2.残った煤すら風に散り

 炎がぜる音がする。終わりというものはこんなにもあっさりとやってくるものかと、そんなことを思ってしまうほどには、抵抗らしい抵抗もできないままに蹂躙じゅうりんされたという自覚はあった。

 女神フォティアの死から、二十五年あまり。女神がいなくなったとて、一族がすぐに滅びるということはない。だからこそフォティアの一族はそれまでと変わらずに穏やかな日々を送り、女神に感謝を捧げ、いなくなろうとも神殿に捧げものをして生活をしてきた。

 けれど、終わりは唐突にやってくる。続いていくはずだった日々はその連鎖を断たれ、『フォティア』という存在そのものは今まさに消え去ろうとしている。

 かまどの火はいつか消えるもの。ただそれを眺めていたとて、火を守り続けられるわけではない。

「コキネリ様」

 名を呼ばれて、振り返った。手はきちんと繋がれていて、彼女は後ろをついてくる。

 ともかく彼女だけでもこの滅亡から逃してやらなければならない。それだけが今、コキネリにできる最善と言える行動だった。

 炎に照らされて、太陽の金色が輝いている。燃え尽きた灰にも似た白っぽい灰色のコキネリの髪の色とは違うそれを美しいなと思ったのは、ただの現実逃避だろうか。

「……マヴリ、ごめんな。こんな、俺のところに嫁いだばかりに」

「いいえ、そのようなことは」

 二年前に、彼女はヘリオスからフォティアへとやってきた。まだ滅亡するなど分かるはずもなかったのだから当然と言えば当然だが、フォティアの血脈を繋ぐための政略のような婚姻だった。

 この土地には、神に加護を与えられた一族がいる。十三の神にそれぞれ加護を与えられた十三の一族は、神を奉じて神の領地を運営する責務を負った。それは身分の上下というものを生み出すものではあったが、上に立つのならば上に立つなりの義務がある。血脈を繋ぐというのもまた、その義務のひとつだ。

 それでもコキネリはマヴリを尊重したし、マヴリもまたそれは同じであったように思う。どうにもフォティアの一族というのは他の一族に比べてものんびりとした気質らしいが、マヴリにとってはそれも良かったのかもしれない。

 ただ、こんなことになるとは思っていなかった。

 二十五年前にアルニオンがフォティアを殺したというのは人々が噂するところではある。それでもフォティアの一族から女神の加護が消えたわけでもなく、けれど徐々に弱まっていくそれに「確かに女神はもういないのだ」と人々が判断したのは間違いない。

「ともかく、君だけでも逃がさないと……君は、ヘリオスだ。アルニオンの兵も俺と一緒にいなければ君を探し出そうとはしないはずだから」

 十三の領地は、ときに手を組み、ときに反目し、争い、それを繰り返してきた。その中にあってフォティアは自ら争うようなこともなく、兵を率いてどこかに攻め込むようなこともない。ただヘリオスとアルニオンとに挟まれた狭い土地で、細々と生きてきたようなものなのだ。

 だからこうして突如アルニオンが攻めてきて、フォティアはなすすべもなく蹂躙じゅうりんされた。コキネリの弟も、親類も、みんなみんなアルニオンの兵の手にかかった。きっと彼らは最後のひとり、当主であるコキネリを探していることだろう。

 屋敷の隠し通路を抜けて、アルニオンではなくヘリオスとの境の方へ。

 ついとコキネリは、柔らかな炎にも似た橙色の瞳を森の方へと滑らせる。

「ごめん、歩かせて。大丈夫か?」

「大丈夫です。それより、コキネリ様は、一緒には……」

「俺は、行けない」

 彼女のことばに、首を横に振る。

 コキネリが逃げれば、アルニオンはおそらく躍起やっきになってコキネリを探すだろう。どうして女神を殺してから二十五年も経った今、アルニオンがフォティアに攻め込んできたのかは分からない。とはいえ二十五年など神にとっては一瞬なのだから、人間の感覚では二十五年も経ってと思っていても、神にとってはフォティアを殺したのは昨日のことに等しいのだろう。

 まだ、足音は聞こえない。少し休もうかとマヴリに声をかけて、コキネリは彼女を平たい石のところに座るよう促した。何か布でも敷いてやれれば良かったのかもしれないが、生憎とそんなものは持ち合わせていない。

 マヴリが、まだ膨れていない腹に触れている。つい先日そこに命が宿ったことを喜んだばかりだったというのに、神というのは理不尽だ。フォティアがいれば、何かが違ったのだろうか。そんなことを思ったところで、コキネリが生まれるより前に殺された女神が戻ってくるはずもない。

 そっと、コキネリも彼女の手に自分の手を重ねるようにして、その腹に触れる。触れても分からないものの、そこには確かに命があるのだ。このことがアルニオンに露見すれば、マヴリ諸共に殺されてしまうのだろうか。

 この子に加護があるかは、分からない。それでも、加護があろうとなかろうと、コキネリの子であることに変わりはないのだ。

 いっそ、加護がなければ良い。あるいは、マヴリと同じようにヘリオスの加護があれば良い。そうすればフォティアは完全に断絶してしまうが、それでもその子が理不尽に殺されてしまうことはない。

「この子の顔が、見たかったな」

「それならば一緒に……」

「駄目だよ。そうすればアルニオンは、俺を探す。そうなった時、俺はマヴリも、この子も守ってやれない」

 アルニオンの目的がフォティアを滅ぼすことであるのならば、フォティアの一族はことごとく殺されることだろう。アルニオンというのは酩酊と享楽、そして敵と見做したものに容赦はない。

 フォティアの一族には、アルニオンを押し返せるほどの力はなかった。攻めてくるものをすべて打ち砕いて守ろうと思うのならば、それはエクスロスにしか無理な話だろう。攻めてくるものに対して策略で対抗して阻止しようと思うのならば、それはディアノイアにしか無理な話だろう。

 エクスロスとディアノイアは戦いの神で、彼らであれば滅ぼされることはなかったのだろうか。フォティアは対抗することもできず、こうして今まさに滅びようとしている。

「ありがとう、俺のところに嫁いできてくれて。俺の幸福は、君のところにあった」

 彼女の両手を取って黒い目をじっと見つめて告げれば、その目は潤んでいた。

 コキネリはきっと、良い夫ではなかっただろう。強いわけでもなく、賢いわけでもなく、ただ火の扱いが得意なだけの、凡庸ぼんような男だ。こんな自分には勿体ないほどの美しい彼女を見て、本当に自分で良かったのかと自問自答したことは一度や二度ではない。

 それでもマヴリは、コキネリの隣にいてくれた。結婚していても他の男と関係を持つことも少なくない中にあって、彼女は他の誰かになびくようなことはなかった。

「お願いだ、君は幸せでいて。どうか、俺を追わないで。その子と生きて。俺を忘れていい、他の誰かと幸せになってもいい。何でも良いから、君は生きていて。俺の幸福全部、

 これがどれほど残酷なことばなのかは、コキネリとて分かっている。けれどこうでも言わなければ、マヴリが自分を追ってきてしまうような気がした。

 行こうと彼女を立ち上がらせて、また手を繋いだ。この手を離すときが最後、それが彼女との永遠の別れになる。

 分かっていたからこそ、離れがたかった。けれどそれは追手に彼女を見られるということでもある。だからヘリオスとの境でコキネリは彼女の手を離して、行くように促した。

「ありがとう、マヴリ。どうかその子を、愛してやってくれ。もしもその子がフォティアだったとしても、何もしないでいい。フォティアは滅ぶ、それでいい。復権する必要もない、ただ君の子として、穏やかな人生を与えてやって欲しいんだ」

 自分がフォティアだなどと、名乗り出るようなことはしなくていい。それはただいたずらに、争いの中に身を置くことになるだけだ。

 それならば何の一族でもないただの一人の人間として、生きて死んでくれた方が良いのだ。

 にわかに騒がしい声がした。まだ何か言いたげなマヴリに背を向けて、その騒がしさの方へと駆けていく。

 葡萄酒ぶどうしゅのにおいがした。酩酊めいてい享楽きょうらくのアルニオン、もしや神もその中に紛れているのだろうか。なぜこのようなことをしたのかと、神に問うなど無駄なこと。神の考えなど、人間の理解の範疇はんちゅうにはないのだから。

「コキネリ・フォティアならここにいる! 俺の首が欲しいのなら来ると良い、一番先に俺のところに辿り着いたものにくれてやる!」

 声を張り上げて、名乗りを上げた。

 抵抗など、コキネリにできるはずもない。剣を扱うことはできる、女神の加護で火を操ることはできる。けれどそれは、本当にただできるだけであって、大勢を目の前にして、それすべて打ち倒して前に進んでいけるようなものではない。


 かくして、コキネリ・フォティアの首は落ちる。

 ここに――フォティアの一族は、滅亡を迎えたのである。


 


 ※  ※  ※


 この土地には、十三の神がいた。


 天空と雷の神たるエクスーシア。

 結婚と母性の女神たるマカリオス。

 智恵と戦略の女神たるディアノイア。

 預言と芸術と医療と太陽の神たるヘリオス。

 愛と美の女神たるシュガテール。

 戦いと厄災の神たるエクスロス。

 狩猟と森林と月の女神たるニュクス。

 農耕と大地の女神たるアグロス。

 鍛冶と鉱山の神たるデュナミス。

 海洋と塩の神たるヒュドール。

 と家庭の女神たるフォティア。

 豊穣ほうじょう酩酊めいていの神たるアルニオン。

 商業と盗賊と伝令の神たるクレプト。


 フォティアはアルニオンによって打ち滅ぼされた。またフォティアの一族は、アルニオンに攻め込まれたことにより、断絶した。

 そしてフォティアの領地はすべて、アルニオンの支配する土地になった。


 そして歴史書はこう書き変わる――この土地には、、と。

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