1-8.煮える腹の底

 サラッサをエンケパロスへの抗議という名目でエクスロスへ送り出して、しばらく。クリュドニオンは常と変わらず、つまり外へも出られず当然船にも乗れず、書類とにらみ合いを続けていた。ただし執務室の中には、すっかり日常に入り込んだというには異質すぎるものが未だにある。

 クリュドニオンが書類とにらみ合っている机の向こう、普段はサラッサが使っている机の上はすっかり片付けられていて、そこをティグリスが占領していた。といっても別に、彼はクリュドニオンの仕事を手伝っているとかそういうわけでは断じてない。

 そもそもティグリスにヒュドールの領地に必要な書類を見せるわけにもいかないのだ。ただここに彼がいるのはクリュドニオンからの信頼があること、それだけでしかない。彼はクレプトの領地に住んでいる平民――というには少しばかり立場が特殊ではあるが、とにかく貴族でないことだけは確かだ。そして更に言えば、出身地はここより東の砂漠地帯である。ではそこでどのような立場なのか問えば、苦虫をみ潰したような顔で黙り込んだので、クリュドニオンはそれ以上の追求をすることはやめておいた。

「そんなに熱心に何を書いているんだ、恋文か?」

「馬鹿かお前は」

「なんだ、つまらないな」

 冷たい目でティグリスに見られ、クリュドニオンはわざとらしく肩をすくめてみせた。

 とは言っても、そうではないことくらい最初から分かっていることだ。何せ手紙を書いている顔がひどく忌々しそうなのだから、到底そんな甘やかなものであるはずもない。

「ルスキニアに手紙か」

「そうだ」

 羽ペンを置いて、ティグリスは書き終えた手紙に息を吹きかけている。しばらくしてインクが乾いたのか、それを端と端がずれないようにして折りたたむ。

 それから彼は封筒に入れるわけでもなく、そのままずるりと手紙を影の中へと突っ込んだ。

 影以外は何もないそこに手が突っ込まれているその光景は、何度見てもクリュドニオンには慣れないものだ。彼らはそれをと呼んでいたが、それはきっとクリュドニオンが認識している、それこそクリュドニオンがヒュドールから与えられているような性質のものとはまた違うだろう。

 少なくともクリュドニオンには、そんな芸当はできない。もしかするとニュクスの一族ならばできたのかもしれないが、今となってはこの辺りの土地でそういったことができる人間など稀なのだ。かつてはヒュドールの一族も水を操ることができたと伝わるが、クリュドニオンはもうどれだけ頑張ったところで、水面にさざなみひとつ立てられない。

「その方法ならエンケパロスも邪魔できないもんな」

「どうだか」

 影から影へ、一体どのような仕組みになっているのか。ティグリスに以前興味本位で聞いてみたことはあるのだが、その説明は小難しくて、そしてクリュドニオンには馴染みがなさすぎるものということもあって、半分くらいしか理解はできなかった。

 ともかく、これならば人を介することもなくルスキニアに直接手紙を渡すことはできる。どれだけエンケパロスが彼女とティグリスを会わせることを拒否していようとも、手紙のやり取りまでは邪魔できない。

 そう思ってのことばであったのだが、ティグリスの返答は芳しいものではなかった。

「あの男は得体が知れない」

「顔面が動かないだけだろ?」

「表面上は、な」

 クリュドニオンは別段、エンケパロスと親しいわけでもない。当主という立場から顔を合わせることはあっても、個人的に会話をするようなこともない。ただいつも表情ひとつ変えない男だなと、そう思うだけだ。

 だからこそ、エンケパロスがティグリスの妹に執心していると聞かされたときには、耳を疑ったものである。そんな男を執心させるとはお前の妹はどんなだ、という発言から、ティグリスがルスキニアを連れてきたというのも記憶に新しい。

「そういえば、エイデスがエンケパロスと親しかった気がするな」

 二人で会話をしているところを見たことはないが、エイデスは時折クレプトの領地にまで出かけていっている。親しいというのは聞いた話でしかないのでエイデスの主観なのだろうが、そういったところをあの甥が間違えるとも思えない。

 本当にあの兄の子供なのかと疑わしくなるくらいにでは、ディガンマとエイデスは兄とは性格が違う。どちらかといえばサラッサの方がそれは納得ができるのだ。かといって別にそれは疑いを持つようなことではなく、きっと母に似たのだろうと、そんなことをクリュドニオンがぼんやりと思うだけのことでしかないけれど。

「あの男と親しいとか、お前の甥はどうなっているんだ」

「そんなことを俺に言われても」

 実際にどんな話をするのかとか、どのような親しさであるのか、そんなことを今更成人している甥に聞くようなものでもない。だから、詳しいことなど知るはずもなかった。

「エイデスにそれとなく聞いてみるかな。そもそもエンケパロスがしでかしたことをエイデスが知っているかどうか、俺も知らないが」

「別にそんなことはしなくて良いんだが」

「当主として干渉するとかそういうわけじゃない。友人の妹が関わっているから、甥に私的に聞いてみた。それだけだ」

「うまい建前を思い付くものだな」

「賢いと言え、賢いと」

「はいはい、かしこいかしこい」

 ずいぶんと投げ遣りな返答ではあったが、別に本当に賢いと思って欲しいとか、そういうものでもない。これもまた、親しさだ。ではエイデスはエンケパロスとこういう会話をしたりするのだろうか。どうにもエイデスはともかくとして、エンケパロスが誰かと親し気な口をきくというのが想像できない。

 ただ聞いてみないよりは、聞いてみて分かることもあるだろう。ティグリスもヒュドールの領地でいつまでもくだをまいているわけにはいかないだろうし、彼は立場上エンケパロスとはどうしても顔を合わせることになる。いつまでも腹の底を煮えたぎらせておくくらいなら、使えるものは使った方が健全だろう。

「でもお前、本当にどうするつもりだ? 手紙だけ出して、向こうの動きを待つか?」

「まさか。そもそもルスキニアが自発的に動けるはずがないだろう。あいつはエンケパロスに強く言われたら否とは言えん」

 身分が。立場が。それから感情が。

 そういうものがどうにも複雑だ。クリュドニオンとて当主にならなければとなったときに、海を捨てるしかなかった。何かを手にするということは、権力を手に入れるということは、そういうことなのかもしれない。

 この立場であるから、一生手に入らないものがある。ちゃぷんと水の音がしたのは、シャッラールナバートだろうか。彼女はちょっと疲れたから寝ると言ってすっかり黙り込んでしまっている。

 悪魔も、土地から遠く離れてしまえば、不調をきたしたりするものか。

「非常にしゃくだが、別に僕は妹が誰を好きだろうが否定する気はないからな」

「ふうん? じゃあ何に腹を立てているんだ。扱いか?」

「その通りだ。僕は妹を愛人なんて立場にしておくことを好き合っているのだからと許容できるほど、心が広くない。あの様子だと一生誰にも見せず、外にも出さずに囲っておくつもりだろう、あの男。僕の妹は鳥じゃない。あの男にとっては人も鳥も似たようなものかもしれないがな」

 エンケパロスはルスキニアを愛人にしたという。彼女を妻という立場に置かなかった理由などクリュドニオンに分かるはずもないが、正式に妻にするときちんと礼を尽くしたのならば、ティグリスもここまで腹を立てなかっただろうか。確かに彼はエンケパロスとルスキニアの関係性自体に反対はしていないのだ。

 ただこれまで散々に、そのつもりがないのなら止めてくれと、手元に置いておきたいのなら手順を踏めと、そいうことを言い続けてきたはずだ。

 籠の鳥。

「鳥、ね……」

 自由に空を飛び回れない鳥は、不幸だろうか。ただ籠の中でさえずることは幸福だろうか。

 そんなことをクリュドニオンが考えたところで、分かるはずもないけれど。

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