9.さて、鬼の醜草とは
窓の外では、
雨に打たれていた紫陽花を思い出したのは、きっとくだらない理由だろう。とうに過ぎ去ったものに手を伸ばしたところで、振り返ったところで、それは幻でしかないというのに。
ぐいとひとつ伸びをして、それから見えた袖の色。春先に鳴く
ああいう派手な色は似合わない。せっかくだから着ていてよと言われて着ていたけれど、決して似合っていたとは思えなかった。
懐かしむようなものではないと、再度思う。振り返ったところで、もう戻りはしない。もう随分と時は過ぎて、自らの手で滅ぼしてしまった故郷は遠く遠く、歴史の波間に消えていった。今ではもう、滅びた国として歴史の中に名を遺すだけ。
「
扉を叩くどころか許可を得ることもせずに入ってきた青年に、刈萱は溜息で応えた。こう何度も溜息を
軍帽の下、ところどころ跳ねた癖毛が見える。その片方の目は眼帯で
「せめて扉を叩くか許可を取るくらいはしろ、
「すみませんね。両手が
「口は動くだろうが」
しゃあしゃあと言ってのけた青年――橘
まして朝澄は扉を自ら開けているのだから、やはり扉を叩くくらいはできただろう。つまりどういうことかと言えば、朝澄はおそらく「ただ面倒だった」これだけの理由なのだ。
「状況はどうなっている」
「神隠しの件ですか? それとも神を喰った男の件ですか?」
「両方だ」
「その辺りはこの中に報告書が埋もれているかと」
この中と言いながら、朝澄がどさりと机の上に書類の山を置く。また、山がひとつ増えてしまった。
これでは本当に、片付けても片付けてもきりがない。
「口頭説明は」
「しても良いんですけど、長くなりますよ。刈萱少将、読む方が速いでしょう」
朝澄の言い分をまったく否定ができず、刈萱はまた深く溜息を
そのまま足を進めて執務用の机の椅子に深く腰掛ければ、目の前には消えない書類の山が
「……後で探す」
軍帽のつばを少し上へと押し上げて、机の前に立っている朝澄を見た。黒い眼帯の下、その目のところには傷がある。ただそれはただ傷ができたというだけのものではない。
「目はどうだ」
「いつも通りですよ。もう慣れたので、そう心配されずとも」
「それを作ったのは俺だ。きちんと機能しているかは気になるだろうが」
「初耳です」
「別にべらべら喋ることでもないだろ」
朝澄の目は、神によって傷ついたものだ。それを
たとえ傷口が塞がろうとも、痛みは残る。じくじくと痛んで、
「はー、少将は器用ですね」
「違う」
器用とか不器用とか、そういうものではないのだ、これは。必要に駆られてできるようになって、未だそれが身に染み付いて残っているだけに過ぎないのだから。
「そういうものの扱いに慣れているだけだ」
慣れている。慣れてしまった。
かつていた場所で、今はもうとっくに失われた場所で。今は総暦一七六六年。あの土地が海中に沈んだのは総暦一五九四年。もう百年以上の時間が過ぎてしまった。
「ここ来る前にでもやってたんですか」
「そういうことにしておけ」
懐かしいとか、後悔しているとか、そんなものを今更大事に握りしめていたところで、何になるというのだろう。どうせ何にもならないのなら、手の中にあるものだった見えない振りをする。
「相変わらず謎の多いことで」
「何か問題が?」
「いいえ、何も。俺も人のこと言えないんで」
「だろうな」
そう朝澄に返して書類の山に手を伸ばしたところで、頭の中に鳴り響いた音があった。
誰かが呼んでいる。誰かが、何かを――けれどこれは刈萱を呼んでいるわけではない声だ。刈萱ではなく、違うもの。
ききょうかるかやわれも
忘れ草になんて、なれやしない。
「……なんだ、この声」
「声?」
どうして知っている。今はその名前を名乗っていないのに。どうして。
今ここにいるのは刈萱だ。他の名前でもない、他の何でもない。人間の形をした化け物である事実は変わらずとも、呼ばれる名前は変えられる。だというのに、どうしてその名で刈萱を呼ぶ。
「声なんて何も聞こえませんが」
「聞こえない?」
朝澄には聞こえないということは、この声は刈萱の中でだけ鳴り響いている。
どうせ聞こえるのなら、懐かしい声ならば良かったのに。もっと低くて、快活に笑って、刈萱の悩みなんて全部笑い飛ばすような、何も気にしないような。
かつて腰のところにあった重みは、もうどこにもない。餞別に置いてきたものは、果たしてどうなったのだろうか。捨てられてしまったのか、未だあの家に伝わっているのか。
死んだということすら、伝わってはこなかった。けれど死んだということだけは知っている。理解している。
人間は、そう長くは生きられないのだから。だから死んでいなければ、おかしいのだ。なぜならば、彼はどこまでいっても人間で、人間以外の何者かになることはないのだから。
「なら、これは……」
空間が裂ける。引きずり込まれる。
刈萱を引きずるように黒い手がいくつも出てきて、
「少将!」
「問題ない。いいか、橘。お前はこのことを決して口外するな。俺は少し遠くへ出張させられただけ、それで通せ。
「正気ですか!」
「俺は狂ったことは一度もない!」
いっそ狂えるのならばどれほど良かったか。いっそ正気を失って、何も分からなくなって、思い出すらもなくしてしまえたのなら、どれほど。
黒い影が刈萱を呑み込んだ。手を伸ばした朝澄に、首を横に振る。
多分これは、悪いものではない。誰かが呼んだ、誰かが希った。それだけのこと。刈萱を呼ぶということはつまり、それはきっと、王なのだろう。あるいは、王となるものか。
ずるりと落ちて、けれど自分の足で立つ。目の前には男がひとり笑っていた。
「やあ、こんにちは」
その笑顔を、どこかで見た気がする。
君は神を殺せるかと、きっと男はこれと同じような顔をして、問いかけたのだ。それは刈萱の記憶ではなくて、もっとずっと昔の、それこそ刈萱が刈萱に――いや、人間の形をした化け物になるよりも、前のもの。
多分これは、そういうものなのだ。
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