4-1.海原を走る貝と蛇

 神々の土地の南側は、海に面した半島が突き出している。その半島は海の神であるヒュドールの支配領域であり、そこから海岸線はデュナミスの方向へと伸びているものの、デュナミスは険しい岩山によってそのまま海へ出ることはできない。つまり、この土地の海というのは、すべてヒュドールのものと言っても過言ではなかった。

 ヒュドールの一族が治める土地は海に面している関係から、南北に細長い領地であった。ただしこれは最初からヒュドールのものであったわけではなく、長年の戦いの結果手にしたものである。つまり、大海原の神たるヒュドールものを一族が正しく勝ち取ったということで、それは一族の誇りのようなもと言えるだろう。

 結果、海からもたらされる利益のすべてはヒュドールのものとなり、その富は他の領地とは比べるまでもない。

 唯一港がある領地ということもあり、ヒュドールには人も多く集まった。港へ行けばこの土地の人間ではない人々にも出会う機会があり、特に南東に位置する群島諸島連合ぐんとうしょとうれんごうの人々が多い。人が多いということは仕事が多いということでもあり、産業の乏しいクレプトなどからも出稼ぎにと人が集まって、実に様々な人間の坩堝るつぼといった状況であった。

「ご機嫌ですね、エイデス様」

「まあな。じきにルラキス=セイレーンが見えるだろ?」

 ヒュドールの領地はその首都を、ルラキス=セイレーンといった。海から引いた水路が張り巡らされた街では、徒歩移動と舟移動とが両立している。さて屋敷はどうなっているかなと、そんなことをエイデスはつらりと考えた。

 潮の香りに満ちた街は、海の底を思い出してエイデスとしては住みやすい。ついうっかり海に潜ってぷかぷかと霧を吐きだしたくなる点においてはいささか注意が必要だが、それはそれというものだろう。

 エイデス・ヒュドールと言う名であるということは、この地を治めるヒュドールの一族の一員ということである。貴族の例に漏れず先代の当主はあちこちに女を作っていたようで、エイデスが「貴方の子です」とやってきても、一族に何の疑いもなく招き入れられた。色々頭の中で筋書きを練っていたというのに使われることもなく、拍子抜けしたのを覚えている。

 現在ヒュドールの一族を纏めているのは、そんなエイデスの父の弟、つまりエイデスから見れば叔父ということになっている、クリュドニオン・ヒュドールだ。彼は若々しい外見で街の女性にも随分人気らしいが、未だに妻を迎える様子がない。一風変わった男と周囲からは思われているが、本人曰く「運命の人がいない」で通しているらしかった。それは群島の言い草だなと、エイデスはそんなことを思ったものである。

 大方クリュドニオンは、己の兄があちこちに種を蒔いて揉め事が発芽するのを見ていて、その気を無くしたのだろう。少なくともエイデスは、口には出してはいないがそう思っている。

「陸が見えたぞ!」

岩礁がんしょうに気をつけろ!」

 船乗りたちが口々に声を上げる。

 ヒュドールの一族として、エイデスは船に乗っている。元来海はエイデスにとっての家か庭のようなものであり、船で海を行くことなど造作もなかった。

 どこの流れが速いのか、どこに浅瀬があるのか、そう簡単に忘れることでもないのだから当然だ。船の仕組みについても知っている。もっとも記憶の頃よりも随分技術力は上がっておち、覚え直すことも多かくあった。だが、それもさほどの時間を要するようなものでもなく、エイデスはすぐに対応したものだ。

 最初は「所詮しょせん貴族のお坊ちゃんの気紛れ」という目で見ていた船乗りの男たちからも結果として信頼を得て、今では気の置けない関係になっている。

「ようやく帰ってきたな」

 エイデスはひとつ、伸びをする。

 海の底の方が家としての感覚が強く、ひたすらにゆらゆら揺れる船の上にいると、動くことのない海底や陸地が恋しくなってくる。今回の船旅もそれなりの長さで、群島に行けたのは良かったが、それでもそろそろ陸地に上がりたいなとは思ってしまう。

「待ち人は?」

 軋みやすいはずの船板の上、足音も立てずに近寄ってきた人影がいた。分かりきっていることを聞く兄の声に、エイデスは喉の奥で笑う。

が一人」

 肩越しに振り向けば、兄も薄っすらと笑みを浮かべていた。

 以前の表情に近くなっているなと、エイデスは胸をなでおろす。彼は未だ自分の名を思い出せないのか、ディガンマと名乗り続けている。一応ディガンマは今もエイデスの兄ということで通っているが、その髪色はヒュドールからの加護を受けたものではない。印である色がない以上は貴族ではないこともあり、彼はエイデスの兄ではあるものの、平民として暮らしていた。

 どういう理屈か、ディガンマの髪は染めようとしても一向に染まらなかったのだ。エイデスは四苦八苦していたが、ディガンマはそんなエイデスの努力などどこ吹く風で「この方が動きやすいから」などと宣っていた。

 そのため、厳密に言うとディガンマとエイデスは兄弟という扱いはされない。ディガンマは人前ではエイデスを「エイデス様」と敬称をつけて呼ぶ。それがこの土地における、貴族のだった。

 ただエイデスは未だに兄からそう呼ばれることは慣れず、叫びたくなりそうな違和感がある。けれどそれはここに居続ける以上は、どうしようもないことだった。

「兄さんこそ、待ち人は?」

 その代わりと言うには難だが、エイデスはディガンマのことを代わらず「兄さん」と呼び続けている。

「さあ。どうだろうな」

 エイデスの問いに肩を竦めたディガンマは、そのまま話題を打ち切るように碇を降ろす手助けをしに行ってしまった。エイデスは口を尖らせるが、未だディガンマのについては聞けたためしがない。

 陸に上がると彼が土産を持ってどこかへ消えていくことは知っていた。会いに行く誰かがいるのは分かっているのだから、弟である自分にも紹介してくれれば良いのに。そんな少々拗ねた心持ちにはなるものの、薄々相手に察しはついている。だから、深く追及するのはやめていた。

「エイデス様、間もなくです!」

「ああ。今行く」

 ちょうど漁師たちの船も戻ってきたようだ。海鳥たちがぎゃあぎゃあと鳴き騒いで、おこぼれにあずかろうと船の周りを旋回している。耳を劈く海鳥の鳴き声に負けないようエイデスも声を張りながら、舵を見に向かった。


  ※  ※  ※


 仕事を終えて、屋敷へと戻る。「戻ったぞ」と声をかければ、しばらくの静寂の後、ぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。

「おかえりなさい!」

 走ってきたのは、十歳になる可愛らしいだった。侍女の恰好をしたがぺこりと頭を下げたのを見て、エイデスは思わず破顔した。上げた頭を撫でてやれば、嬉しそうに笑っている。

「ナハト、寂しくなかったか?」

「大丈夫です。もう十歳ですから」

 胸を張る姿は、大変に可愛らしい。

 はエイデスが養育している子であり、対外的にはエイデスのである。侍女の真似事をさせているのは行儀見習いのためであるのと、ヒュドールの加護を持っていないので後継ぎとして大々的に迎え入れられないから、ということになっていた。

 そもそもはエイデスの恋人が産んだ子なのだから、エイデスが我が子と言っても差し支えないはずだ。少なくともエイデスは、そう思っている。

「兄さんも来るから、茶を頼む。それからほら、土産だ」

 一抱えもある包み紙を渡すと、ナハトの顔が華やいだ。礼もそこそこに引っ込んでいく背中を見送っていると、ふと隣に影が差す。

「大きくなったな」

「ああ」

 足音もなく、ディガンマが隣に立った。

 海にいたときと異なり、彼は目を閉じ、その上から黒い布を巻いている。目を開けば、余計なものを映す。だからこうしてディガンマは、陸地ではその目を遮っていた。

 目を塞いでいても、ディガンマは周囲の様子が感知できなくなったりはしない。

「どうぞ」

「ありがとう」

 ナハトが戻ってきて、茶を出した。ディガンマがカップを手にして、口をつける。

 そんな彼らの様子を見ながらエイデスは鼻歌まじりに、机の上に置いていた「シチリン」という東の国から流れてきた調理器具に火をつけて、群島で見つけた謎の食べ物を焼き始める。群島の商売人も、これは東の島国から流通してきたものだと言っていた。

 なんとも言えない鼻につく匂いが室内に充満して、ディガンマがくしゃみをしながら窓を開ける。

「あの……それは……?」

「魚の干物、らしい」

「腐っているのでは?」

「いや、こういうものだそうだ」

 とんでもない匂いがするが、旨かったし日持ちもすると買ってきたのだ。実に酒に合うとエイデスは思っているが、船乗りたちは同意してくれなかった。

 ディガンマが鼻に皺を寄せて、嫌な顔をしている。

「……ずっと、その恰好か」

「え? ええ、そうです。お父さんがそうしておけと言うので」

「……そうか」

 ナハトとディガンマが会話しているのを聞きながら、エイデスは干物をいい塩梅になるまで焼き続けた。

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