盤上遊戯は賽の目次第-Ludens in tabula pendent ex eventu-
千崎 翔鶴
序章 はじまり-Initium-
1.そして竈の火は消える
あまりにも濃い
何頭もの羊を引きつれた、葡萄色の髪をした男が踊っている。手には金の
びちゃりと杯から溢れて落ちた葡萄酒が、灰を濡らした。彼らは歌い、踊り狂う。酩酊、享楽、狂気の踊りはより一層葡萄酒のにおいを濃くしていく。
「アルニオン!」
嫌な予感がしたのだ。それを虫の知らせと人は呼ぶのかもしれないが、少なくとも何かによって知らされたものではあったのかもしれない。咎めるように名を呼べば、葡萄色の髪をした男が踊るために踏んだ片足を軸にして、くるりと回る。
その顔は赤く、目は細められている。どうしてこんなことをしたのかと、問うだけ無駄だ。
「やあやあ、デュナミス」
「貴様……自分が何をしたか分かっているのか!」
めえめえと羊がうるさく歌う。ゆらゆらとアルニオンが揺れている。ひどいにおいに頭が痛くなりそうで、デュナミスは眉間に力を込めてアルニオンを
羊たちが、アルニオンが、踏みしめるその下で灰が揺れている。白っぽい灰の先、うねる橙色の髪が散らばっていた。
「なに、なに? なんだろうねえ。ところで君も飲むかな?」
けたけたと笑って、アルニオンがデュナミスに杯を差し出した。さきほど零れたはずなのに、杯の中でちゃぷんと音を立てた葡萄酒は、中になみなみと注がれている。
「アルニオン!」
「おっと、叫ぶのはやめてくれよ。頭に響くじゃないか。あっはっは、デュナミスがひとりふたりさんにん、君一体いつ増えたんだい? 自分の人形でもお得意の鍛冶で作ったのかな?」
酩酊した男は、その葡萄色の瞳でデュナミスを見ていた。いや、見てはいるのだろう、見てはいるのだろうが、本当にきちんと見えているかは疑わしい。
少なくとも、デュナミスはひとりだ。アルニオンの言うように、ふたりやさんにんに増えた覚えはない。
「フォティアに何をした」
「フォティア?」
何を言われているのか分からないというような顔をしたアルニオンは、フォティア、フォティアと繰り返す。そしてようやく思い至ったのか、彼は口の端を吊り上げた。
「ああ、だって、フォティアはつまらないから。それにいつまでも我々も十三、いや、今は十二かな? 十一だったかな? で、ままごとみたいに遊んでいてもちっとも楽しくない。それならいっそ本当に殺してしまえば、楽しくなるだろう? それにちょうどアルニオンの領地も手狭になってきたところだ。フォティアの領地をそっくりそのままいただいたって誰も文句は言わないぞ?」
けたけたと笑う。めえめえと鳴く。
さらさらと足元で灰が風に攫われて消えていった。神は人間の世界に降臨するための器に入り込んでいないのならば、血を流すようなこともない。それなのに足元に零れて流れた葡萄酒が、どうしてか血のように見えた。
「せっかく遊ぼうと誘ってやったのに、フォティアときたら断ったりするんだ。羊たちがめえめえめえめえ、アルニオン殺してしまえよ、めえめえ、そんなことを言うし、ならばその通りにしようとね?」
同意するように羊たちが鳴いた。そして羊たちはその白い巻き毛を揺らすようにして、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れながら踊っている。
あまりの羊のうるささに、デュナミスはずるりといつもは鍛冶に使っている槌を取り出した。このまま一頭ずつこの槌で頭を殴りつけてやれば、このめえめえという大合唱も静かになるのだろうか。
「何をそんなに怒っているんだ、デュナミス? 他の神々だって俺のしたことには何も言わないだろうに。きっとお前だけだぞ、欠陥品。ほら葡萄酒でも飲んで落ち着けよ。ほら」
「誰が受け取るか!」
ぐいと目の前に差し出された杯を、デュナミスは手で払い除ける。かしゃんと小さな音がして地面に金色の杯が転がり、そこからだらりと葡萄酒が広がっていった。
葡萄色が、地面を染める。立ち昇った葡萄酒のかおりは、ひどい酩酊のにおいの中に混じって、不快感しかもたらさない。
「あっはっは、もったいない。まあいいさ、葡萄酒はいくらでもある。さあ行こうか羊たち。フォティアがいなくなればじきにここいらは俺のもの。どこを葡萄畑にしてどこを小麦畑にするか、下見に行こうじゃないか!」
踊るようにしてアルニオンはどこかに行ってしまう。
足を引きずるようにして、殻に入っていない今は足が重いということもないはずなのに、どうしようもなくデュナミスの足取りは重かった。
うねる橙色の髪が散らばっている。その顔は見えず、声もない。
「フォティア」
呼んだ声にも、返答はなかった。いつもなら「あらどうしたの」と穏やかな声で返事をして、そしてその声に相応しく笑って、きっとフォティアは胸の前で手を組んでことりと首を傾げるのだ。
けれどもう、それはない。辛うじてまだ形をとどめているのは上半身だけで、下半身はもうとうに灰になって消えていった。
「フォティア」
デュナミスにとって、唯一気を許せる相手だった。母のように、姉のように、穏やかに笑ってデュナミスに接してくれる相手だった。
鍛冶を司るデュナミスにとって、火は重要だ。かといって噴火する火山か、あるいはすべてを焼き尽くすエクスロスの炎は強すぎる。自分で起こすことも当然あるが、重要な鍛冶仕事のときにはいつだって、
そんな詮無いことばかり、浮かんでは消えていく。
人間ならば、泣くのだろうか。人間というのはその肉の器の大部分は水でできているからか、泣くという行為が発生する。けれどデュナミスのような神と呼ばれる存在は、そうではない。
そもそも神は、器を持たないのだ。人の世に干渉できず神の領域にあり、その代わりに強大な力を恣にして操る。そこに老いはなく、普通にしていれば死もやってこない。
「フォティア……ああ、こんな風になって……」
消えかかった火を風から守るように、そっと拾い上げる。ざあと風が灰を
すっかり神としての力は削り取られて、フォティアという存在はもう消えるばかりだ。
十三が十二になる。所詮はひとつ減るだけのこと。十三もいるのだから、今更一が消えたところで大差はない。きっと他の神々は、デュナミスが抱いている形容できないものを理解すらしないだろう。
人間の死には、余程のことがない限り次がある。それは、彼らが肉の器に魂魄を宿すものだからだ。けれども神は次がない。ただ膨大なエネルギーの塊である神は、死ねばそれまで、消えるだけ。
ほんの少しだけ遺ったフォティアは、最早神とは呼べない代物だった。デュナミスの手の中で動くこともなく、ただ吹き消そうとする風の前でひっそりと息を潜めていた。
「もしかして、これなら……」
人が神になることはある。
ならば、その逆も。
消えそうになるその小さな欠片を大事に抱えて、デュナミスはそこから姿を消した。ただただ濃い葡萄酒のにおいが漂っていて、またどこかからめえめえと鳴き声が聞こえた。
※ ※ ※
デュナミスの一族を率いる当主は、その当時二十三歳で、正妻として迎えた女性はちょうど二十歳になったところだった。だからデュナミスは、これ幸いとその正妻の胎にフォティアの欠片を入れたのである。
あれから何年も過ぎて、神はおらずともフォティアの一族は細々と命を繋いでいる様子ではあった。元々フォティアは竈を見守る神であり、一族もまた血気盛んということはない。だからこそ、彼らはひっそりと、細々と、どこか沈黙するように続けてきたのだろう。
「もう、いいか」
穏やかに笑う神はどこにもいない。
デュナミスがこの世に生まれ落ちる原因となったものを母と呼ぶのであれば、その母はデュナミスをかわいがるということもなかった。むしろ欠陥品であることを、ひどく嫌っていたようにも思う。
「いいよな。捨てても」
この土地に未練があるかと問われれば、デュナミスは「もうなくなった」としか答えがない。
いつか、誰かが言っていた。神の楔を抜けと、そのためにこの土地を捨てろと。その時はまだそんなつもりもなくて、話半分に聞いていただけだけれども。
遺すべきものはある。放り捨てて彼らが生きていけなくなるようにするつもりもない。ただ、この土地にしがみ付く理由はどこにもなかった。
だからデュナミスはこう決めたのだ――すべてが終わったら、この土地を捨ててもっと東の、鉱石が多数採れるという砂漠に行ってみようか、と。
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