2-1.ご縁があれば

 見慣れない髪の色だなと、そう思って観察をしていただけだった。赤がエクスロスの色であるという認識はあっても、シュガテールの領地とエクスロスの領地は隣接していると言っても山を挟んだ向こう側で、別に近しいわけでもない。シュガテールはエクスロスの愛人であったという神話はあれど、かといって今一族同士が親しいというわけではなく、おそらく婚姻関係もかなり遡らなければ存在しないだろう。

 つまりイーリスにとってエクスロスの一族というのは、聞いたことはあるけれど見たことはない、そういうものだったのである。とはいえイーリスにとっては他のどの一族も、エクスロスの一族と大差はないけれど。

 さすがに気付かれたのに木の上にずっといるというのも失礼かと思って、呼ばれるままに飛び降りた。アマルティエス・エクスロスと名乗ったその人物は、イーリスが見上げなければならないほどに背が高く、おそらく父であるパトリオティスと大して変わらないだろう。

 残念なことに、父も母も長身であるのに、何なら叔父も長身の部類であるのに、イーリスの身長はあまり高くならずに止まってしまった。それはそれで身軽であるので、文句をつけるつもりはない。

 林檎りんごを見たことがないというアマルティエスに、林檎りんごを差し出したまでは良かった。そこで指までまれて驚いて、短剣を抜いて突き付けてしまった。

「元気だな、お前」

 アマルティエスはイーリスが突き付けた短剣など気にした様子もなく、からりと笑っていた。エクスロスの一族というのは武の神を奉じるだけあって、領地同士の小競り合いに戦争にとよく参加している。だからこそというのか、イーリスの突き付けたものなど彼にはさしたる脅威でもなかったのかもしれない。

「何のおつもりですか、アマルティエス殿?」

「事故だ、事故。悪かったよ」

 溜息を吐いてから、短剣を収める。

 クリスタロスのせいで過敏かびんになっているというのは、言い訳だろうか。ただどうにもクリスタロスのせいで、イーリスはそういう接触というものがすっかり苦手になってしまっていた。別に誰かとべたべたとくっつきたいとかそういうわけでもないので、それはそれで構いはしない。

 ただアマルティエスがまったく気にした様子がないというのも、イーリスに罪悪感を抱かせるものではあるのだ。これで「何をする」と怒りでもしてくれれば、イーリスとて文句を言えたというのに。

「そうですか」

 だから何となくばつの悪い気持ちのまま、謝罪もせずに呑み込んだ。本当ならば突き付けたことを謝罪すべきなのだろうが、どうしてだかそれをしたくない気持ちもあった。

 何なのだろうか、この違和感にも似たものは。近付いてはならないと警鐘が鳴るような、それでも苦しいような、わけの分からないものは。

「アマルティエスって長いだろ、ディーって呼べば良い」

「お断りします」

「そうか……まあ、それもそうだな。初対面だしな」

「そうですね」

 イーリスとしては、それで終わりのつもりだった。アマルティエスを見ていると、どうにも落ち着かない。頭のどこかが冷えるというか、逃げろと命じられているというか、そういうわけの分からない感覚に囚われる。

 死にたくないと、声がした。見付かってしまうと、誰かが叫んだ。

 けれどイーリスの足はその場に縫い留められたかのように一歩も動かせず、結局話題を何かと引っ張り出してくるアマルティエスとその場でしばし話をしたのだった。

 と、いうのが数日前の話である。

「手紙、ですか……」

「そうそう、手紙。イーリス宛に、アマルティエス・エクスロスから。まさかサラッサ・ヒュドールが持ってくるとは思わなかったけど」

 目の前で優雅という二文字が最もふさわしい仕草で茶を飲んでいるフィオスが、カップを置いてからにっこりと笑った。相変わらずのきらきらしい美貌は、毎日見ていて慣れるのかというとそうでもない。毎日のように眩しいなあとそんなことを思うのは、一体いつから始まったことだろう。

 サラッサ・ヒュドールという人物をイーリスは知らないが、その名前からして当然ヒュドールの一族だろう。エクスロスの一族であるアマルティエスからの手紙をヒュドールの一族であるサラッサが運んでくるというのがどうにもよく分からない状況だが、何か用事のついでとか、そういうことでもあったのだろうか。

「封が開いておりますが」

 渡された手紙の宛名は、間違いなくイーリスになっている。

 読めないほどの悪筆ではない。ただ嫌味なほどに整ったパトリオティスの文字を見慣れたイーリスにしてみれば、非常に雑である、という評価にならざるを得ないというのも事実だった。

 ただそれよりも問題なのは、宛名の文字ではない。間違いなく個人的な手紙であるのに、明らかに開封後であるという事実だ。

「うん、見たからね!」

 満面の笑みを浮かべたフィオスには、悪びれた様子はない。

「叔父上」

「俺じゃないよ! 見るって言ったのはパトリオティスだから!」

「父様が犯人でしたか……」

「うん。俺も見たけど」

 とはいえ別に、イーリスは彼らを責めるつもりはないのだ。平民ならばいざ知らず、シュガテールの名を冠する一族に連なるものとして、フィオスとパトリオティスの対応は当然ともいえる――パトリオティスの家名がエクスーシアであるというところはさておいて。

 パトリオティスは父親であるし、フィオスは当主だ。当然妙な手紙ではないかを確かめる義務がある。

「検分してくださったのでしょう、ありがとうございます」

 そうしてイーリスが微笑めば、どうしてかフィオスはがっくりと肩を落とした。感情の起伏はいつものこととは言え、笑ったり落ち込んだりと忙しいものだ。

 べったりと頬を机につけるのを見越して、イーリスはフィオスの前にあったカップとソーサーをそっと自分の方へと引いた。案の定フィオスが、その通りにする。

「あー、やだ。やっぱりやだ! パトリオティスには言われてるけどやっぱりやだ!」

「叔父上?」

「なんでもなーい、なんでもないよー。ただこう俺の美意識がね、ちょっと暴れるっていうか」

「叔父上は今日もお綺麗ですが」

「それはもちろん! ってそうじゃなくてね!」

 がばりと起き上がったフィオスが、イーリスの顔を見る。どうかしただろうかと首を傾げてみれば、今度はフィオスが深々と溜息ためいきいた。

 やはり今日も、叔父の感情は忙しいらしい。その原因はイーリスか、それともこの手紙なのか。

「あーあ、イーリスはこんなに可愛いのに。可愛いのに何であんな筋肉……」

 きんにく、と口の中で転がしてみた。

 確かにアマルティエスはがっしりとした体つきをしていて、フィオスやパトリオティスよりも筋骨隆々という表現が相応しい体躯ではあったと思う。とはいえ、フィオスから何か不興を買うほどの交流があったとも思えない。

 エクスロスの当主はアマルティエスという名前ではなく、エマティノスという名前だ。それくらいのことは、イーリスとて知っている。そしてアマルティエスがエマティノスの異母弟であるということも。

「読まなくていいし、返事も出さなくてもいいよ!」

「そういうわけにはいかないと思うのですが」

「俺、イーリスのそういう律儀なところ、良いと思うよ……」

 また、フィオスは机にべったりと頬をつけていた。

 封筒の中から手紙を取り出して、上から下まできっちりと読む。挨拶、林檎りんごのお礼、それから。それから――これは何と形容すべきなのだろう。口説いているというほどのものではなく、かといって何もないわけでもなく、つまり大変に、というのが正しいだろう。

 出そうになった溜息を呑み込んで、相変わらず溶けるようにしているフィオスを見てから、また手紙へと視線を落とした。この手紙への返事の仕方をフィオスに問いかけたところで、何も建設的なものは出てこないだろう。だからどう返事をするのかは、イーリスが考えなければならない。

 結局当たり障りのない内容を書いて、『ご縁があればまた会うこともあるでしょう』と、そんなどこか冷たい一文を書き添えるだけになってしまった。

 どうせシュガテールからエクスロスへの用件はなく、彼がここへ来ることも、イーリスがあちらへ行くこともない。ただ偶然行き会っただけ、それだけのことだ。

 だから、縁などない。ある意味でこれは『もう二度と会うこともないでしょう』ということばと同義であったかと気付いたのは、手紙に封をして、アマルティエスへ届けてくれるよう人に申し付けてからのことであった。

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