1章 エクスロスの異母兄弟

1-1.腑抜けた弟の事情

 随分と、腑抜ふぬけた顔をしている。

 異母弟にあたるアマルティエスに対するエマティノスの最近の見立てが、これであった。とはいえアマルティエスは兵士たちにはいつも通りに接しており、彼らの調練や鍛錬にもとどこおりはない。だが室内でこうして書類仕事をしていると、どこか心ここにあらずというべきか、ぼんやりしているというべきか、ふとした瞬間に遠い場所を見ているような顔をする。体を動かしている間は余計な思考を差しはさむ余裕がないだけで、本当は四六時中頭の中に居座っている何かがあるのだろう。

 エマティノスとアマルティエスの兄弟関係は悪くはないが、とても仲が良い、と称するほどのものでもない。お互いそう多弁な性格でもないというのもあり、同じ室内にいても沈黙が空間を支配していることの方が多いくらいだ。

 それに対して、エマティノスは特に居心地が悪いなどと思うこともないので、ある意味で兄弟の相性は良いのかもしれない。

 もっともこれはエマティノスの視点であり、アマルティエスがどう思っているのかなど、エマティノスが知ることは一生ないだろう。

「いい加減、鬱陶うっとうしいな」

 書類の最後の一枚に自分の名前を書き終えてから、エマティノスはそう呟いた。低い唸るような声はそれほど通りがいいわけではないが、それでも微かな息遣いや紙のこすれる音すら聞こえてくる静かな室内には、やけに大きな音として伝わった。

「え?」

 アマルティエスは頬杖をついて、すっかりインクの乾いた羽ペンを片手にぼんやり窓の外を見ている。そんな彼がエマティノスに反応するのは当然、数拍遅れた。普段であれば即座に返答をするというのに、今はこの有様だ。

 そんな様子に、エマティノスの中で苛立ちが募っていく。そもそも、そこまで気が長いわけでもない。

 異母兄の導火線を着実に削っていることに気づいていないアマルティエスは、きょとんとした顔でエマティノスの顔を見ている。じっと無言で金色の瞳をアマルティエスに向け続けていると、ばつが悪くなったのか彼はわざとらしく咳払いをして、さも何か書類のことを考えていたのだと言わんばかりに手元の紙にペンを走らせ――。

「あ、やべ」

 乾いていたかさかさのペン先が、白い紙の上で掠れた音を立てた。アマルティエスが小さく落とした声は、はっきりとエマティノスの耳に届いた。

 アマルティエスもそれくらいは察しているのだろう、おそるおそる、まるで機嫌を伺うかのような目をエマティノスの方に視線を向けてくる。エマティノスは、そんな異母弟の様子に鼻を鳴らした。

「随分暇を持て余しているらしいな」

「い、いや、そういうわけでは……」

「暇つぶしなら、いい方法がある」

「あの、兄さん……?」

 ごにょごにょと言い訳めいた何かを口にしようとしているアマルティエスのことばは一切合切黙殺して、エマティノスは立ち上がる。

 急ぎで終わらせなければならない書類が何もないことは、とっくに確認済みだ。あごをしゃくってついてくるようにアマルティエスに指示し、エマティノスは部屋から出る。

 後ろを振り返らずとも、アマルティエスが逆らわないのは分かっていた。素直な弟で扱いやすいことだ、などと思いながら、屋敷の奥へと足を進めていった。

 エクスロスの一族が住む屋敷は単純な構造ではあるものの、どこに何があるのかは分かりにくくなっている。貴族の屋敷はどれも襲撃に備えた造りになっているが、戦うことにその存在意義を見出し、そして他領地の争いに力を貸す傭兵のような稼業にも首を突っ込んでいたエクスロスは、他の領地に比べて圧倒的に襲撃の危険が高い。そのために、屋敷の造りもまた襲撃への備えに特化していた。

 廊下や壁はどの階も同じような色で塗られ、飾りも簡素なものしかない。美術品になりそうな絵画や柱や絨毯じゅうたんなどはほとんどなく、テレイオスがエマティノスに言うところの「非常に殺風景で暮らしにくそうな家」である。

 だがエクスロスの一族にとっては、これこそ必要最低限の機能のある家である。つまり彼らにとっては、その他の貴族が暮らしているような装飾過多の屋敷は、居心地が悪そうに見えてしまうものだった。

 エマティノスがアマルティエスを引き連れて家の奥へ進んでいたのは、何も静かに話を聞いてやろうと思ったわけではない。裏口から外へ出れば、そこから練兵場に繋がっている。朝の調練を終えた兵士たちは三々五々見回りなどの持ち場に散らばっており、不在にしている。いつもなら非番にもかかわらず武器の手入れや自主練などで出てきている兵士がいることもあるが、今日はそんな者たちもいない。そのため、練兵場はしんと静まり返っていた。

「暇つぶしなら、これが一番いい」

「いやあの……ほら、まだ机に仕事残ってたし? 急ぎのがあった気がするなあ……?」

 鍛錬用に置いてある武器は、刃を潰してある。手に馴染むよさそうな武器はないかと物色しているエマティノスの背後で、アマルティエスは一生懸命に逃げる口実を探しているようだった。

 だが、この場所までついてきた時点で既に彼の負けだ。今更エマティノスが逃げ出すことを許すわけがない。

「ろくなものがない。俺は素手にするが、お前は」

「俺も素手でいいです……」

 馴染んだ武器と言えば槍であり、槍が当然一番使いやすい。だが普段当主の証でもある身の丈ほどの槍を振り回しているエマティノスからすると、並べられている槍はどれも軽すぎた。

 どうせ近々デュナミスに行く用事もある。ついでにダウロスに適当な槍を作らせることも必要だろう。そんな予定を立てながら、エマティノスはアマルティエスに向かい合った。

 兄に遠慮したのか、アマルティエスもまた素手を選択する。エマティノスとしては弟だけが武器を使って挑んできても一向に構わないのだが。

 誰もいない砂地で、兄と弟が向かい合う。ほとんど同じような身長ではあるが、アマルティエスの方が少しばかり高い。骨格の太さと肩幅、分厚い筋肉。それらによってアマルティエスの方が体格が良い。エマティノスはディアノイアの血筋が入っている分、元が少しばかり細身ではあった。

 だが、だからといってエマティノスが彼と並んで見劣りするというわけでは決してない。エマティノスの無駄なくついた筋肉はしなやかで、野生の猛獣が岩の上からじっと獲物を見下ろしているような威圧感もある。

 ざりりと足元で砂が擦れる音がした。その音を合図のようにして、エマティノスが先に仕掛ける。地面を蹴るようにしてアマルティエスに急接近し、真っ直ぐに拳を突き出した。上半身を逸らして拳をかわしたアマルティエスだったが、足元がおろそかになっている。素早く足払いをかけて、アマルティエスの体勢を崩した。その脇腹に、エマティノスは拳をめり込ませる。

「ぐっ……」

 重い拳を受けてアマルティエスが呻き、ぐらりと体が傾く。足を踏ん張りどうにか倒れることは免れたものの、隙だらけのその姿に容赦なくエマティノスの足が叩き込まれた。

「痛ってぇ……」

 エマティノスの蹴りで吹き飛んだアマルティエスが、砂埃に塗れながら呻くような声を上げた。さっぱり手ごたえがないその姿に、エマティノスの中で増したのは苛立ちだ。

 少なくとも普段は、こんな風ではないはずなのに。

「腑抜けたか。頭の中開いたら理由がわかるか?」

 地面に落ちた体を起こしているアマルティエスを尻目に、適当な剣はないかと武器置き場を物色する。刃の潰れ方が甘そうな適当な剣を引き抜いて振り返れば、アマルティエスは顔を青褪あおざめさせていた。さてどうしたものかと見ていれば、アマルティエスがぶんぶんと勢いよく首を横に振りながら叫ぶ。

「す、好きな女ができたんだ!」

「はあ?」

 思わぬ言葉に、エマティノスはつい顔をしかめた。

 好きな女と聞こえたが、それはつまり、アマルティエスがいい女を見つけたということか。そのせいで最近ずっとぼんやりしながら過ごしていたというのか。

 頭の中で最近のアマルティエスの言動と、彼の言った「好きな女」といことばを並べる。結果出てきたのは、胡乱気うろんげな声だ。

「は?」

「いや、その、会う口実とか色々考えてて……」

 アマルティエスがもごもごと口の中で言い訳がましく何か言っている声は、エマティノスの耳に入らなかった。

 エマティノスは今、あちこちでかつての女、あるいは男との関係を清算している。それはただ、シンネフィアに惚れたからだ。彼女が条件として「清算しろ」と望んだからに他ならない。

 ただし現在シンネフィアとエマティノスは両者とも一族を率いる当主の立場にあり、そのままでどうこうなることは現実的ではない。本当に結婚しようと考えるのならば、どちらかは当主を降りなければならないのだ。

 もしアマルティエスに妻が出来て、さらに子供が生まれたならば。そうすれば、エクスロス一族は次世代を得たことになり、エマティノスがエクスロス姓を残さなければならない事情はなくなる。別段エマティノスは当主の地位にしがみつくつもりはないし、己の子供に同じ地位を継がせたいとも思わない。

「ちょうどいいな」

「え?」

 これはある意味、使える状況だ。そんなことを考えて、エマティノスは笑みを浮かべる。

 その顔を、弟が何とも言えない顔で見ているとも知らないで。

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