5-6.夜の日課

 貴族の屋敷において、序列が上の人間の方が上階の部屋を構えているというのは常識だ。デュナミスの屋敷で言うのならば、最上階にはシンネフィアの部屋がある。そしてシンネフィアは足のこともあり、最上階から降りてくることは滅多になかった。

 そして上の方の階層に部屋があるのは、あとはダウロスとケリーである。彼らはシンネフィアのすぐ下の弟たちであることと、実際に領地の運営にたずさわっているからだ。

 フィリラの部屋がある階は、彼らよりさらに下。それは、そもそも従妹いとこであるし、せいぜい山羊ヤギの世話くらいしかやれることもないフィリラなど、いくらでも替えがきくということの証明でもあった。

 別にそれを、どうこう思うわけではない。自分の立場くらい、フィリラとてよく分かっている。

 夕食を終えて着替えも済ませ、それから階段をのぼっていく。それがフィリラの毎日の日課になっていた。いつも通りに目的の部屋の前まで来て扉を叩き、けれども今日は返答がない。

「ダウロスお兄様……?」

 声をかけてみても、やはり返答はなかった。となるとダウロスは部屋にいないということになるが、今日は何か用事でもあったのだろうか。別にそれならばそれでフィリラは部屋に戻っても良いのだが、かといって何も伝える術がない状況で戻ってしまうと、来るかもしれないとダウロスを待たせることになるかもしれない。

 もうしばらく待っていようかと思いはしたものの、戻りは分からない。今日はエマティノスが泊まっているということも聞いているし、もしかするとダウロスはそちらの対応をしているのかもしれなかった。

 となれば、戻ってこないかもしれない。

「俺のニュンファちゃん、こんなところでどうしたの?」

「ひっ」

 考え込んでいたところで、耳元で声がした。するりと伸びてきた手がフィリラを捕らえ、ぐいと引き寄せる。

「俺の部屋なら、下だよ?」

「リオーノお兄様! ち、違います……!」

 後ろから伸びてきた腕に捕らえられて、リオーノの顔は見えない。ただその手に、首筋にかかった吐息といきに、ぞわりと寒気が走る。

 この階には端と端にダウロスとケリーの部屋がある。どちらかを別の階にとすれば間違いなく問題が起きる二人であるので、これもシンネフィアが頭を悩ませた結果の配置ということだろう。階段も二か所にあるつくりなことから、同じ階であっても二人が顔を合わせるというのは滅多にない。

 フィリラとて毎晩のようにこの階に出入りはしているが、ケリーに会ったのは数えるほどだ。

 だからリオーノが、ケリーの部屋に用事があったというのも考えにくい。ここでフィリラに声をかけようと思ったのならば、それを狙ってここに来るしかないだろう。

「は、離してくださ……ひっ、や、な、なにして……」

 ぬるりとしたなまあたたかいものが首筋をい、その感触に身を竦ませた。かぷりと首のところをまれた感覚に、フィリラの口から恐怖の声が漏れる。

 リオーノのこれが嫌がらせなのか、何のためなのかは分からない。普段は彼が近寄ってくるよりも前にセラスやダウロスが引き離してくれるが、今は誰にも助けを求められなかった。ただフィリラが自分で対処しようにも、押そうが何をしようが、リオーノの腕が離れない。

「ニュンファちゃん、俺にちゃーんと残してくれてるんだよね? ダウロスに喰わせないでさ」

「な、なんの、はなし、ですか。離して、ください!」

「どうして?」

「いたっ」

 今度はがぶりと強く噛まれて、痛みが走る。じわりと浮かんだ涙に、視界がにじんだ。

「何してやがる、この馬鹿!」

 怒声と共に、ふっとフィリラの背後から温度が消える。けたたましい音がした方向を見れば、リオーノがしたたか背中を壁にぶつけたところだった。

「フィリラ、大丈夫か」

「あ、ダウロス、お兄様……」

 薄暗い廊下では、ダウロスがどんな表情をしているのかは分からない。分からないが、苛立たし気な舌打ちが聞こえてきて、何かしら機嫌を損ねたのだということは分かる。

「さっさと自分の巣に戻れ、クソ野郎」

「あーあ、もうちょっと遅いかと思ってたのに」

 リオーノは悪びれた様子もなく、「いってぇ」などと言いながら立ち上がっている。蹴られたのか殴られたのかは分からないが、ともかく吹き飛ぶくらいの力ではあったはずだが、それでもリオーノはけろりとしていた。

 暗がりであるのに、不思議とその顔がよく見える。

「またね、俺のニュンファちゃん」

 うっすらと笑みを浮かべたリオーノの顔に、また寒気がした。本能が警鐘を鳴らしているのか、自分の中から危険を伝えてくるような声がする。

 再びダウロスは「さっさと戻れ」という怒声をリオーノに浴びせて、それからフィリラに部屋へと入るように扉を開けて背を押した。

 ぱたりと閉じた扉の向こう、もうリオーノの顔が見えるはずもないのに、どうしてだかあの笑顔がちらついていた。

「悪いな、待たせて」

「い、いえ……私こそ、ごめんなさい、お兄様」

 促されて部屋に入ったものの、フィリラを通り越して先に部屋の奥へと入っていったダウロスについていく足は止まり、フィリラは入口近くで立ち尽くしてしまう。

 ダウロスには何も、落ち度はないのだ。ただフィリラが勝手にダウロスの部屋の前にいただけで、リオーノがどうしてそこに現れたかはともかく、ダウロスが謝るようなことでもない。

「どうして?」

「その、きちんと、お約束をしているわけではないのに、いつも通り、で」

「いいよ、言わなかったのは俺だ。姉さんにちょっと用があって」

「シンネフィアお姉様に、ですか?」

 夜になってもまだ何かあったのだろうかと、ダウロスを見る。ダウロスは振り返って、少し困ったような顔をしていた。

 シンネフィアとダウロスが夜に話さなければならないこととなると、何かデュナミスにとって緊急のことでもあっただろうか。ただ、フィリラが考えてみても、領地にとって何か重大なことが起きたというのは思い当たらない。

「ああ、まあ……ちょっと」

「ちょっと」

 鸚鵡おうむ返しのように口にすれば、ダウロスに苦笑されてしまった。つまり大したことではないと、そういうことなのだろう。フィリラはそう結論付けて、ただ首を傾げるに留めた。

「おいで、フィリラ。少し冷えるから」

「はい、お兄様」

 一日の終わりに、ダウロスの部屋で寝台の上で寝転がって話をする。それは幼い頃からずっと続いていることであり、以前はここにシンネフィアやセラスがいたこともある。ケリーとリオーノは昔から、その輪の中に入ってこようとはしなかった。

 いつしかシンネフィアやセラスはいなくなり、結果としてダウロスとフィリラの二人だけが残ったが、フィリラもそろそろこれはやめなければならないことだと理解はしていた。

 デュナミスの一族は今、成人しているものが多数いる。けれど誰一人として結婚はしておらず、次代もない。フィリラには直接的な関わりはないものの、そろそろ結婚を、次代をと、そういう話が持ち上がっているのは知っていた。

 だから本当は、これだってすぐにやめなければならないのだ。そうでなければ、フィリラはダウロスにとって悪評になりかねない。いざ結婚しますとなったときにケリーがこの話を相手に暴露すれば、相手がそれを嫌がる可能性もある。

 けれどフィリラはいまだ、それを口にできないままだ。

 寝台に上がってぼんやり考え込んでいると、ダウロスが「どうした」と顔を覗き込んでくる。何でもないと首を横に振って、いつものようにダウロスの隣で寝転がった。

 まだ未成年だからと、言い訳じみたことを心の中で繰り返す。成人したら終わりにしようと、たった数ヶ月の猶予を握りしめる。それがひどく醜く思えて、息が詰まって泣きそうだった。

「エマティノス様は、大丈夫でしたか?」

「あー……まあ、大丈夫だったと言えばそう、かな」

 仰向けに寝転がると見える景色は、昔から変わらない。幼い頃はもっと遠くにあるような気がした景色は、今では近くなっているけれど。

「仲良し、ですから。お許しいただけたのですね」

「あのなフィリラ、いつも言っているんだが、仲良しに深い意味はないからな?」

「え? あ、は、はい」

 特に何か意味を込めたつもりはなかったのだが、ダウロスはそこに何か別の意味を見出したらしい。ケリーが言うにはダウロスはエマティノスにということだが、それは別に悪いことではないのではないだろうか。

 他の領地の当主と親しすぎることは問題なのかもしれないが、それがデュナミスにとって悪いことでないのならば、誰かが何かを言うことではない。エクスロスはデュナミスにとっては得意先なのだから、そこの当主と親しい分には何も構わない。これが敵対しているとか、そういうことがあれば問題なのかもしれないが。

「フィリラは? あの後も山羊の世話か」

「そうです。ええと」

 話をしようとしたところで、くしゅんとフィリラの口からくしゃみが出た。

 デュナミスの領地は岩山ということもあり、日中はそれなりに気温が上がるが、夜になると冷えてくる。その気温差はクレプトの領地ほどではないというが、夜着やぎで布団もかけずにいれば肌寒い。

「あの、お兄様……もう少し、寄っても良いですか。さすがにまだ、夜は冷えますね」

「……ああうん、まあ、いいよ。おいで」

 ダウロスは少しばかり言葉を濁したものの、最終的には許可を口にした。フィリラがその濁した言葉に少しの躊躇ためらいを見せれば、「いいからおいで」とダウロスが手を広げる。

 甘えるかのように身を寄せるのはこどもっぽいだろうか。でもまだ未成年だからと、そんなところで年齢を言い訳にした。

「あの、笑わないで聞いてくださいますか、お兄様」

「何?」

「あの……ラーグヌムコルムが、喋った、気がします」

「はあ?」

「あ、その、ええと……分からない、んです、けど。気のせいかも、しれないですし」

 自分でもおかしなことを言っている自覚はある。鉱山山羊はべえめえと鳴くが、決して人語を喋るということはない。それでも確かに、今日聞いたものは人間の言葉だった。

「でも、声が、聞こえた、気がして」

「何て?」

「ええと……」

 それを何と言えばいいのだろう。ラーグヌムコルムのものと思しきことばは、明瞭なものではなかった。確かに何かを言っている、けれどそれが何なのかは分からない。

「それが、いまいち、よく……聞こえなくて」

「そっか」

 ダウロスは笑うでもなく、考え込むような素振りを見せている。フィリラとて、これがおかしなことだと分かってはいるのだ。

 この土地には神々がいて、けれど徐々に人と神との距離は遠ざかっていく。かつては神の名を冠する一族にいれば神の声を聞くものもいたというが、ここ最近ではそんな話もない。

「また聞こえたら、教えて。俺も聞いてみたい」

「はい、お兄様」

 それからはいつもの、取り留めのない話だった。今日あったこと、明日の予定。そんなことを話しているうちに眠くなって、あくびがひとつ出た。

 今日はここまでだ。もっと幼い頃はそのまま眠ってしまうことはあったが、今はもうそれができないことも分かっている。

「じゃあ私、部屋に戻ります」

「そうか」

 引き留められるようなこともない。

 だから、これで良いのだ。あと数ヶ月だけだからと言い訳をしながら、甘えるのは。あと数ヶ月して成人したら、お兄様と甘えることもするのは止めようと心に決めていた。あと少し、あと少しだからと、そんな風に言い訳をし続けて。

 成人したら、距離を置く。遠くなる。きちんと様付けをして呼んで、本家筋ではない従妹として線を引く。きっとそれが、必要なのだ。

「おやすみ、フィリラ。明日は起こしに行けないから」

「おやすみなさい、お兄様。毎朝来ていただかなくても、大丈夫です」

「……いや念のため、セラス以外を朝は部屋に入れるなよ」

「あ、は、はい……そうします。お姉様に、お願いは、しておきますから」

 眉尻を下げたダウロスが、寝台から降りたフィリラへと、身を起こして手を伸ばす。何度か頭を撫でた手がするりと頬におりて頬を撫でて、そしてぴたりと手が止まった。

 それから小さく、舌打ちが聞こえる。

「お兄様?」

「ああいや、ごめん。何でもない」

 離れた手の名残を惜しむことはない。もう一度「おやすみなさい」と告げて頭を下げて、それからまたダウロスの顔を見て少し笑う。ダウロスも笑って、おやすみとひらりと手を振ってくれた。

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