙も、少年の頃に古詩古文を学んでそう感じたのを思い出しました。例え偉大な詩を遺した先人であっても、そうですな、誰もが最初は手習いの小童(こわっぱ)であったはず。拙らが学んだのと同じ字を、夕食前にしかめっ面で何度も書き取ったはずなのだな、と」

「ふふ、そうなんですよ。想像すると楽しいですよね」


 二人、遠くにそびえる高山の偉容をしみじみと眺める。

 最後に馬蝋さんは、とても難解な宿題を残して中書堂を離れる。


「観察して発見するのが麗女史の知の源泉であるならば、見ようとしても見えないものはさて、どのように捉えるのでしょうな。例えば、神などは……」


 起きて一回、寝て一回。

 私は神の姿をこの目に捉えたことがある。

 けれどそれはおそらく仮の姿であり、本質を見ようとしても見ることは叶わないだろう。


「たとえ神でも、姿があるなら暴いて見てやる」


 馬蝋さんに聞こえないように言って、私も中書堂の階段を下りた。

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