4-3.薔薇の彼女への土産を手に

 いつだったか、砕けてしまったものを拾い集めた。繋ぎ合わされたそれを手にしたとき、心の底から安堵あんどしたことは記憶にある。ああこれで今しばらく待てば良いと、そんなことを思ったものだ。

 長らく目を塞いでいた黒い布を外せば、しゅるりと微かな衣擦れの音がした。海を赤く染める太陽の光が目を焼き、まぶしくて仕方がない。何度か目を瞬かせて明滅する視界を明白なものにすると、すぐに己の目が己の物ではなくなる感覚がした。

 ここにはいないが、何かをディガンマにささやいている。何を言われているか判然としないまま、ディガンマは操られるように、景色をに見せるように、ぐるりとあたりを見渡した。

 周囲には砂浜と海、そして停泊中の船。特に何かめぼしいものがあるわけでもない。時折、波間にキラリと光るものが見えるのは魚の鱗だろうか。その中に、珍しい茶色の魚がいた気がした。

 妹のおかげで、ディガンマは随分己の意識をはっきりと保つことができるようになっている。を貸している間、ひゅるりひゅりらと風が奏でる音に耳を澄ませる。その音が聞こえていれば、ディガンマは己を確立させていられた。

 以前はディガンマをそう名付けたの声もはっきりと聞こえていたのだが、最近はとんと聞こえなくなった。それは不必要に意識を逸らされなくていい反面、薄気味悪くもある。

 視界の共有は、前触れのあるものでもない。突然視界を共有されたときに、見せたくないものを見せかねないということでもある。だからディガンマは、に見せたくないものを見るときは、黒い布で目を覆うようにしていた。

 かつてはそれすら己の自由意思で行うことができなかったのだから、時の流れというのは偉大なものだ。あるいはこれも、妹のおかげなのか。

「まだちょっと臭うな……」

 久方ぶりにエイデスの家で飲み食いしたのはいいが、群島で手に入れたという魚の干物はひどい臭いで、窓を開けていてもなお室内に充満していた。確かに味はいいのだが、臭いはもう少しどうにかならなかったものか。

 袖口のにおいを嗅いでみると、今なお干物の臭いがしている。これでは今すぐに移動はできないと溜息ためいきいて、ディガンマは帰路についた。


  ※  ※  ※


 一夜明けた朝、ディガンマはまだ太陽が顔を出しきらないうちに家を出た。行きたいところへは馬で行けば早いが、水路があちこちに張り巡らされているヒュドールの街では、馬はかえって邪魔になる。そのため、ヒュドールでは馬はあまり普及していない。

 とはいえ、水路のおかげで舟の移動ができる。だからヒュドールの人々はルラキス=セイレーンの中を移動する分には何も困らない。荷とて、舟に乗せてしまえば運ばれる。

 朝一番に舟を出している船頭に声をかけ、ひょいと飛び乗った。街の端まで行ってくれるよう伝えてから、相場より少し多いくらいの金を渡せば、腕まくりをした船頭は嬉しそうに舟を漕ぎだした。

 街の外れまで来ると、水路は流石に途絶えている。ここから先は馬や馬車、あるいは時間がかかるが徒歩で移動するしかない。そのため、街の入り口には貸馬屋や、馬の預かり宿が数軒店を構えていた。その中の一軒で馬を借り、またがる。

 誰でも乗れるよう、こういうところの馬は比較的穏やかな気性の馬を揃えてあるらしい。

「行くぞ」

 ディガンマが軽く腹を蹴ると、馬はぶるると鼻を鳴らし、走り始める。平民ということになっているディガンマでも躊躇ためらわず払える程度の金額で貸せるのは、それだけ利用者が多いということだろう。多く売れば利益が少なくとも積み重なる、そういうことだ。

 海から帰ってきた船乗りたちには、疲れを癒すため、または家族と過ごすため、という名目で、しばし休みの期間が与えられる。貴族としてその名をヒュドールの一族に連ねるエイデスは悠々と休んでいる暇はないようだが、気楽な平民暮らしのディガンマにとってはちょっとした休暇だ。

 それを利用してここ数年、ディガンマはある場所へと通い続けている。

 ヒュドールの領地の北に隣接するのはマカリオスの領地であり、その境に森がある。森と言ってもニュクスやヘリオスの領地にあるような深い森ではなく、もっと木々はまばらで林という方が近いだろうか。

 ディガンマの目的地は、その林の中だった。ルラキス=セイレーンからは馬を走らせれば半日程度でたどり着くことができるそこは、まばらに生えた木々の間からたっぷりと降り注ぐ陽光に照らされて、瑞々しく茂る灌木かんぼくに木苺が育っていた。他にも、果実がいくつか見える。

 馬から降りて歩いて行けば、ディガンマの気配に驚いたのか小動物がさざめく気配がした。未だ小動物たちは、ディガンマの気配に慣れないらしい。

「少しもらうぞ」

 木苺を少しだけ摘んで、小さな袋に入れる。不満そうに鳥がさえずるのを気にせずに、林の中をひたすら進んだ。

 林の中を蛇行しながら横切っている川は、いずれヒュドールの領地に繋がり海へと注ぐ。蛇が這うような川沿いに歩いていくと、人一人が通れる程度の幅しかない橋のような足場があった。短い草が生えたその足場を渡った先にある小屋が、ディガンマの目的地である。

 小屋の前に馬を放してやり、人がひとり住むにも手狭なくらいだろう小屋の扉を叩く。

「カルディア。いるか?」

「ええ、どうぞ」

 ほどなくして返事が聞こえ、中から開かれるのを待たずに扉を開けた。家の中はやはり狭いが、程よい生活感がある。いい匂いがしているのは、何か料理でもしていたからだろう。今日は食糧があったらしい。

 入ってきたディガンマに驚くことなく、家の中で一人の女性が微笑んでいた。

「帰ってきていたのですね、おかえりなさい」

「ああ、ただいま。昨日帰った。土産だ」

「まあ……ありがとうございます」

 高い位置に移動してきた太陽の光に照らされて、美しい橙色がかった金色の髪が輝いている。それから白い肌に薔薇ばら色の瞳は、その色彩も華やかだ。そして、その容姿も色に負けていない。

 彼女は本来、こんな粗末な小屋で一人暮らすような立場ではないのだ。マカリオスは薔薇の色、つまり彼女はその瞳が物語る通りに、マカリオスから加護を受けた紛れもない貴族である。

 土産の袋を手に取ろうとしたカルディアの手は、暫し空を彷徨う。ディガンマがその白い手をそっと取って袋を乗せてやるまで、その手が正しい場所に触れることはなかった。

「すみません……」

「いや」

 マカリオスは、不具の子を嫌う。それは女神マカリオスが産み落としたデュナミスに欠落があり、不具のものはデュナミスに通じるとされるからだ。

 カルディアの目は、生まれつきであるという。だからこそ彼女にとっては実の伯母であり、そしてマカリオスの一族を実質的に支配するロズ・ディアマンティがカルディアをこの小屋に押し込めたのだ。

 ロズ・ディアマンティが言うところによれば、カルディアの目は彼女の母、つまりロズ・ディアマンティにとっては実の妹が平民に襲われてはらんだ子であるがゆえの呪いであるという。だが、市井しせいに流れる噂はそれとは違っていた。マカリオスの街に住まう人々曰く、カルディアの両親は愛し合っていたのだと。だからカルディアは輝くような美しさを持って生まれ、その美貌に嫉妬したロズ・ディアマンティがカルディアを疎んじ辺境に押し込めたのだという。

 どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか、ディガンマに判じることはできない。そして、そんなことには興味もない。ただ彼女と知り合って以来、ディガンマは彼女に想いを寄せ続け、彼女も憎からず想ってくれている。その事実だけが、ディガンマにとっては必要なことだった。

「これは……ああ、待ってください、言わないでくださいね。当てたいのです」

「分かった」

 カルディアは生まれつき目が見えないが、そのために手の感触や音、周囲の気配などである程度身の回りのことを一人でこなすことができるようになったという。

 だがディガンマが持ってくる異国の土産は、彼女にとって未知のものであることが多い。それでも先んじて答えを聞くより、手で触りながら想像するのが楽しいらしい。だからディガンマも、彼女がそうして想像するのを待つことにしていた。

 ディガンマは袋から土産を取り出して、手の上にそっと乗せてやる。そして、勝手に椅子を引いて腰を下ろした。頬杖をつきながら、真剣な顔でカルディアが手の中のものを触っている姿を眺める。知らず知らずのうちに、ディガンマの口元は緩んで弧を描いていた。

「硬くて……つるりとしていますね……形は……円柱? いえ……上の方は小さくなっていて……あら? これは……コルクの栓、かしら?」

 白くて細い白魚のような手が、つるりとした硝子ガラスの表面を滑っていく。ディガンマはつい、視線でその手の動きを追っていた。

 表面を撫で回す白い指先が少し窄まった先端に差し掛かったとき、困惑したように手が止まり、そうして。

「もしかして、瓶、ですか?」

「ああ。そうだ」

 正解した喜びからか、カルディアが顔を輝かる。自然、ディガンマの声音も和らいだ。

 彼女の手の中から小瓶を取り上げて、コルク栓を引き抜き、中身を彼女の手の中に一つ出してやる。

「これは?」

「飴だ」

 促すと、何の躊躇ちゅうちょもなく口に運ぶ。疑う理由がなくなるだけの時間を過ごしてきたということだが、それでもディガンマにとってはほんの少し、その信頼がくすぐったい。

「甘い……」

「置いていくから、食べてくれ」

 白い頬がふわりと赤くほてる。微笑ましくそれを眺めながら、ディガンマは海の向こうの話をする。

 時間が許す限り、彼女が見ることのできない世界の話を聞かせるのだ。特に、いつか彼女が見たいと言った、海の話を。

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