百九十三話 新しい戸籍を作ろう の 弐

 まずは、私の敬愛するあるじにして、私がこの世で最も恩義を感じている尊きお方、司午(しご)翠蝶(すいちょう)貴妃殿下に、しかるべき仁義を通さねばなるまい。


「翠さまごめんなさい! 私、よその家の子になります!」

「ちょっと待って理解が追い付かないわ。あんたは翔霏(しょうひ)の呪いを解くために西方に行く準備をしてるはずよね? なにがどうしてそういう話になるのよいったいぜんたい」

 

 私が部屋に着くなりそう叫ぶと、さっきから続けていたらしい編み物の手を止めて翠さまが呆れた。

 汗をかきかき、重そうな体を揺らして続けて入ってきた馬蝋(ばろう)さんが説明する。


「麗女史の後見人として、西方の沸教(ふっきょう)に理解のあるお家の方に立っていただかねば、向こうさまに受け入れてもらうのは難しい、という事情がありましてな……」

「なんだそういうことなの。要するに役所の手続き上の話でしょ。ならあたしが説得するから目ぼしい相手を見つけて来なさい」


 即決果断にもほどがある翠さまである。

 けれど今回ばかりは、翠さまの想定すら先回りできたぜ、へへん。

 私が言う前に、馬蝋さんが説明してくれた。


「実はもうその気になっておられる方がおられましてな。翠蝶貴妃も良く知る、兆(ちょう)博柚(はくゆう)佳人のお家が、麗女史とぜひ縁を繋ぎたいと前々からおっしゃられていて」


 意外な名前が出て来たからか、翠さまは不信感を露わにした顔に変化して言った。


「博柚の家が? まあ確かにあそこは前々から沸(ふつ)の坊主を援助したり寺に寄進してたから目的には適ってるけどなんだって央那を迎え入れたいなんて話が出てるのよ。あたしちっともそんなこと聞いてないわよ」


 どうやら兆家の希望は、まだ翠さまの耳に入っていなかったらしい。

 けれどそれには明確な理由があることを私は指摘する。


「それは翠さまがついこの間まで、角州のご実家で寝てたからじゃないですかね」

「ずっと寝てたわけじゃなくて半分は起きてたのあんたも知ってるでしょ。仮に離れたところであたしが寝てたって央那に関することなら司午本家(うち)に文(ふみ)くらい寄越せばいいじゃない。なにより今は後宮にいるんだから話があればいつでも来ればいいじゃないのよ」


 確かにそれはその通り。

 ただ私は、兆家がなぜそうしなかったのかという理由へと考えを巡らせる。

 おそらくは翠さまに直接、話を持って行くのを躊躇ったのだ。

 翠さま、仲良くない人から見ると怖いからね。

 だから外堀を埋める形で、宦官の馬蝋さんを通して「そういう道もある」と私に認識させることを優先したんだろう。

 そして、兆家が私を養子に迎えたいという思い自体、別に今いますぐにと焦っているわけでもないのだな、ということも分かる。


「翠さま、まだはっきりしないことばかりですので、私はまず直接、博柚佳人とお話ししてみたいと思います。もしお時間の都合がつくようでしたら翠さまも」

「それは当然でしょ。今のあんたはどうしたって司午家が世話人になってるって事実があるんだから。でも今日はもう遅いから明日にしなさいな」


 バタバタあちこち駆けずり回っていたせいで、もう夕方に近い。

 仕方ないか、と納得し私はお部屋の仕事に戻ることにした。

 馬蝋さんも明日の話し合いにはまた来てくれるらしい。


「翔霏は痛いとか辛いとか自分からは言い出さないからなあ。今どれだけ調子が悪いのかもよくわかんないんだよね」


 寝苦しい夜を迎えていないだろうか。

 悪い夢を見ていないだろうか。

 明日も朝になれば、またどんよりとした、曖昧な目覚めの時間を過ごすのだろうか。

 決して言葉にしてくれない翔霏の苦しみを思うと、どうしても私は涙で枕を濡らしてしまうのだった。


「私がいない間、博佳人の様子ってどんな感じでした?」


 翌日の朝。

 私は先輩侍女の毛蘭さんに、これから会って話し合いをする兆家出身の宮妃、博柚殿下の様子を聞き取りする。


「あまりお部屋から頻繁に出歩かない感じだったわね。私はほら、足の怪我のことでちょくちょくお礼に伺っていたのだけど」


 ぽん、と毛蘭さんは後宮襲撃炎上の際に負傷した、自身の太ももを軽く叩く。


「あ、博柚佳人が手ずから、止血をしてくれたんですもんね」

「ええ、私にとっては恩人よ」


 優しく笑う毛蘭さんの様子からは、純粋な好意が見て取れる。

 そうだよな、あのとき博佳人が初期治療をデタラメにやっていたら、毛蘭さんの足は傷跡を大きく遺すだけでは済まなかっただろう。

 後宮のみんなで頑張って勝ち取った未来の中に、無事に治った毛蘭さんの足も含まれているのだ。


「私、博佳人を誤解して余計な先入観を持ってしまっていたのかもしれません」

「今日じっくりお話して、そのわだかまりが解けると良いわね」


 毛蘭さんから温かい言葉を貰い、私は博柚佳人の部屋へと向かうのであった。

 ま、翠さまと馬蝋さんもいてくれるし、おかしなことにはなるまいよ。


「入るわよ博柚」


 部屋の前で宣言し、どうぞの声がかかる前にずんずんと押し入って行く翠さま。

 私と馬蝋さんも一礼してそれに続く。

 朝からお話に伺うということだけは、昨夜のうちに知らせてあるので、相手方もちゃんと準備はしているはずだ。


「おはようございます、翠貴妃。ご機嫌麗しゅう」

「そうね。なんか久し振りな気もするけどあんたも元気そうで良かったわ。ところであたしがこの二人を連れて話に来たんだから用向きは想像できるでしょ」


 翠さまに問われ、私と馬蝋さんの顔を順に見やる博佳人。

 観念したようにわずかに目を伏せて、弱弱しく言った。


「翠貴妃にお伺いも立てずに、麗を我が家に取り込もうと画策したことは事実にございます。申し開きはいたしません。いかようにでもご叱責ください」


 膝を屈し、座礼で謝る姿勢のように頭を下げて博佳人が認めた。

 翠さまは博佳人の亜麻色の頭髪あたりを、いつものむっつりすまし顔で見つめながらフンスと息を鳴らす。


「なんでそんなことをしていたかなんて今はどうでもいいのだわ。あんたの家の望みどおりに央那を兆家の庇護下に入れるから今日はその話をしに来たのよ」

「な、なんですって? え、いったいどのような事情で、急にそんなことを」


 驚いた博佳人は、首をきょろきょろと左右に動かして私たち三人の顔を見比べる。

 

「拙から説明させていただきます」


 馬蝋さんが、私の西方行きのことやその前に立ちはだかる戸籍上の問題について、かいつまんで話す。

 呪いだの解呪だの、留学生だのと言う唐突な話に面食らって混乱していた博佳人も、次第に話の本筋を掴んで。

 少し残念そうに、こう言った。


「そうですか、留学のためには戸籍を書き換えて、わたくしの家が後見した方が都合がいい、と」


 なるほど、と呟き、少し皮肉めいた歪んだ微笑で博佳人は言葉を続けた。


「わかりました。麗もそのお友だちもお困りのようですし、私たちでよければ力になりたいと思います」


 翠さまが直々に話をしに来た手前、不満があっても博佳人はそう言うしかないだろう。

 でも、そうじゃねーんだ。

 私は本当にこの縁に感謝しているし、博佳人のおかげで翔霏を助けるための旅に出られる恩は、どんな形であっても、たとえ一生かかっても返したいと思っている。

 けれど私が今、この場でなにをどう言えばいいのだろうと悩み、困っていると。

 誰よりも聡く明るい翠さまが、私の代わりに言ってくれた。


「博柚。あんたあたしたちが書類上の辻褄合わせだけにあんたの家を都合よく使ってるんだと勘違いしてないでしょうね」

「そ、そのようなことは決して。仮にそうであったとしても、翠貴妃のなさることへ私どもに異論など挟められる訳もございませんし」

「あたしのことはどうでもいいのよ。この央那って子はね」


 ぺしっと私の頭を優しく軽く叩き、珍動物を見せびらかすように意地悪っぽく笑う翠さま。


「あんたがしてくれたことを絶対に忘れないで必死にしがみついて地の果てまでも追ってくる勢いで恩を返すような子よ。変なやつと関わり合いになっちゃったって後で後悔しても遅いからね」

「そ、そんな、後悔など……第一、そのお友だちの解呪が無事に終わったのなら、麗の後見人は司午家(しごけ)に戻るのではないのですか?」


 力のない、諦めたような顔と声で博佳人が言った。

 私と翠さまはきょとんと顔を見合わせて。


「え、別にそんなこと考えてませんけど」

「央那が司午家(うち)にしてた借金なんてもう返し終わってて残ってないわ。戻す意味なんてないじゃない。この子もいい歳なんだからしたいようにさせるわよ」


 共有している認識を、端的に告げた。

 そうです、今の私は借金に縛られない身。

 翠さまの親書を白髪部(はくはつぶ)の突骨無(とごん)さんに届けるという任務で得た報酬と、それに加えて赤ちゃんが無事に生まれたお祝いも重なり、私の借金は帳消しにされたのだ。

 ぽかん、とまさに博佳人は呆気にとられて。


「それならばなおさら、どうして親しくもない私たち兆家の希望を聞いてくれたのですか? こちらからはまだ、なんの事情も説明していないというのに」


 私はその疑問に対して、胸を張って答えた。


「まさかのときに傍で力になってくれた人との縁を、私は大事にしたいと思っているからです。私が呪いを解く手助けをしたいと思っている友だちも、まさか、よもやというその瞬間に私を助けてくれました。今、私にとっての『まさか』を助けてくれるのは、博佳人、あなたです」


 深々と頭を下げて、私はなおも重ねて述べる。


「どう言ったいきさつで私に興味を持ってくれたのかは存じ上げませんけど、そのおかげで私の希望が一つ、繋がるんです。だから応えるため、報いるため、私にできることならなんだってします。本当にありがとうございます、博佳妃殿下」


 私の意志が明らかなのを見て、馬蝋さんも動いてくれる。


「ならば必要な書類を揃えるために、拙は早速に駆け回りたいと思います。みなさまのご署名と指の紋さえあれば、すぐにでも手続が済むまで段取りしてみせましょう」

「その体であんまり無理して走ると倒れるわよ」


 翠さまの気楽な心配兼冗談をはにかんで受け、馬蝋さんは部屋を出た。

 そのまま翠さまは居室の椅子に腰を掛け、こう訊いた。


「さて馬蝋が重い体を揺らして頑張ってくれてる間にどうしてあんたが央那に興味を持ったのか聞きましょうか。むしろ『あの物品庫での件』のこともあるから恨んでたんじゃないのってみんな思ってるんだけど」


 私も疑問に思っていた、後回しにしていた核心。

 なんで?

 どうして私を?

 

「ええ、始まりは確かに、あの倉庫の一件からでした」


 ベールに包まれていた真の動機を、博柚佳人はゆっくりと話し始めた。

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