2-3.イーリス・シュガテール
パトリオティスとフィオスが手紙を見たことについて、イーリスは特に何か文句があるとか、そういうことは一切なかった。そもそも結婚相手は親や当主が決めるものだろうという認識であったし、両親とて政略が絡んでいなかったといえば嘘になると知っていた、というのもある。
ただ、今度のパトリオティスのことばについては、さすがにイーリスも我が耳を疑った。
「父様……今、何と?」
「だからぁ、僕も手紙を出しておいたよ、って」
悪びれた様子もないパトリオティスに対して、イーリスは
そもそもアマルティエスからの手紙は、家に対して何かを持ち掛けてくるようなものではない。もしもそうであったのならば差出人はアマルティエスではなかっただろうし、封もエクスロスの印があったはずだ。
あれは結婚の申し込みなどでもない。
「あれは父様が返事をしなければならない手紙ではなかったと思うのですが」
「そうかなぁ?」
「そうですよ……一体何と返事をしたんです」
自分の父親ではあるが、イーリスは手放しでパトリオティスを信用しているとは言えない。フィオスもそうではあるが、時折得体の知れない部分が顔を覗かせることがある。
それはおとなだからとか、当主だからとか、そういうことばでは片付けられない気がしていた。
「遊びにおいでって」
「はい?」
「だから、遊びにおいでって。ちょっと遠いけど、彼なら気にしないだろうし」
果たしてシュガテールの領地とエクスロスの領地の距離は、ちょっと、などということばで片付けていいものだろうか。少なくともイーリスは、ちょっとの距離だとは思えない。
そう言われて、アマルティエスは来るのだろうか。来たら来たでそれは面倒なことになりかねないと、イーリスとしては思うのだが。パトリオティスは一体何を考えて、アマルティエスを呼びつけたりするのだろう。
「イーリスは彼が気に入らなかったかい?」
「気に入るも入らないも、先日が初対面です。さして話をしたわけではありませんし……」
「でも、彼は気に入ったみたいだったけど?」
「それは私が母様に似ているからではないですか。クリスタロス・エクスーシアと同じなら、迷惑な話です」
自慢ではないが、イーリスの顔立ちは母であるアンドレイアに良く似ている。かといって性格がアンドレイアに似ているかと言われればそれは疑問でしかないのだが、少なくともフィオスが言うところの「求婚者が押し寄せた」らしい
だからこそクリスタロスに言い寄られることになったと思うと何とも言えないが、この顔立ちに惹かれたというのならば、アマルティエスも同じことだろう。クリスタロスなど、イーリスが短剣を手にしているだけで嫌そうな顔をするのだから、一体この顔にどんな幻想を抱いているのか。あるいはおとなしく、自分を飾る装飾品にでもなっておけということか。
思えばアマルティエスにも、短剣を向けてしまったのだった。アマルティエスは少し驚いた顔をしてはいたものの、嫌そうな顔はしていなかったとは思う。
そこまで考えて、首を横に振った。どうにも、あまり良い予感はしないのだ。アマルティエスを見ていると、どうしてだか嫌な感覚がする。寒気と言うべきなのか、あるいは忍び寄ってくる死の恐怖と言うべきか。
「それだけ?」
「……嫌な感じがするのです。信用ができない、ような」
初対面の人間に対して思うようなことではないのかもしれないが、失礼なことかもしれないが、イーリスはそう思ってしまったのだ。
この人のことばは、信じてはならない。と。
「ああ、なるほど? まだ解けてなかったんだぁ、根深いねぇ」
「どういう意味です?」
「別に? こっちの話だよ。まったく、ヘリオスも面倒な……」
パトリオティスの言っていることがまるで掴めずに、イーリスはことりと首を傾げた。
時折、こういうことがある。フィオスもパトリオティスもこちらの分からない話を勝手に口にしていることがあり、イーリスも慣れたと言えば慣れてしまった。ただそれでも、疑問は疑問だ。
どうしてここで、ヘリオスなどということばが出てくるのだろうか。パトリオティスとフィオスが昔から、絶対に近寄ってはいけないとイーリスに言い聞かせ続けた一族の名前が。
「父様?」
「なんでもなーい、よぉ。とにかく、アマルティエス殿が遊びに来たら、相手してあげてよ。僕も彼には話があるんだけどねぇ」
「……私、父様が持ってきたお話に否を言うつもりは、ありませんが」
「あ、違う違う、そういうんじゃないからね」
暗に結婚の話を匂わされているのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
「それなら、良いのですが」
あの赤銅色を見ていると、落ち着かなくなる。あの時も逃げ出したかったのに、どうしてだか足は動かなかった。無視してどこかへ行くことだってできたのに、イーリスの意思に反して足はそれを許さなかった。
まるで心と体が
「部屋へ戻って休むと良いよ、可愛いイーリス。顔が真っ青だ」
「そう、ですか」
パトリオティスにはそう言われたが、どうなのだろう。自分ではよく分からない。
ただざぁっと、血の気が引いたような気はする。指先はひどく冷たくて、あたためようと指先を握ってみたところで血が通わない。
「そうします……」
頭を下げてから、パトリオティスの部屋を出た。きっと眠ってしまえばこの奇妙な感覚も消えてくれるだろうと、そう信じて。
※ ※ ※
数日後の朝に告げられた客人は、アマルティエスではなかった。だからといってまったく喜べない客人であったのは、その客人がクリスタロスであったからに他ならない。
それでも相手は、エクスーシアの当主だ。暇なのかということばは呑み込んで、一先ずは顔を見せることにする。パトリオティスもフィオスも不在にしている以上、アンドレイアかイーリスが顔を出さねばならないのもまた事実、そしてアンドレイアはまだ幼いイーリスの弟の世話もある。
自分がエラフリスを見ていますからと、そんな風に言って逃げることはできなかた。何せ相手は、イーリスに会いに来ている。アンドレイアがエラフリスを見ていれば良いと、そう言われてしまえばどの道同じだ。
「お待たせいたしました」
「待っていたよ、イーリス。今日も美しいね、母上の次にだが」
表情を消して、頭を下げた。この男相手に何を思おうと、何を言おうと、無駄であると知っている。そんな学びは生涯不要であれば良かったのだが、残念ながら学んでしまった。
「何故正面に座る? 恥ずかしいのか?」
「いえ」
隣に座れと示すクリスタロスに、一応は従った。
この男は、今日はどれくらい居座るつもりなのだろうか。エクスーシアの当主の仕事というのは暇なのだろうかと問いかけたところで、「母上が手伝ってくれている」という答えが返ってくるだけなのも知っていた。だからそんなものは、やはり無意味だ。
十分に距離をあけて座ったはずなのに、所詮二人掛けのソファでは無駄な抵抗だった。するりと伸びてきた腕が、イーリスの腰を抱く。ぞわりとした寒気は、呑み込むしかない。
パトリオティスは分からないが、フィオスは少し出ているだけだと使用人が言っていた。ならばそのうち、叔父も戻ってきてここに姿を見せるだろう。つまり、それまでの辛抱だ。
極力視線は合わせずに、返事も最小限に。クリスタロスの耳が腐りそうな
「聞いているのか、イーリス」
「ああ、はい。聞こえておりますが……」
顔を上げたところで、まずいとは思った。目の前にクリスタロスの顔があって、視線が合う。即座に顔を背けたところで、腰にまわっている手とは反対の手に顎を取られた。
口付けられる――と判断した瞬間に、手が出てしまったのは仕方がないことだろう。フィオスにもそうしろと言われていて、その言いつけの通りに外からは見えない腹へと拳がめり込んでいた。
「がっ……」
「あ」
クリスタロスの腕は緩んで、イーリスはソファから立ち上がる。
「この……! 女性は女性らしくと、いつも言っているだろう! やはり母上に
「さて、私はシュガテールの一族なので? マカリオスの一族である貴殿の母に何を習えと?」
クリスタロスの顔が歪んで、けれど彼はすぐに表情を戻す。これでイーリスに幻滅してくれればいいものの、この顔はやはり気に入っているらしい。毎度毎度こうであるというのに、母に躾けられればイーリスが彼の求める女性らしいになると本気で信じているのだろうか。
結局その後にフィオスが現れてクリスタロスは追い返され、イーリスは深々と溜息を吐いてしまった。どうしてこう、ろくなことにならないのだろうか、と。クリスタロスの母であるロズ・ディアマンティも何を考えているのだろうか。彼女は間違いなく真実を知っているはずなのに、クリスタロスのイーリスへの求婚を止めもしない。
本当に、これで良いと思っているのだろうか。直接会ったこともない相手に何を問うこともできないが、本気で思っているのならば、正気を疑う。
どうせアマルティエスも同じなのだろう。クリスタロスと同じで、イーリスの見てくれに幻想を抱いて、そして勝手なことを押し付ける。寒気であるとか嫌な予感であるとか、そういうものを抜きにしても、やはり気はすすまなかった。
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