7-1.水の悪魔と砂地の悪魔

 ごうと聞こえてきた音は、風の音か、それとも竜の鳴き声か。その音と共に窓の外では砂塵さじんが舞い、くるくると小さな砂の竜巻が踊っている。

 がたがたと揺れた窓は建て付けが悪く、風が吹けばいつもこうして音を立てた。

 その音に混じって、扉が閉まる音が聞こえた。乱雑に閉められたわけではないが、それでも大きな音が鳴ってしまう。それから足音が徐々に近づいてきて、部屋の入口から兄が顔を出した。

「ルスキニア」

「あ……ティグリス兄さん。おかえりなさい」

 目の前の釜から、視線を外した。外から帰ってきたばかりのティグリスが、砂けのフードとマントを外している。「砂が落ちます」と言えば、「すまない」とだけ返ってきた。

 窓の外では、相変わらず砂が踊っている。

 視線を戻せば、大きな釜の中ではどろりとした黄色っぽい液体がかすかなにおいをさせていた。といっても不快なにおいというものではなく、練り合わせられた植物のにおいである。

「あの子、大丈夫でしょうか」

 釜をかき混ぜながら、ルスキニアは独り言のようにことばを落とす。釜の中へと落ちていったことばは、くるくるとかき混ぜられている中に溶けて、消えていった。

「……大丈夫だと、信じておく。あの子は賢いから、きっと探し出せるはずだ」

 それでもティグリスの耳には確かにそのことばが届いていたらしい。

 ルスキニアとティグリスには、もうひとり弟がいる。一番末にあたる彼をひとりで探しに行かせたのは、この土地よりも東から流れてきたきょうだいにとっては苦渋の決断だった。

「火の悪魔、どこに逃げたのでしょうか」

「さあな。解放した男を締め上げても、自由にしてやりたかったの一点張りだったからな。まったく忌々しい」

 この土地より東の砂漠には、悪魔がんでいる。というのがまことしやかに囁かれる噂であり、そしてその噂が真実であることを、ティグリスとルスキニアと、そして弟は知っていた。

 火の悪魔と水の悪魔は互いを見張るように封じられ、その監視をするのがルスキニアの生まれた一族の本来の使命だ。けれどある時、火の悪魔は逃げ出した。

 ちゃぷんと音がして、ティグリスに巻きつくように水が生まれる。

『あんなの放っておけば良いのよ。ねえ?』

「うるさいぞ、シャッラールナバート。出てくるな」

『いいじゃないの、あんたたちしかいないんだから。人前で出るのは我慢してあげてるでしょ? あたしを連れ出したんだからもっと何かしたいことがあると思えば、あの馬鹿を探すだけなんだもの。つまんないわよ』

「ラハブレワハのことがなければ、誰がお前なんかを連れ出すか。黙ってろ、クソ蛇」

 巻きつくように生まれた水は、透き通った女の姿に変じる。

 これが封じられていた水の悪魔であり、その名を彼女はシャッラールナバートと名乗った。それを全面的に信用するかはさておいて、呼ぶ名がないのも不便であるので、ティグリスとルスキニアはその名乗りの通りに彼女を呼んでいる。

『だいたいこんなとこであんたたちが足止めを食ってるのが悪いんでしょ』

「僕らだってこんなのは想定外だ」

『ここの竜なんて放っておけば良かったのよ。それをなだめちゃったんだから、お人好しよねえ。ここ、何だったかしら……そうそう、クレプトとかいう神の飼ってるやつ。人間が食べたいなら好きにさせておけば良かったのに、助けたりなんかするから』

 クレプトの領地には、竜がいる。

 その存在の名前は、砂漠にも伝わっていた。竜がひとたび吠えれば砂嵐が発生し、人はそれに呑み込まれる。砂漠で行方不明になった人はその地下で眠る竜に喰われたのだと、そんなことがまことしやかに語られるのだ。

 その竜が事実、クレプトの領地には存在している。それが少し暴れていたところに偶然行き会ってティグリスが宥めてしまったものだから、ここで足止めを食った――というのは、間違ってはいない。

『その調子であたしのことも完全に解放してくれて良いのよ?』

「誰がするか」

 シャッラールナバートは、楽しそうに笑っている。彼女がさざめくように笑うと、その体の表面はさざめくようにして揺れていた。

「兄さん、そのくらいで」

「そうだな……おい、さっさと消えろ。二度と出てくるな」

『嫌に決まってるでしょ? どうせあんたたちだってラハブレワハを見付けたらあたしの力を必要とするくせに。ちゃんと代償支払いなさいよ』

 悪魔め、と、ティグリスが悪態を吐く。

 またちゃぷんと水面に水を落とすような音が聞こえて、透明な女も、ティグリスに巻きつくようにあった水も、消えてしまう。

 シャッラールナバートは「あたしはそこまで悪辣じゃないわよ」と言いはするが、それでも悪魔と呼ばれる存在だった。東の砂漠に神はなく、いるのは悪魔のみ。ティグリスとルスキニアの一族が火と水の悪魔を監視し続けたのと同じように、砂漠にはもうひとつ、土と風の悪魔を監視し続ける一族もいる。

 悪魔は人間を唆し、その欲望を刺激し、代償を支払わせる。欲望の善悪を問わない以上、それを完全な悪と呼べるかはさておくとして、それでも彼らは善ではないし、重い代償を支払ってまで叶えるようなものもない。

「僕が留守の間、あの男は?」

「あ……ご当主様は、その、いらっしゃいました……」

「そうか」

 ティグリスは眉間に皺を刻んでいる。

 竜を宥めた結果、クレプトの人々はティグリスに竜に罪人の心臓を与える役目を。自分たちのしたくないことを、どこから来たかも分からない余所者に押し付けた心情は、はかれなくもない。

 その結果と言うべきなのか、ティグリスとルスキニアはクレプトの一族を率いる当主にも対面することになったのだ。

「僕らは逆らえる立場にないからな。さて、どうしたものか」

 その声音は刺々しく、ティグリスはシャッラールナバートに対応していた時以上に忌々し気な顔をしていた。ルスキニアも困って、少し眉を下げる。

 目下ふたりを悩ませているのは、悪魔よりも竜よりも、クレプトの当主のことだった。


  ※  ※  ※


 その日も、ひどい砂嵐の日であった。がたがたと窓は鳴り、家は揺れている。ティグリスは心臓を捧げる儀式のために家を出ていて、ルスキニアはひとり、釜の前で薬草を煮ていた。

 そろそろ完成だと、火を止める。あとは冷めるのを待ってから、それぞれ容器に詰めれば、傷薬として売りに出せるだろう。

 しばらくそのまま釜を置いておくことにして窓の外を見れば、日暮れが近い。

 薬草部屋を出て炊事場にあった水瓶から水を汲み、ひとくち飲んだところで扉を叩く音がルスキニアの耳に届いた。

 兄が帰ってくるには、まだ早い。儀式が始まれば、いつもティグリスは数日留守にする。

「はい?」

「俺だ。開けてくれ」

「え……」

 聞き覚えのありすぎる声に、少しばかり戸惑う。ティグリスには自分がいない時に家に上げるなと言い含められているし、ルスキニアはそれを破ろうとは思っていない。けれど外はひどい砂嵐で、そのまま帰れと言うのも気が引けた。

 まして相手の方が、身分としては上なのだ。渋ったところで「開けろ」と命じられれば、結局は扉を開けて迎え入れることにはなる。

「エンケパロス、様……」

 それ以上は何も言葉はなかったが、気配はある。しばしの逡巡のあとに、ルスキニアはかんぬきを外して扉を開いた。扉の前にいた背の高い人物がするりと中に入り、そして再び扉を閉ざす。

「兄さんに、駄目だと言われていますから……砂嵐が止むまでに、してくださいね」

「そうか」

 砂除けのフードとマントを外した下にあったのは、砂色の髪。このあたりは色で一族か否かを決めるのだと、そんなことをルスキニアも聞いていた。砂色は紛れもなく、クレプトの色である。

 ぱらぱらと細かな砂が、フードやマントから落ちていった。砂嵐が止んだら掃いて集めなければならないと、その光景を見ながらルスキニアはぼんやりと考える。

「ルスキニア」

「何でしょうか」

 ぐいとエンケパロスがルスキニアの腕を引く。そのまま引き寄せられて上を向かされて、唇が重なった。

 息はできる。これが初めてというわけでもなく、今更呼吸の仕方が分かりませんと言うつもりはない。ただその長さに頭がのぼせそうで、ルスキニアは抵抗するようにエンケパロスの体を押した。

「嫌か」

「嫌ではないから、困っているのです……」

 その返答に彼が表情を変えないことは分かっていた。

 クレプトの当主、エンケパロス・クレプト――ティグリスは彼について「鉄面皮め」と悪態を吐いていた。事実ほとんどその表情は変わらない。

「そうか」

 家の中に、ティグリスはいない。

 彼を迎え入れるという選択がそもそも間違いであったことをルスキニアが知るのは、翌日。この家とは別の場所で目を覚ましてからのことだった。

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