1-2.口実探し

 身を沈めれば、ざんぶと水面が波打った。火山帯であるエクスロスの領地には、その地熱によって温められた水が湧いている場所がいくつもある。必要以上に熱されて、とても生身の人間が入れない――それどころかどんな野生動物も避けて通るような場所もあるが、それこそ身をほぐすには程よい温度を保っている湯だまりもある。

 そんな程よい温度の湯だまりは、歴代のエクスロス一族が改修を重ねた結果、岩場に無造作に湯が湧くくぼみから、快適に過ごせる場所へと様変わりしていた。

ってぇ………」

 つい、アマルティエスの口から低く押し殺したうめき声が上がった。

 エクスロスの屋敷からそう離れていないこの場所は、調練を終えた後に汗を流すにはうってつけの場所になっている。屋敷の中にも湯は引いてあるが、どうしても屋敷内は人の気配が多い。のんびりと手足を伸ばして時間を気にせずゆったりと過ごせるのは、屋外にあるこちらの方だった。

 気配の遠いこの場所でならば、何をしていても、そしてどれだけいても、誰にとがめられることはない。ここで腰までだけ湯に浸かりながら、上半身を巨岩に投げ出してぼんやりと考え事をするのがアマルティエスの日常であった。

 先ほどエマティノスに殴られ蹴られをした場所に、湯が沁みてちりりとした痛みが走る。戦場で受けるような紙一重で腕が切り落とされそうな深手よりも、こうした打撲による小さな傷の方がより痛みが強い気がする。いつも思うが、エマティノスは手や足に怨念か何かを込めているのだろうか。

 当のエマティノスに知られればもう一度殴られそうなことを考えながら、アマルティエスは円形状に作られた風呂の端っこでだらりと体を垂らした。

「兄さん、本当に容赦ねぇな……」

 ぼそりと呟いた溜息ためいき混じりの声は、誰に聞こえることなく湯煙の中に消えていく。

 最近少々ぼんやりしていた自覚はアマルティエスにもあったので、反論はせず甘んじて折檻せっかんを受けて立った――エマティノスに言わせれば、これは「教育的指導」というものらしいが。

 動けないくらいにされることを覚悟していたアマルティエスだが、予想に反してエマティノスはアマルティエスが咄嗟とっさに発した「好きな女がいる」という言葉に何やら満足そうな雰囲気をかもし出し、そして手を止めていた。

 ぶるりと身を震わせて、アマルティエスは湯の中にどぷりと沈む。熱い湯に浸かっているはずなのに、なぜか背筋に寒気が走った。

 エマティノスもまた、アマルティエスと同様に誰かに惚れていることは知っている。その相手が誰なのかまでははっきりと知らないが、相当の女傑じょけつだろうなという予測をアマルティエスは立てていた。何しろエマティノスは、その女性に振り向いてもらうためだけにあちらこちらに出歩いている。そして、これまで散々流した浮名の相手との関係を清算して回っているのだ。つい先日も、ヒュドールの領地にまで遥々出かけていた。

 その相手が誰かは知らないが、エマティノスの本気の執心を向けられた女性は大変に気の毒だとアマルティエスは思う。それと同時に、清算を求めたらしいかの女性の胆力に震えてもいる。

 たとえ思っていたとしても、エマティノスに対してそういったことを求めるなど、やはり普通の女性ではなかなかできるものではない。アマルティエスもできはしない。

「多分、お似合いなんだろうな……」

 湯から浮かび上がる。流れ落ちる水滴と額に張り付く髪を手でかきあげ、アマルティエスは息をひとつ吐き出した。おそらくエマティノスがアマルティエスの恋にほくそ笑んだのは、自分が動きやすくなるからだろう。その立場を、放棄しやすくなるとも言おうか。つまり、エマティノスが惚れた相手というのは、それが必要な相手だろうことは想像できる。

 アマルティエスが結婚して子を成せば、その子の色がエクスロスの色である必要があることはさておいて、すなわちエクスロスの一族はその血を次世代につなげたということになる。そうなれば、エマティノスが当主の座を放棄しても一族は困ることはない。

 それはつまりアマルティエスに当主の座が転がり込んでくる、あるいは押し付けられるということではあるが、それはそれだ。

「……あれ? 俺がもし振られたらどうすんだ……?」

 ふと胸に去来した一陣の冷風が、嫌な予感となってアマルティエスの脳内に腰を下ろした。

 アマルティエスはあくまでも「好きな女ができた」と言っただけであり、それは「恋人ができた」と同義ではない。領地同士の結びつきを求めるための不愛想な婚姻関係もなくはないが、アマルティエスは彼女とそうなりたいわけではなかった。エクスロスの一族としてシュガテールの一族へ婚姻関係を求めることはできるが、そうした一族同士の力を使うつもりは毛頭ない。その方が確実に結婚できるのだとしてもだ。

 ということはつまり、兄の期待にこたえるには、何とかしてアマルティエスの身を焦がしている恋を成就させなければならないということになる。

「ま、まあ、そんときはそんときだよな……はは……」

 アマルティエスの乾いた笑いを、ひゅるりと吹き抜けた熱い風が攫って空へと巻き上げていった。

 ゆるりと目を閉じると、焦がれる少女の姿がすぐに浮かぶ。脳裏と心に張り付いて離れないのは、あの日偶然通りがかったシュガテールの領地のある場所で、木の上から舞い降りてきた彼女だった。名前を尋ねたアマルティエスに、彼女はイーリス・シュガテールと名乗った。

「イーリス、か……」

 目の奥にある消えることのない姿を辿る。小柄な少女は、どこか警戒心を捨てきれない表情でアマルティエスを見ていた。シュガテール領を吹き抜ける柔らかな風が青銀色の髪を揺らし、アマルティエスに彼女の匂いを届けてくれた。

 ふわりと香った甘い匂いは、イーリスが持っていた果物のものだったのか、彼女自身の芳香だったのか。

 無意識に、アマルティエスは湯で湿った唇をぺろりと舐める。イーリスが持っていた果実の名を問えば、彼女は林檎りんごだと教えてくれた。食べたことがないが美味うまいのかと聞いたアマルティエスに、「一口食べてみるか」とイーリスが差し出したので、遠慮なくかじりついた。

 うっかりしていて彼女の指まで口に含んだ上にそこにあった果汁まで舐めてしまったのも、また事実だ。それに驚いたのか、猫のように飛び上がったイーリスの白い肌がさっと色づいたところまで、アマルティエスはしっかりと覚えている。

「ああ、もう一度食いてぇな……」

 柔らかな感触を追い求めるように、唇を指で撫でる。湯に浸かっているからというだけではない理由で、体の奥底から熱が湧き上がるような感覚がした。

 イーリスは、毎日あの場所にいるわけではないらしい。それはつまり、またあの場所に訪ねていけば会えるという保証がないということでもある。

 彼女に会うのならば、今度は正式にシュガテールの屋敷を訪ねる必要がある。シュガテールの一族には今、アマルティエスと同年代の人間はおらず、知り合いは皆無だ。つまり他の誰かに会うとか、そういう口実を使うことはできない。となれば、イーリスに会うためだけにシュガテールの屋敷を訪ねて行かねばならないということになる。

「……ま、仕方ねーな」

 ざばりと音を立てて、湯から立ち上がった。水面が大きく波打ち、湯が岩の外にあふれ出して土の色を黒っぽく変える。

 立ち上がってしまうと、湯はアマルティエスの太腿あたりまでの深さだ。がっちりとついた筋肉の隆起に沿って水滴が流れ落ちていく。傾き始めた日差しが、波立った湯に反射して白く輝いた。

 アマルティエスが大きく伸びをすると、分厚い筋肉が皮膚の下でもぞりとうごめく。筋肉がつきやすい体質なのか、アマルティエスはエマティノスよりも一回りほど体格が良かった。

 エクスロスの一族は往々にして筋肉質な体質だが、頭の中まで筋肉でできているなどと思われるのは心外だった。そもそも戦いで指揮をるような立場なのだから、それなりに頭は回る。そしてその頭も、欲しいものを手に入れるためならば、より回転数もあがるというものだ。

 ざぶざぶと湯の中を歩きながら、アマルティエスはシュガテールの領地を訪れる口実を頭の中で探し始めていた。

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