2-2.獣の記録

 好きにしてくれていいからさ、と、|刈萱を喚び出したらしい空色の髪の男が言った。目の前の彼らに見覚えがあるかどうかと言われると、刈萱は「ない」としか返答のしようがない。刈萱としては、「ない」のだ。たとえ記録の中に、既視感があるのだとしても。

 ただ、そのにおいが、土地が、刈萱が刈萱として記憶しているものの中にあるものと酷似していて、刈萱はつい目の前の男に聞いてしまったのだ。目の前の男がそのことばを知っているかも分からないまま――「今は総暦何年か」、と。

「今? 今はねぇ、総暦八四一年だよ」

 満足げに男が笑っている。

 やはりその顔には、既視感があるのだ。記憶ではなく、記録の中に引っかかる。この記憶は刈萱のものではなく、刈萱が刈萱になる前のもの。いつかどこかで野垂れ死んだ、獣のものだろう。

 どこまでもこの土地に縁があるのか。それとも縁があるのは、土地ではなく他の誰かか。まさかその誰かが、目の前の男だということはないだろう。

「総暦、八四一年……」

 男のことばを信用していないわけではない。ただこの千年近い時間を戻ってしまったということは、一体何があるのだろう。この男に喚ばれたのが、今の刈萱である理由は何なのか。

 条件が揃わなければ、時間も距離も無視して人間をひとり喚び出すことなどできるはずがない。ならばその条件は、何なのか。別に今の刈萱でなくとも、もっと過去の時間でも、未来の時間でも、刈萱が存在しているのならば喚び出せてもおかしくはないのだ。けれど、なぜ、刈萱なのか。

 この疑問を投げたところで、目の前の男も答えられはしないだろう。男が刈萱を指定して喚び出したわけでもなさそうなのは、その反応からして分かっている。そもそもこの時代にいる目の前の男が、刈萱という存在を知ることができるはずもない。

 何せこの時代ではまだ、刈萱は存在をしていないのだ。そして、刈萱に繋がる誰かも、この時代にはない。

「僕はパトリオティス・イラ・エクスーシア。君は?」

「俺は……」

 ききょう、かるかや、われもかうこう

 生まれ落ちて付けられた名はあれど、本当の名前を口にすることははばかられた。どのような名前であってもきっと歴史の中に消えていくだろうが、万が一にも伝わったとして、それが本当の名前であっては困る。刈萱という名前は把握しきれていないが、本当の名前が歴史上にないことは把握していた。

 もしもここで本当の名を名乗って、もしも伝わってしまえば。そうなれば、歴史はどこまで歪むのだろう。そしてその歪みは、一体どこへ向かうのだろう。

「……刈萱、だ」

「ふうん?」

 パトリオティスの顔を見る。空色の髪、なるほど確かにエクスーシアの色をしている。

 ゆるりと目を閉じて思い出したのは、問いかけをした男。刈萱はかつて、この男を同じ髪の色をした王に、問いかけたことがある。自分の知る王というものから、あまりにもかけ離れた王であったが故に。

 けれどそんなものは、もうずいぶんと昔の話だ。そして、思い出して懐かしむような話でもなかった。

「貴方は、何のために俺を喚び出した?」

「さあ? 何だろうねぇ?」

 問いかけに、答えはない。パトリオティスはどこか刈萱を試すように笑っていて、かといって刈萱はそれに腹を立てるようなこともない。こういう人間を相手にするのは、刈萱はどこか慣れてしまったところはある。

 明確に何かあって喚んだわけではないのか、それともまだ刈萱という存在について判断をしかねているところがあるのか。ここで願いを口にされたところで、刈萱にどうにかしてやれるという保証もないけれど。

「しいて言うのなら、僕は味方が欲しかっただけなんだよねぇ。僕のことを味方をさ」

 彼の名乗った名前に覚えがないと言えば、嘘になる。そして目の前にいる彼は、歴史書にあったをまだ成し遂げてはいないのだろう。

 ならば、彼がこれからすることは。そして味方とは、つまり。

「君は誰かを裏切れるほど、器用そうでもないからねぇ。そういうことなんじゃない?」

 パトリオティスのことばを否定する材料を、刈萱は持っていなかった。

 自分が器用な性質たちだなどと、思ったことはない。むしろそうではないからこそ、こうしてずるずると生き続けているのだろう。

「それにきっと、君は僕に味方するさ。君が僕の思った通りの獣に、連なっているのならねぇ」

 獣。それは赤くて、びょうびょうと鳴くものだろうか。

 刈萱とてその記録を得たのはつい最近のことであるというのに、この男は何を知っているのだろう。その目を覗き込んだところで得体のしれない何かがあるだけで、引きずり込まれてしまうだけだ。

 だから、もうそれ以上の追求はやめておいた。どうせそんなものは、無意味なのだから。


  ※  ※  ※


 それから日は過ぎたが、パトリオティスは刈萱に何を要求するでもなかった。好きにしていいよと、初対面で言った通りのことを言われるだけで、結果刈萱は持て余した暇を読書で潰すことにした。書庫にある歴史書を積み上げて、読み耽る、それだけのこと。

 知っていることもある。けれど、知らなかったこともある。以前この土地に滞在したときにいた場所は、このシュガテールの領地とは異なる場所だ。当然ながら、残っていたものも違うのだろう。あの当時となっては戦火や災害で消失したものも、この時代ならば残っているものもある。

 机の上に何冊も分厚い本を積み上げて、それを順番に読んでいく。一日それをやったとて、積み上がった本のすべてを読むことはできない。だからこれは、ちょうどいい暇潰しなのだ。そして、刈萱の記録を補強するための作業でもある。

 けれど何冊読んでみても、獣についての記述はどこにもなかった。ここにないということは、パトリオティスはどこで獣について知ったのだろう。エクスーシアなら伝わっているとか、そういうことはあるのだろうか。けれどエクスーシアなど、あの獣には何一つとして縁がない。シュガテールならば辛うじて繋がっているものがあるのかもしれないが、それでも残っていないのだ、エクスーシアに残っているはずもないだろう。

「ああ、いたいた。今日もここにいたのか、飽きないねぇ」

「……飽きるとか飽きないとか、そういうものではないので」

 薄暗い書庫で、手近に置いたランプの灯がゆらりと揺れた。別に何もなくとも刈萱は読むのに支障があるわけでもないが、他人がいる手前、形式的に置いておいたにすぎない。

 ふうん、と呟いたパトリオティスが、刈萱が積み上げていた本の一冊を取り上げた。

「娘に手紙が届いてね」

「はあ」

 一体何の話かとパトリオティスを見てみれば、ぱらぱらと本のページを捲っている。

「僕としては万々歳なんだけど、娘は気がすすまないみたいで困っているんだよ」

「その話を俺にする意図は?」

「さあ? 何だろうねぇ」

 パトリオティスは刈萱の方を見ることもない。

 娘が気がすすまないと言うのならば、無理にすすめることもないのではないか。それが刈萱の本音だった。彼らの立場を考えれば政略結婚など当たり前にあるのだろうが、相性というものはある。

「君、相手の男に会ってみない?」

「何故、俺が?」

 娘の結婚相手を見定めるのならば、パトリオティスがすれば良いだろう。あるいはパトリオティスがその姓をエクスーシアとしていて、娘のシュガテールとは異なっているからというのであっても、それならばシュガテールの当主か、あるいは妻に頼めば良いだけの話だ。

 まったくもって、刈萱が相手の男に会ってみるということばの真意が見えない。

「気が向いたらで良いからさぁ」

「では、気が向いたら」

 ぱたりと本を閉じる音がした。パトリオティスはにんまりと笑っていて、刈萱の返答の一体どこがお気に召したのかはさっぱり分からない。

 さっぱり分からないが、彼が機嫌が良いということだけが、刈萱にも分かったことだった。

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