6-2.目に見えないものを、見える形に
目の前には、書類が山と積まれている。
エクスロスの一族を率いる当主の仕事というのは何も兵士の訓練とかそういうものだけではなく、あちこちからの
だがそれを目の前にしながらも、エマティノスの思考はまったく別の方向を向いている。
ダウロスから伝えられたシンネフィアからの返答は、「清算してほしい」というものだった。シンネフィアがなにも本気で清算したら付き合ってもいいと思っているわけではないことくらい、エマティノスにも分かっていることだ。そんなものを額面通り素直に受け取るほど、エマティノスは無知でもない。
あれは、体のいい断り文句のつもりだろう。同じ当主という間柄ではあるが、一方的に誘いを
実際に婚姻を結ぶとなっても確かに面倒な女はお断りだが、面倒な女の振りをすることを思いつくような賢い女はむしろ好印象だった。ある意味では
エマティノスもそろそろいい年どころか結婚するには遅すぎると言われる年齢に差し掛かり、次代を周囲からせっつかれるようになった。異母弟のアマルティエスも未だ結婚していないどころか特定の相手もいない以上、当主のエマティノスがせっつかれるのは当然といえば当然なのだ。
だがエマティノスには、適当に選んで適当に結婚するにしても、一つ問題がある。
『おい、聞いてるのか』
ふいに耳元で、ここにいるはずのない相手の声が聞こえてきた。
この奇妙な感覚にもう慣れているのは、物心ついてから二十年以上この状態だからである。つまり、嫌でも慣れるしかないということだ。幸いなのは、四六時中聞こえてくるわけではないことで、声の主もよく知った相手に限定されることだろうか。
家系図を紐解けばエマティノスとは案外近い血縁関係に当たるのが、これまたぞっとしない。
『仕事中だ』
返事をしないでいたら延々と呼びかけられたことも多々あり、適当なことを伝えておく。目の前に書類は積まれているのだから、仕事中と称しても差し支えはない。
一枚たりとも進めていないが、見えるはずもないのだ。一応、気分的なものとして羽ペンを手に取る。
この声は口に出しているものではなく、思考のようなものだ。頭の中で伝えたいことを考えれば、それがそのまま相手に伝わる。周囲に誰かいる状態でも不審がられないが、同時に話しかけられるとどちらかの対応がぞんざいになるのはどうしようもない。しかも時間帯も場所も考慮されないのだから、話しかけられた挙句あまりの苛立ちに手元が狂ったこともあり、
いっそのこと切り離してしまいたいが、それはエマティノスが今すぐどうこうできるものでもない。耳を切り落とせばいいのならば単純だが、そういう話でもなかった。
『俺からも仕事だ』
『最近忙しい』
『ヒュドールへ行け。聞きたいことがある』
『俺もやることがある』
『三日後に繋ぐ』
言いたいことだけを言った声は、繋がった時と同じく唐突に切れた。繋がっている間は感じる魔力の気配は完全に途絶え、これ以上呼びかけても無駄だと知る。
エマティノスの方から繋ぐことは不可能で、あれは相手から一方的に与えられるものなのだ。だというのに向こうからはこちらが聞いている音が聞こえるものだから、色々と不便で不都合しかない。
「くそったれのディアノイアめ」
聞こえていないのをいいことに唸るような声で吐き捨て、エマティノスは舌打ちをした。世間一般からの評価はともかくとして、エマティノスにとっては何とも鬱陶しく、百回殺してでも飽き足らない相手だ。
「失礼します、レハフィール・ズィラジャナーフです。入ってもよろしいですか」
扉を叩く音と共に聞こえた声に、沈んでいた思考が浮かび上がる。
まだ少年の少し高めの柔らかい声は先ほどまで聞こえていた鬱陶しい声とはまるで違う音で、ささくれ立っていた精神が少し撫でつけられる気がした。
「構わん、どうした」
「終わったものを受け取りに……終わって、ませんね?」
「そうだな」
披いた扉から入ってきたのは彼は、まだ少年と呼んでいい年齢である。彼の名乗る名前が本名なのかそうではないのかもエマティノスは知らないが、その家名からして貴族ではない。だが家名があるということはつまり、
彼はアマルティエスが拾ってきた子供だった。エクスロスの領地の端で迷子になっていたレハフィールを、猫の子でもつまむように首根っこを掴んでぶら下げて帰ってきて、何を気に入ったのか家に置いている。
結構な期間迷子になっていたのか、連れてこられた当初は
レハフィールは、何をやらせてもそつのない少年だった。当然ながら最初のうちは失敗もし、できないことも多かった。だがそれも教えてやればすぐに習得し、そして根気もあり、できないからといって投げ出すこともしない。この評価はエマティノスがしたものではなく、すべてアマルティエスからの伝聞だ。
彼は楽しそうに武芸を教えているようだったが、エマティノスがレハフィールに関わることはさしてなかった。関わりなどせいぜい、こうしてアマルティエスに言われた仕事をレハフィールが遂行するために現れる、そんなときくらいのものである。
物言いたげにレハフィールはエマティノスを見つめていた。その視線をどこ吹く風と受け流して、エマティノスは頬杖をつき、インクの気配すらない羽ペンをくるりと一回転させる。
「例えば、の話だが」
「はい?」
積み上がった書類の始末は、今すぐでなくとも構いはしない。すぐに処理しなければならない案件がないことは確認してある。
ならばアマルティエスからエマティノスのお目付け役を頼まれたらしいこのかわいそうな少年と、少々話をする時間ぐらいはあるはずだ。
「目に見えないものの証明を求められたら、どうする」
「……ええと」
つくづく人がいい少年だ。これは感心ではなく、半ば呆れだ。聞いたエマティノスが言うべきではないかもしれないが、こんな戯言など聞き流して早く書類を寄越せとせっつくのが最適解だろう。
エマティノスの机上の空論のような無為な問答を真面目に考えているレハフィールは、間違いなくエクスロス領の出身ではない。
「どうにかして、その、見えるものに置き換える……というのはどうでしょうか……」
「置き換える、か」
たっぷり悩んだ末にレハフィールが導き出した答えを、エマティノスはゆっくりと反芻した。
数多の女との関係の清算という目に見えないものを、どうやって証明しようか。それをエマティノスはずっと考えていた。レハフィールは、それを見えるものに置き換えればいいのでは、と言う。
なるほど、それは一理ある。
「なるほどな」
女たちとの関係がすでに切れていることをシンネフィアに目に見えて分かってもらうには、その関係を何と置き換えるべきだろうか。
「ならば、首だな」
こちらの疑問への答えは、すぐに導き出せた。
かつて関係を持った女がすでに死んでいるのであれば、もう関係を持つことはできないのだから清算したことが一目でわかるだろう。エマティノスは珍しく、満面の笑みを浮かべた。
「お前、賢いな」
「あの……差し出がましいですが、首をもらっても普通の女性は喜びませんよ……?」
「大丈夫だ。彼女は普通の女じゃない」
そうと決まれば行動は早い方がいい。
「えっ、ちょっ、待ってくださいエマティノス様! 書類がまだ……」
羽ペンを放り出してすっくと立ち上がったエマティノスに、レハフィールが慌てた声を上げる。片手をあげてそれを制し、机の上の書類を指差した。
「アマルティエスの机の上に置いておけ」
「いえ、あの、これは当主様の決済が必要なものでして……」
尚も言い募ってくるレハフィールは本当に真面目らしい。そんな彼の様子に
ぐるぐると腕を回せば、しばらく思い切り動いていないせいか肩が音を立てた。
先ほどヒュドールに行けと声が聞こえていたのを思い出す。ヒュドールにも過去関係を持った女はいて、ちょうどヒュドールにも用事ができたところだ。
仕方がないので行ってやるかと、エマティノスは内心で呟いた。
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