4-2.海原の当主と甥と砂地の刑人

 ぎゃあぎゃあと頭上では海鳥が鳴き騒いでいる。裸足はだしで砂浜の砂を踏んで、その感触にはつい鼻歌が出た。人間というのはきっと室内にばかりいるようにはできていない、というのが持論であり、それを証明するためにこうして屋敷から飛び出してきたのだ。断じて、仕事が嫌になったとかそういうわけではない。

 海はざんざんと寄せては引いてを繰り返している。ただそれをじっと眺めているだけで、何時間でも時間は過ぎていく。

 波の下には、何があるのだろう。海の中は、この土地は、ヒュドールのものである。自分の血筋がヒュドールであることを明白に示している海色の髪の先を摘まんで、「少し伸びてきたな」とつぶやいた。

「あ! またこんなところにいらしたのですか、クリュドニオン様!」

「げ」

 砂浜は姿を隠すようなところはなく、クリュドニオンを発見した使用人から逃げることも難しい。今日は早かったなと肩を落として、クリュドニオンに渋々使用人の方へと足を向けた。

 太陽に照らされた砂浜は、それなりの熱をはらんでいる。ただそれはクリュドニオンの足を焼くほどのものではなく、むしろちょうどいいくらいだと思っている。それを言ったら甥には奇妙なものを見る目で見られた。

「よく分かったな」

「エイデス様が以前、叔父上がいなくなるならどうせここだろうと仰ったので」

「エイデスめ……分かった、次から場所を変える」

「そういう問題ではありませんよ!」

 戻りますよと言う使用人は、息を切らせていた。初老の彼はクリュドニオンが幼い頃からヒュドールの屋敷にいて、その時はもっと髪も色があったのになと思ってしまう。

 こうなったのもすべて兄のせいだと、不服に思っている部分はある。クリュドニオンは当主になるつもりはなかったし、そもそも自分がそんな器でもないと自覚している。机仕事より船に乗っている方が好きだったし、実際そうしていた。

 けれど十年前の戦争で、兄が死んだ。クリュドニオンが難を逃れたのは、船に乗っていて戦争に参加することがなかったからなので、やはり船というのはクリュドニオンを守ってくれる女神のようなものだろう。

 服を着替えさせられ、髪を整えられ。伸びている前髪もすべて後ろへ流せば確かには見える。だが、どうにもあちらこちらで浮き名を流した兄に似ているようで、喜びたくはない。

「散歩は楽しかったですか、叔父上」

 執務室へ戻ったクリュドニオンに、成人男性にしては少しばかり高い声が突き刺さった。当主の机とは別に置かれたひとまわり小さな机のところで仕事をしていた小柄な彼が、じとりとした目でクリュドニオンを見ている。

「やあ、サラッサ。残念ながら早々に連れ戻されて、楽しかったとは言い難いな」

「そうですか、それは良かった」

 クリュドニオンの兄はあちらこちらで浮き名を流し、種を蒔き、芽吹いて軋轢あつれきを生んだものが多数ある。その中にあって唯一正妻が産んだ子供が、サラッサだった。年齢的に彼はエイデスの異母弟ということになってはいるものの、母が平民であるエイデスと正妻であるサラッサとでは、扱いは違う。

 というよりも、エイデスがあの性格だ。船に乗っている方が良いのだというエイデスの気持ちは、クリュドニオンにはよく分かる――分かるが、どうにもエイデスのそれはクリュドニオンのそれとは異なっている気がしていた。エイデスはクリュドニオンよりも年下のはずなのに、もっと老獪ろうかいなものを相手にしている気持ちになることがある。

 当主に与えられた大きな机の上には、書類が積み上がっている。ヒュドールは交易をおこなっている関係上、他の神の領地よりも書類仕事は増えるらしい。

 書類を見ているふりをしながら、右斜め前にあるサラッサの横顔を観察した。丸い頭、撫でつけられた髪。色は海の青で、それは目の色も同じだった。年齢よりも幼く見える顔なのは、その目の大きさと、白くてふっくらして見える頬のせいか。別に太っているわけではなく、そういう肉の付き方だろう。思えば兄もそのような感じではあったので、日に焼け船の仕事で余計なものが削ぎ落されたクリュドニオンとは違っている。

「機嫌が悪いな?」

「誰のせいだと! あんたが仕事放り出してふらふらしてなきゃ、俺の仕事はもっと少ないんだよ!」

「まあそう怒るなよ、サラッサ。腹減ったのか? イカでも食うか? 確かこの机の中に美味い干物が……」

「あんた何てもんを机の引き出しに入れてるんだよ!」

「美味いぞ、喰うか?」

「イカは嫌いです!」

 確かここにと探っていれば、サラッサが目を三角にするように吊り上げて叫んでいた。本人は怒っているつもりかもしれないが、その顔立ちのせいか、単なるクリュドニオンの身内の欲目か分からないが、まったく怖くはない。むしろ子犬がきゃんきゃんと吠えているようなものだ。

「好き嫌いばかりするから大きくなれないんだぞ、お前」

「余計なお世話です!」

 さて、サラッサは今年で何歳だったかと考える。たしかサラッサが生まれたのはクリュドニオンが九歳の頃であるから、彼は今二十一か。

 思えば兄とは随分年が離れていたものだが、世の中叔父や叔母の方が年下ということもあるくらいで、何も珍しい話ではない。エイデスなどクリュドニオンとの年の差は五歳だけだ。それでも彼らはクリュドニオンを「叔父上」と呼ぶものだから、どうにも年を取ったように思えてならない。

 成人を迎えて何年か過ぎているというのに、やはりサラッサからは幼さが抜けない。これも正妻が産んだ唯一の男児として甘やかされ、けれど次の当主になれと厳しくもされ、その結果なのかもしれない。

 サラッサにイカの干物を食べさせることは諦めて机の中に再びしまおうとすると、かわいい顔をした甥っ子はかわいくない視線を向けてきた。肩をすくめてひらひらと干物を振って、結局引き出しの中へとしまう。

 それからしばらくは、無言の時間だった。窓の外からは潮のにおいがしていて飛び出したくはなるが、さすがに日に二度も飛び出すほどクリュドニオンは状況が把握はあくできないわけでもない。

 ようやく太陽が高い位置からくだりかけたあたりで、こつこつと扉を叩く音がした。

「クリュドニオン様、来客です」

「客? 予定はなかったはずだろ?」

「儀式が終わったから来たと、ティグリス様が」

 扉の向こうから聞こえた名前に、がたんと音を立ててクリュドニオンは立ち上がる。

「あいつが? 分かった、会う。客間か?」

「いえ、まだお通ししておりません」

「通しておいてくれ。すぐに行く……というわけでサラッサ!」

「嫌です俺は俺の分しかやりません」

 まだ何も言っていないのに、サラッサは即座に断りのことばを口にした。確かに仕事を肩代わりしてもらおうとは思っていたが、そんな風に切り捨てなくても良いではないか。

 まったく心が狭いなと小さく紡げば、サラッサが片眉をつり上げてクリュドニオンを見ていた。海色の瞳は冬の海のように冷たく凍てついている。

「そんなだから小さいんだぞお前は!」

「それとこれと何の関係があるんです! それに! 俺は! 普通です!」

「はいはい」

 ぎゃおうと吠えたサラッサの声を聞き流して、クリュドニオンは机の上もそのままに立ち上がる。引き出しの中のイカをどうしたものかと考えたのは、このままにしておくと間違いなくサラッサが使用人に命じて片付けてしまうだろうと想像ができているからだ。

 まあいいか、と、そう思うことにした。何もイカの干物ひとつ、執着するほどのものでもない。

 まだ文句のありそうなサラッサの前を通り過ぎて、ひらりと手を振る。そのまま執務室を出た先の廊下は真新しい絨毯じゅうたんが敷かれていて、一歩踏み込むだけで足が沈みそうだ。

 こんなところに金をかけなくともと思うのだが、これも貴族らしさというものらしい。特にヒュドールは交易で財をなしているから、その誇示というのもあるのだろう。それから、ヒュドールの一族の中には「ヒュドールこそが最初に生まれ落ちた神なのだから、他より上にあるべき」という考えの者も多くいる。

 まったくくだらないなとクリュドニオンなど思うのだが、兄はその考えが強かったようにも思う。

 こちらですと案内された客間の扉を、叩くこともなく開いた。当然ながらそこには柔らかなソファがあって、身が沈むのが落ち着かないのか眉間に皺を寄せてティグリスが座っている。

「ようティグリス、クレプトから遥々よく来たな」

 つかつかと歩み寄れば、膝の上で手を組んだままのティグリスが顔を上げた。

「悪いな、先触れも出さずに」

「別に構わないさ、俺とお前の仲だし。で? 何があったんだよ、ルスキニアはどうした?」

 ティグリスが亜麻色の髪を掻き上げて、それから溜息ためいきく。弁柄べんがら色の目は明らかに不機嫌をたたえていて、これはいつもなら彼が連れてくる妹がこの場にいないことと関係があるなと、クリュドニオンは見当をつけた。

 先触れも出さずに神々の土地としては最も北東にあるクレプトから、最も南西にあるヒュドールまで馬を飛ばしてきたのだろう。つまりそれくらいには苛立たしいことがあったということだ。

「エンケパロス・クレプト……」

「ああ、お前のとこの当主。おい待て、まさかと思うが」

「あいつ……僕が儀式の最中なのを良いことに、ルスキニアを愛人にしやがった……!」

 絞り出すような声に、気が遠くなる。

 ティグリスにも、妹のルスキニアにも、家名はない。彼らは神の名を冠する一族ではないからだ。かといって平民でもなく少々特殊な立ち位置ではある。たが身分が高いとは言えないのだから、拒否権がないのも確かだった。

「だから連れてこなかったのか? でも別に愛人だからって兄と出かけるなってこともないだろ?」

「……家には帰さないと。屋敷に部屋を与えたから、戻す気はないそうだ」

 愛人を囲うことは、珍しいことではない。貴族の結婚など自由にならないことも多いのだから、正妻は別に置いておき、自分の好みの愛人を屋敷に住まわせることもままあることだ。というよりその点に関しては、クリュドニオンは兄という実例があるために何も言えはしない。

 とはいえそれでは、体のいい軟禁ではないのか。そもそもティグリスは前々からルスキニアを愛人として差し出すことには猛反対をしていたはずで、つまり許可が得られなかったエンケパロスはとうとう無許可のまま強行したということになる。

 頭痛がする気がして、クリュドニオンは自分のこめかみを揉んだ。思えばまだ座ってもいないのに、とんでもない話を聞かされた。

「で、俺に何かして欲しいのか? 特に何もしてやれんぞ」

「別に何も求めちゃいないさ。だいたい、ヒュドールの当主がクレプトの当主に文句を言ってどうする。戦争でもしたいのか、この遠い距離で」

 他家の事情に口を挟むことなど、ご法度だ。一応神々の土地としてまとまりのようなものはあれど、それぞれの領地は独立した国のようなものである。

 後継ぎのことであるとか、お家事情のことであるとか、そんなものに口を挟めば戦争の意志ありと取られてもおかしくはない。

「聞いて欲しかっただけだ。誰かに文句を言わないと、落ち着くこともできん」

「穴でも掘って叫んどけよそこは」

「お前がいるのに何でそんなことしなきゃならないんだ。穴掘るくらいなら、馬を飛ばすぞ僕は」

 すっかり疲れた様子で、またティグリスは俯いてしまった。下手な慰めが欲しいわけでもなく、本当に彼は愚痴を言いたかっただけなのだろう。

 クリュドニオンができることなど、彼に「まあ、泊まっていけよ」と言うくらいだ。その言葉に力なく「ああ」と返答があったのを聞いて、クリュドニオンは使用人を呼んで、彼が泊まる部屋の準備をさせることに決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る