3-2.運命が現れた日
その日も朝は、いつも通り。気候が良いのはディアノイアの領地にとっては常であり、特に「今日は良い天気だ」と喜ぶようなことはない。
ただいつも通りではなかったことがひとつ。しかもそれは、
「ヒカノス」
呼ばれて、異母兄の顔を見る。異母兄のテレイオスは、常と変わらない顔でヒカノスを見ていた。何を考えているのか分からない顔、冷え冷えとした黒い瞳。何も心当たりはないのに、その目に見据えられていると責められているような心地になる。
「客が来る。対応しておけ」
「は? え? は、はい……」
間が抜けた返答になってしまったが、返事はした。とはいえ「誰が」とか「どうして自分が」とか「いつ来るのだ」とか、浮かんでは消えたことばはある。結局言いたいことの半分も口に出せず、朝一の異母兄弟の会話は終わりを迎えた。
テレイオスに対してヒカノスが抱いている感情は、
太陽は動き、そろそろ天頂にかかろうかという時刻。昼が見えてきたくらいの時刻になっても、テレイオスの言っていた『客』は姿を見せていなかった。
「いつ、来るんだ……?」
結局詳細は聞けず仕舞いで、その客が何者であるのかもヒカノスは分からないままだ。聞けば良かったのかもしれないが、今更そんなものはどうしようもない。
どんな客かも分からない以上、ヒカノスにできたのは身なりを整えることくらいだった。そして適当な本を手にして、結局読むともなしにページを
「ヒカノス様」
使用人には客の対応をヒカノスがすると伝わっているので、その謎の客が来たら知らせがあるだろうとは思っていた。ヒカノスの予想はその通りで、扉を叩く音がして、その後外から使用人の声がかかる。やっとかと
扉を開ければ、まだ若い使用人が立っている。
「客、とやらが来たのか?」
「はい。ですが、その……」
彼は頷いたものの、困ったように眉を下げていた。何事だろうかと内心首を傾げたヒカノスではあるが、待たせているという客人の対応はテレイオスに命じられたことで、それを放っておくわけにもいかない。
ヒカノスは朝からずっと待たされていたのだが、それはそれだ。
「行くぞ。案内してくれ」
「はっ!」
ディアノイアの屋敷にいる使用人は、数が少ない。テレイオスが大勢の人間を置くのを嫌がっているからとヒカノスは聞いているが、それにしてはテレイオスが当主になるよりも前、ヒカノスの幼少の頃から少ない気がしている。
テレイオス個人の好みであるというのなら、彼が当主になる前はもっと使用人がいても良いはずだ。だがやはり記憶を辿ってみても、ディアノイアの屋敷は昔から屋敷の大きさの割に人が少なく、どこか
それを疑問に思う時期はとうに過ぎて、ヒカノス自身もこの人の少なさに慣れてしまっている。だから今更どうと言うこともない。使用人が少ないおかげで自分のことは自分でする癖がヒカノスにはついたが、それもまた良いこととしておこう。
「こちらでお待ちです」
使用人はヒカノスを案内すると、すぐにどこかへ立ち去った。人が少ないからか、ふと目にした時に彼らはいつも忙しそうにしている。もっとも使用人は家人に姿を見られないようにしていることの方が多いのだから、彼らもうまく休んでいるのかもしれない。
使用人の背中を見送ることもなく、ヒカノスは客が待っているという部屋へと足を踏み入れた。
「すまない、待たせただろうか……」
客間のソファには、所在なさげに腰かけている少女がいた。客人と言われて漠然と思い描いていた姿は少女ではなく、大きくヒカノスの予想は外れている。
ヒカノスの声に気付いた少女が立ち上がり、真っ直ぐにヒカノスを見た。その姿を見た瞬間に、どうしてだかヒカノスの喉から声が失われた。喉が締め付けられるような、叫びたいような、泣きたいような、そんな心地になって声が出てこない。
少女の目は、紫水晶の色をしていた。窓から差し込む光に照らされた髪は真っ白で、けれど太陽の光を反射して光り輝いたその色は、金色にも見える。
美しい、と、掛け値なしにそう思った。いい年なのだからと積極的に持ち込まれる見合い用の絵姿で、美しい女など見慣れている。けれど目の前で不安そうに紫水晶の瞳を揺らした少女は、どこか儚げにも見えて、触れれば消えてしまいそうで、ひどく美しく見えるのだ。それこそ、これが己の運命だと、ヒカノスがそう思ってしまうくらいには。
ただ黙って立ち尽くしたヒカノスに不穏を感じでもしたのか、少女が慌てたようにぎこちなく一礼をする。その姿でヒカノスも我に返り、彼女に頭を下げた。
「え、っと……君、は……?」
テレイオスからは客が来ると聞いていただけで、それ以上の説明はなかった。彼女がディアノイアの屋敷を訪ねてきた事情も、理由も、彼女の口から聞かねば始まらない。
ざっと見たところ、着ているものはそれほど仕立ての良いものではない。それだけで身分を判断するようなものではないかもしれないが、少なくともヒカノスらディアノイアの一族が着ているものよりは質が落ちる。
「あ……う、あ……」
彼女は困ったように口を開閉させて、音にはなれども言葉にはならないものを発していた。それから泣きそうな顔をして、目を伏せてしまう。
「どうしたの……? 大丈夫だから、落ち着いて」
慌てているような、困っているような、そんな少女の様子に、ヒカノスは落ち着かせようとそっと手を握る。その手はかさついているものの、柔らかかった。そのまま彼女をソファへと誘導し、本来なら向かい合って座るべきなのだろうが、流れでそのままヒカノスも彼女の隣に腰を下ろした。
ヒカノスの手の中にすっぽりおさまってしまうほど小さな手を、なんとなく離しがたい。そう思ってそのままにしていると、ややあって彼女の手がゆるゆると動いた。
「うん?」
手のひらの上を這う指の感触は慣れず、くすぐったい。喉の奥で笑いを噛み殺しながら、手を開いて好きなようにさせることにした。
やがて、彼女の指は
『
手のひらに書かれた文字が何なのか認識に、ヒカノスは
「話せない?」
こくりと、少女が頷いた。
先ほどの使用人が困ったような顔をしていた理由が、ようやく分かった。使用人も彼女に問おうとしたのだろうが、彼女は
ヒカノスは苦笑して、「少し待っているように」と彼女に告げて自室へ戻る。
最初からそう言ってくれれば、二度手間にならずに済んだものを。テレイオスはこのことを知っていたのだろうか。知っていたのならば、せめて教えておいてくれれば良かったのに。
適当な紙と羽ペン、そしてインク
言葉が出てこないというだけで酷い扱いをされるのではないかと、不安があったのだろうか。
ヒカノスがそっと彼女に羽ペンを差し出せば、彼女その先をインク
「名前は……レステリア?」
隣に座っているおかげで、文字が上下逆さまになることはない。声に出して確認すれば、彼女は嬉しそうに白い頬を赤らめて微笑んだ。
可愛らしいなと、改めて思う。体を近付ければ花のような少し甘い香りがして、もっと嗅いでいたいと本能が訴えてくるようだった。
「俺はヒカノスと言う。よろしく」
笑みを浮かべたままに告げれば、レステリアはヒカノスの言葉にこくりと小さく頷いた。
彼女が紙に書いたところによると、どうやら彼女はヒカノスやテレイオスの異母妹にあたるらしかった。母の身分が高くなかったために愛人として招かれることはなく、彼女の母親は彼女と共に
ところが、先日彼女の生みの母が亡くなってしまった。他に身寄りのないレステリアは、伝手を辿ってディアノイア家を訪れたそうだ。
彼女は己の両親が交わした手紙を持参していて、そこには確かに「もし自分が死んだら娘のことを頼む」と書いてきた女の手紙に対し、承諾を返す男の字があった。しかも便箋にはご丁寧にもディアノイア家の紋章の透かしが入っており、ヒカノスの父が出したものであることに疑いようはなかった。
「なるほど……」
レステリアは確かに、ディアノイアからの加護があることを示す紫水晶の瞳をしている。これがあったからこそ、彼女の母は万が一の際の
加護を与えられた印さえあれば、貴族の子であるという証明になる。逆に印がなければ、同じ胎から生まれたとて貴族ではなくなる。
テレイオスはどう思うのだろうかと、ヒカノスはしばし考えた。だが、彼は身内が増えることに対してさほど興味を示さないだろうと思い直す。
レステリアの相手をヒカノスに一任したのだから、ここでヒカノスが彼女を受け入れたとて、テレイオスは文句を言わないはずだ。そもそも、きょうだいが増えたことにすら、しばらく気づかない可能性もある。
「わかった。ここにいるといい。今日から君は俺の妹だ」
受け入れてもらえるか、それとも追い出されるか。不安を絵に描いたような顔をしていたレステリアが、ヒカノスのことばで顔を明るくした。
妹ということばに彼女は何度も頷き、ヒカノスの手を取る。そこに指を走らせ、こう記した。
『兄さま』
「うん」
その呼び方が、胸を締め付けてくる気がした。どこか懐かしさを覚える呼び方に、ヒカノスの頬が緩む。
午後の穏やかな日差しの中、ただ手を取り合い、しばし会ったばかりの異母兄妹はじっと互いを見つめていた。
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