5-2.蜃気楼の狭間の巨大な角
デュナミスの領地は、その大半を岩山が占めている。これが北のエクスロス、さらに北のクレプトと北へ進むほどに平地にはなっていくものの、エクスロスは火山帯であるし、クレプトは広大な砂地と荒野だ。十三の、今は十二の領地の中にあってデュナミス、エクスロス、クレプト、この三領は食糧生産の面ではかなり厳しい土地と言えるだろう。
それでもデュナミスは鍛冶という産業が、エクスロスは武という特性があるからか、まだましと言える。もっとも北にあるクレプトなど特筆するような産業もなく、
岩場ばかりのデュナミスの領地において大きな都市は、アンティカトとプトリスモスという。二つをあわせて
「ラーグヌムコルム、どう、しよう……」
聳え立つ岩山を見上げて隣の大きな山羊に声をかければ、大層立派な角をした
その名の通り『
あの子山羊はラーグヌムコルムの子供ではないが、群れの一匹ではある。
「フィリラ! こんなとこにいたのか」
「あ……ダウロスお兄様……」
声と共にフィリラの隣に影が差し、ひらりとダウロスが馬上から飛び降りてくる。気性の荒い彼の馬はそれが気に喰わなかったのが鼻息を荒くしていたが、フィリラの隣にいたラーグヌムコルムがそれを馬鹿にするようにひとつ鳴いた。
どうどうとダウロスが愛馬に声をかけている。
「山羊小屋に行ったらいなかったから、探しに来た」
「あ、ご、ごめんなさい、お兄様。その、あの子が降りられなくなったと、ラーグヌムコルムが教えてくれて」
「ああ違う、大丈夫だ。怒ってるわけじゃない」
「それは、知っています……ダウロスお兄様がお優しいのは、重々」
何を自分は言っているのだろうかと、徐々にフィリラの声は小さくなっていく。それと同時にどうしようもなく情けなくなって、フィリラの頭はどんどん下を向いてしまった。
ぽんぽんと頭を撫でる手がある。六つ年上の従兄であるダウロスは、いつだってフィリラに優しい。
「子山羊か」
「はい。あのままだと、落ちてしまいます。群れの子なので、ラーグヌムコルムが心配を、していて」
「こいつが?」
ダウロスの目がラーグヌムコルムを見た。雄山羊は鼻を鳴らして、そのままぴょんと飛ぶようにしてフィリラとダウロスから距離を取る。
そして何を思ったか、蹄で地面をかいて駆け出した。
「うわっ」
勢いよく突進してきたラーグヌムコルムの頭が、ダウロスの腹に激突する。それでも加減をしているのだろう、ダウロスに角が突き刺さることも、ダウロスが吹き飛ぶようなこともない。
「あ、だ、駄目です、ラーグヌムコルム。どうしていつも、お兄様に突進するんですか」
慌ててその背を撫でてやれば、やはりラーグヌムコルムは鼻を鳴らす。そしてそのまま足取りも軽くフィリラのところへ戻って来て、首を伸ばしてべろりとフィリラの頬を舐めた。
「ひゃっ、く、くすぐったいです、ひゃあっ! ね、ラーグ、駄目、駄目、べたべたに、なっちゃうから、ひゃう!」
「おいこら、山羊。
ざらざらとした舌で頬がべたべたになったところで、ひょいとダウロスに抱き上げられてラーグヌムコルムから引き離された。ごしごしとフィリラの頬を服のポケットから引っ張り出した布で拭いたダウロスが、物騒なことをラーグヌムコルムに告げる。
ただそんな
「まったく、油断も隙もないな」
「ごめんなさい、お兄様」
「ああ違う、フィリラじゃないよ。あのクソ山羊に言っただけだ」
自分のことだと理解したラーグヌムコルムが、べえ、と鳴いた。
気を取り直してまた岩山の上を見れば、やはり子山羊は楽しそうにぴょんぴょんと跳ねている。ただそこから移動することはできないのか、その場で跳ねているだけだ。
一体どこから上ったのかは分からないが、体が小さい分乗れる場所はあったのだろう。ただ降りることができなくなっているようで、岩山の出っ張りの崩れかけた場所から動こうとしない。
がらりと岩が砕けて落ちる音がした。先ほどまでのからからという小さな音から一変して大きくなった音に、子山羊が驚いて身を跳ねさせる。その拍子にずるりと子山羊の蹄が岩山の上で滑った。
「危ない!」
一際大きな声でラーグヌムコルムも鳴く。フィリラが駆け出すよりも先にダウロスが駆け出し、岩山の上から落下してきた小さな白い子山羊が地面にぶつかる前に、その腕の中にすっぽりと収めるようにして抱え込んだ。
特に体がぐらつくこともなく、ダウロスは平然としている。ふわふわとした毛の子山羊を
「ありがとう、ございます。ダウロスお兄様」
「どういたしまして……まったく。危ないことするんじゃねえよ、お前も」
ダウロスの腕の中にいる子山羊は満足そうにめえと甲高く鳴いていて、ちっとも反省しているような様子はなかった。むしろちょっと楽しく遊んでいただけ、きっと子山羊にとってはそんな程度のものだろう。
地面の上におろされた子山羊は一度だけ振り返ったものの、とことこと足取りも軽く駆けていく。その後ろを追うようにして、ラーグヌムコルムも駆け出した。
「そういえば、お兄様……あ、いえ……」
「どうした?」
じっと、ダウロスの顔を見てみる。彼の顔は常と変わらないように見えるが、彼についてフィリラが知らないことをそっとケリーに耳打ちされた。それが本当なのかどうか、確認するのは少しばかり怖い。
「フィリ?」
何も言わないでいると、促すようにダウロスがフィリラの愛称を呼んだ。昔はずっとそれで呼ばれていたような気がするが、最近のダウロスはフィリラを「フィリラ」と呼ぶ。少しばかり距離を置かれたような気がしたのは、やはりケリーに言われたことが引っかかっているからなのか。
別に何も、珍しい話ではないのだ。むしろ、貴族ならばごくごく当たり前かもしれない。
「……ケリーお兄様が、その……ダウロスお兄様が、あの、友人と、一緒に……とっかえひっかえして、大層、遊んでいる、と」
「はあ?」
「ですから、その、無理に、私のところに、来ていただかなくとも……」
自分で言ってしまうのもどうかという話だが、フィリラは平凡だ。鼻は高くも低くもないし、なんというか鏡を見ても凡庸ということばしか出てこない顔立ちだった。姉のセラスや従姉であるシンネフィアと並べば途端に霞んでしまうし、並んでいてもきっと血縁者だとは思われないだろう。
そう考えればやはり、山羊と
そんな後ろ向きな気持ちになって俯きかかったフィリラの肩を、ダウロスが掴む。
「嘘だから」
「え」
「嘘だから。ケリーの野郎、何言ってやがる。いやそもそも、エマのせいかクソが」
ダウロスはひどく真剣な顔をしていて、フィリラはついこくこくと何度も頷いてしまった。特にフィリラが責められているというわけではないはずだったが、圧力は物凄かった。
ぱっとフィリラの肩から手を離したダウロスが、
「山羊小屋に行くか?」
「はい、そうします。あの、ダウロスお兄様は、今日は」
「今日は別に……」
何もない、と言いかけたらしいダウロスのことばを遮るように、岩場を駆ける馬の蹄の音が聞こえた。ダウロスの馬ほど大きくも荒くもない馬の上で、使用人が息を切らせていた。
何か緊急の用事だろうかと、フィリラは思わずダウロスと顔を見合わせる。
「ダウロス様、ここにいらっしゃいましたか!」
「何だ? あ……やっべ、エマ」
思い当たるところがあったのか、ダウロスが少しばかり面倒くさそうな顔になった。
「エマティノス・エクスロス様がいらしています」
「待たせとけばいいだろ、あいつなら」
その名前はフィリラも知っている。ダウロスの友人であり、そして、デュナミスの北にあるエクスロスの領地に住まう、エクスロスの一族を率いる当主だ。フィリラはきちんと対面したことがないが、エクスロスというだけで少しばかり恐怖はある。
エクスロスは戦神を奉じる一族であり、その髪は炎か血のように赤く、目は獣のような黄金色をしている。と、そんな風に恐ろし気に語られるのがエクスロスだ。
「だ、駄目ですよ、お兄様。お客様……」
「今代理でシンネフィア様が対応してくださっておりますので、お戻りください!」
「姉さんが?」
それはまずいと、ダウロスが舌打ちをする。すまないと告げたダウロスに首を横に振って、どうぞ行ってくださいとその背を押した。
ダウロスが自分の馬に飛び乗って、使用人と共に駆けていく。それを見送ったフィリラの隣にはいつの間にかラーグヌムコルムが戻ってきて、べえめえと楽しそうに鳴いていた。
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