9.さて、鬼の醜草とは

 窓の外では、紫陽花あじさいが咲いていた。終わりがけの紫陽花は雨に打たれるでもなく、花のように見える白い萼片がくへんの端を茶色く変色させ始めている。じきにじとりとまとわりつく暑さの夏になって、朝顔の花が咲き始めることだろう。

 雨に打たれていた紫陽花を思い出したのは、きっとくだらない理由だろう。とうに過ぎ去ったものに手を伸ばしたところで、振り返ったところで、それは幻でしかないというのに。

 溜息ためいきいて、やる気を失った。机の上に積み上がった書類の枚数は、一向に減っている気がしない。

 ぐいとひとつ伸びをして、それから見えた袖の色。春先に鳴くうぐいすと同じ色をした軍服は、いつか身に纏っていたものとは異なる色だ。けれどいつか身に纏った牡丹ぼたんの色よりも、こちらの鶯色の方が自分には似合っているような気がするのも事実だった。

 ああいう派手な色は似合わない。せっかくだから着ていてよと言われて着ていたけれど、決して似合っていたとは思えなかった。

 懐かしむようなものではないと、再度思う。振り返ったところで、もう戻りはしない。もう随分と時は過ぎて、自らの手で滅ぼしてしまった故郷は遠く遠く、歴史の波間に消えていった。今ではもう、滅びた国として歴史の中に名を遺すだけ。

刈萱かるかや少将、入りますよ」

 扉を叩くどころか許可を得ることもせずに入ってきた青年に、刈萱は溜息で応えた。こう何度も溜息をくものでもないのだろうが、出てきてしまうものは仕方がない。

 軍帽の下、ところどころ跳ねた癖毛が見える。その片方の目は眼帯でおおわれているものの、それは何ら彼の顔の造作を損ねるものではなかった。

「せめて扉を叩くか許可を取るくらいはしろ、たちばな

「すみませんね。両手がふさがってたもので」

「口は動くだろうが」

 しゃあしゃあと言ってのけた青年――橘朝澄あさずみに対して、刈萱はただ再び溜息をくしかなかった。確かにその両手は山となった書類で塞がってはいるが、口は動く。つまり、扉の向こうから許可を得るくらいは簡単にできたはずだ。

 まして朝澄は扉を自ら開けているのだから、やはり扉を叩くくらいはできただろう。つまりどういうことかと言えば、朝澄はおそらく「ただ面倒だった」これだけの理由なのだ。

「状況はどうなっている」

「神隠しの件ですか? それとも神を喰った男の件ですか?」

「両方だ」

「その辺りはこの中に報告書が埋もれているかと」

 この中と言いながら、朝澄がどさりと机の上に書類の山を置く。また、山がひとつ増えてしまった。

 これでは本当に、片付けても片付けてもきりがない。

「口頭説明は」

「しても良いんですけど、長くなりますよ。刈萱少将、読む方が速いでしょう」

 朝澄の言い分をまったく否定ができず、刈萱はまた深く溜息をいて、ソファの上に放り投げていた軍帽を取った。被り直せば、視界の上端に帽子のつばがかかる。

 そのまま足を進めて執務用の机の椅子に深く腰掛ければ、目の前には消えない書類の山がそびえ立つ。

「……後で探す」

 軍帽のつばを少し上へと押し上げて、机の前に立っている朝澄を見た。黒い眼帯の下、その目のところには傷がある。ただそれはただ傷ができたというだけのものではない。

「目はどうだ」

「いつも通りですよ。もう慣れたので、そう心配されずとも」

「それを作ったのは俺だ。きちんと機能しているかは気になるだろうが」

「初耳です」

「別にべらべら喋ることでもないだろ」

 朝澄の目は、神によって傷ついたものだ。それをたたりと呼ぶかさわりと呼ぶかはさておいて、ともかくそれがというのは明白だった。

 たとえ傷口が塞がろうとも、痛みは残る。じくじくと痛んで、むしばみ続ける。そういうものを押さえるためのものが、その眼帯だった。そうでなければ別に、眼帯で隠さなければならないほどの傷でもない――目が、見えなくなったわけでもないのだから。

「はー、少将は器用ですね」

「違う」

 器用とか不器用とか、そういうものではないのだ、これは。必要に駆られてできるようになって、未だそれが身に染み付いて残っているだけに過ぎないのだから。

「そういうものの扱いに慣れているだけだ」

 慣れている。慣れてしまった。

 かつていた場所で、今はもうとっくに失われた場所で。今は総暦一七六六年。あの土地が海中に沈んだのは総暦一五九四年。もう百年以上の時間が過ぎてしまった。

「ここ来る前にでもやってたんですか」

「そういうことにしておけ」

 懐かしいとか、後悔しているとか、そんなものを今更大事に握りしめていたところで、何になるというのだろう。どうせ何にもならないのなら、手の中にあるものだった見えない振りをする。

「相変わらず謎の多いことで」

「何か問題が?」

「いいえ、何も。俺も人のこと言えないんで」

「だろうな」

 そう朝澄に返して書類の山に手を伸ばしたところで、頭の中に鳴り響いた音があった。

 誰かが呼んでいる。誰かが、何かを――けれどこれは刈萱を呼んでいるわけではない声だ。刈萱ではなく、違うもの。

 ききょうかるかやわれもかうこう。さて、鬼の醜草しこぐさとは何を呼ぶ。花も実もつけることなく朽ちるばかりの、鬼の醜草しこぐさ。決して忘れることなかれと呪われる、思草。

 忘れ草になんて、なれやしない。

「……なんだ、この声」

「声?」

 どうして知っている。今はその名前を名乗っていないのに。どうして。

 今ここにいるのは刈萱だ。他の名前でもない、他の何でもない。人間の形をした化け物である事実は変わらずとも、呼ばれる名前は変えられる。だというのに、どうしてその名で刈萱を呼ぶ。

「声なんて何も聞こえませんが」

「聞こえない?」

 朝澄には聞こえないということは、この声は刈萱の中でだけ鳴り響いている。

 どうせ聞こえるのなら、懐かしい声ならば良かったのに。もっと低くて、快活に笑って、刈萱の悩みなんて全部笑い飛ばすような、何も気にしないような。

 かつて腰のところにあった重みは、もうどこにもない。餞別に置いてきたものは、果たしてどうなったのだろうか。捨てられてしまったのか、未だあの家に伝わっているのか。

 死んだということすら、伝わってはこなかった。けれど死んだということだけは知っている。理解している。

 人間は、そう長くは生きられないのだから。だから死んでいなければ、おかしいのだ。なぜならば、彼はどこまでいっても人間で、人間以外の何者かになることはないのだから。

「なら、これは……」

 空間が裂ける。引きずり込まれる。

 刈萱を引きずるように黒い手がいくつも出てきて、まとわりついた。

「少将!」

「問題ない。いいか、橘。お前はこのことを決して口外するな。俺は少し遠くへ出張させられただけ、それで通せ。白墨はくぼくにもだ」

「正気ですか!」

「俺は狂ったことは一度もない!」

 いっそ狂えるのならばどれほど良かったか。いっそ正気を失って、何も分からなくなって、思い出すらもなくしてしまえたのなら、どれほど。

 黒い影が刈萱を呑み込んだ。手を伸ばした朝澄に、首を横に振る。

 多分これは、悪いものではない。誰かが呼んだ、誰かが希った。それだけのこと。刈萱を呼ぶということはつまり、それはきっと、王なのだろう。あるいは、王となるものか。

 ずるりと落ちて、けれど自分の足で立つ。目の前には男がひとり笑っていた。

「やあ、こんにちは」

 その笑顔を、どこかで見た気がする。

 君はと、きっと男はこれと同じような顔をして、問いかけたのだ。それは刈萱の記憶ではなくて、もっとずっと昔の、それこそ刈萱が刈萱に――いや、人間の形をした化け物になるよりも、前のもの。

 多分これは、そういうものなのだ。

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