1-4.長閑な旅路

 規則正しく石畳の道を進む馬のひづめの音が、長閑のどかな景色の中に溶け込んでいく。馬上で揺れる群青色は、薄い空の色よりもずっと色濃く、それは海の深い場所の色にも似ていた。道の両脇には瑞々しい草木が生い茂り、息を大きく吸い込めばその青臭い、けれども胸の奥がすっと空くような不思議な香りが鼻腔びこうをくすぐった。

 風は強すぎず弱すぎず、まるでゆりかごの赤ん坊をあやすような優しさを纏って吹き抜けていき、群青色の短い髪を少しだけ空の水色と混ぜ合わせた。

「はあ……やだな……」

 そんないかにも麗らかな旅日和の中で、かっぽかっぽと馬のひづめの音が規則正しく続いている。そんな中、サラッサ・ヒュドールはただひとり、陰鬱いんうつな空気を身にまとっていた。

 サラッサが潮風薫るヒュドールの領地から遠く離れ、嗅ぎ慣れない青い匂いを嗅ぎながら、とぼとぼと馬上の人になっているのには理由がある。サラッサをこの気乗りのしない旅に送り出したのは叔父であり、ヒュドールの一族を率いる当主でもあるクリュドニオンだ。

 エクスロスの一族を率いているエマティノス・エクスロスに宛てた手紙を持って行き、ここ最近発生している殺人事件について抗議をしてこい。これが、クリュドニオンから言いつけられたがサラッサの仕事だった。それに対して「冗談じゃない」とサラッサは聞いた当初思い、そして今もそれは思っている。

 そもそもエマティノスに真っ向から文句を言いに行くなど、正気の沙汰さたではないのだ。エクスロスの一族にはよくあることだが、彼もまた血生臭い噂が絶えない。サラッサは巷に流れる噂をそっくりそのまま丸呑みするほど愚かではないが、火のないところに煙が立たないということもよく知っている。つまり、多少誇張されていたにせよ、エマティノスを取り巻く噂の何割かは事実であり、噂からおかしさをどれほど取り除いて削ぎ落としてどの角度から考察しても、エマティノスがことは疑いようがなかった。

 クリュドニオンがサラッサに仕事を申し付けたのは、サラッサがエクスロスの一族と少々縁があるから、らしい。確かにそれは真実だが、だからと言って血縁関係にあるわけではない。ただサラッサが、エマティノスの異母弟であるアマルティエス・エクスロスと友人関係にあるだけだ。

 アマルティエスとサラッサ、そしてそこにヒカノス・ディアノイアを加えた三人は、始まりが何だったかサラッサはもう忘れてしまったが、それくらいに昔から彼ら二人とは親しくしている。だが、いや、だからこそ、サラッサは巷で流れる噂以上にエマティノスのことを知っていた。

 アマルティエスから語られるエマティノスの話はどれもこれも生身の人間とはとても思えない。サラッサはこんな兄がいない我が身の幸福を思って、その時だけはいつもは憎いと思っている己の異母兄への感情を真逆へと変換するのだ。

「絶対無理だって言ってるのにさぁ……」

 サラッサは馬上で大きく溜息ためいきいた。

 馬は背中の上の主人が沈痛な面持ちをしていることなど気にも留めず、ゆったりと規則正しい一定の速度で歩みを進めていく。時折首を振って辺りを見回しているのは、景色を楽しんでいるわけではなく、ところどころ石畳の間から逞しく顔をのぞかせている雑草を見ているからだろう。ただ物欲しげに眺めているだけで、立ち止まって食べようとまでは思っていないらしい。

 サラッサは彼の意思に反して容赦なくエクスロスへの距離を縮めていく馬の首筋を恨めしげに睨んで、また溜息ためいきく。

 それほど嫌ならば行かなければいい、と、そう言われることだろう。もちろんサラッサとて、クリュドニオンに再三訴えたのだ。エマティノスに手紙を届けて、殺人事件について抗議したとしても、あの冷ややかで感情の読めない金の瞳ににらまれて終わるだけだと。そもそもサラッサが親しいのはアマルティエスであり、エマティノスではない。彼らの兄弟仲は異母兄弟としては良好な方だろうが、だからと言って弟の友人という枠でサラッサを特別扱いしてくれるとは到底思えない。

 つまり、わざわざサラッサが行く意味はない。手紙で済ませるか、あるいはエイデスにでも行って貰えばいいではないか。これらのことを捲し立て、言い終わる頃にはサラッサは肩で息をしていた。文字通り必死の形相で行きたくない、と訴えるサラッサを、クリュドニオンは机に頬杖をついて少し笑みを浮かべたまま聞いていた。

 だが彼はそれを聞き終わってひとこと、「行ってらっしゃい」と笑顔で言い放った。

 人好きのする、それこそヒュドールに住む若い女から黄色い声を浴びせられる笑顔で、彼はサラッサの長々とした抗議を切り捨てたのだ。

「あいつ、嫌いだ」

 どれほどヒュドールから離れていても、文句は風に乗ってクリュドニオンの耳に届いてしまいそうな気がする。だからサラッサは、小さな小さな声で悪態をいたのだった。


  ※  ※  ※


 ヒュドールからエクスロスへ向かう道中は長い。朝早く出発し道なき道を駿馬しゅんめで突っ走れば丸一日で到着することも不可能ではないが、それはかなりの強行軍である。よほどの緊急事態以外でやる意味はなく、人も馬も消耗するだけだ。

 サラッサが今回選んだ道は、石畳で舗装されている。ここを通っていけば、三日ほどかけてエクスロスへ辿り着ける。

 クリュドニオンからは急ぎだとは聞いていないので、何日かかっても構わないはずなのだ。あわよくばこのだらだらとした道行の間に、エマティノスがエクスロス邸を留守にしていてくれるのがサラッサの理想だった。その場合のクリュドニオンに報告する言葉も、当然サラッサは頭の中で考えていた。

 もっとも、クリュドニオンもそうだが、当主という立場の人間はそうそう屋敷を長い期間空けることはない。だが、勝手に願うだけならばサラッサの自由だ。

「ヒカノスのとこ寄るか。どうせ通り道だし」

 ヒュドールとディアノイアを隔てる境は一本の川だ。それはこのままヒュドールに流れ、やがて海へと注ぐ大河である。

 かつてはこの川の所有権をめぐって二つの領地は幾度となく血を流し、川の色をも変えたという。とはいえ今となってはそんな争いも遠い昔の話であり、川には何ヶ所かに橋がかけられ、往来も自由になっている。

 その中で一番大きな橋を渡り、しばらく進めばやがてディアノイアの一族が住む屋敷のある街が遠くに姿を現した。

「んあー……やっとだ……」

 遠目にもよくわかる円形の城壁を見て、サラッサは馬の上で伸びをした。

 朝からずっと馬に揺られて移動をし続け、すっかり体が強張っている。ヒュドールの領地は水運の弁が良すぎるせいで、逆に馬はあまり使わない。船で移動する方が速く、道幅もそれほど広くない。

 だから、サラッサは騎馬には馴染みがないのだ。ヒュドールに住む民は大抵がそうであり、決してサラッサの運動神経が鈍いから馬術が下手なわけではない。そう、決して。

「ヒカノスに泊めてもらうか……」

 サラッサは、ディアノイア領で一泊するつもりでいた。ヒカノスがいないのならば、ディアノイアで宿を取ってもいい。幸いクリュドニオンから道中で使うための旅費はもらっており、個人的な蓄えも持ってきた。

 ディアノイアを出たあと、エクスーシアを通り、シュガテールで一泊。そしていつくかの領地が重なり合う辺りを通った後にクレプトを経由して、ようやくエクスロスへ到達する。というのが、サラッサの今の所の予定だった。気乗りのしないお遣いなのだから、せいぜい道中に楽しみを見出さなければやっていられない。

「ヒカノス、いるといいな」

 この先のエクスロスでの抗議以外の予定に胸を躍らせているうちに、城壁がすぐ間近に迫っていた。姿は見えないが、城壁に等間隔に設置された物見台から刃が陽の光を受けて輝いているのが見える。兵士が常に詰めているのは当然だ。

 サラッサは、訪を告げるべく声を張り上げる。

「サラッサ・ヒュドールだ! 通るぞ!」

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