7-2.激昂

 ゆるゆると、目を覚ました。砂嵐の音はもう聞こえなくて、ひどく静かだった。視界がはっきりして、明確に像を結んで、ようやくルスキニアはそこが見慣れた家ではないことに気付く。

 ふと視界の端に見えた外の景色も、見慣れたものとは違っていた。ただ砂嵐がおさまったのは本当で、もう砂塵さじんは舞っていない。

「起きたか」

「あ……」

 耳に届いたエンケパロスの声に、体を起こす。やはり窓の外は静かで、あれだけうるさかった音はもう聞こえてこない。砂嵐でないときのクレプトの領地は、比較的静かだ。

 ゆったりと歩いてきたエンケパロスが、寝台の傍らに立つ。彼は今までどこにいたのだろうかと見れば、机の上に何枚かの書類が置かれていた。

「どう、して。それに、ここは」

 いつの間にルスキニアは移動したのだろうか。少なくとも自分の足で歩いた記憶はないし、馬には乗れない。

「俺の家だ」

「え……」

 さらりと言われた言葉に、ルスキニアの思考が止まる。

 エンケパロスはクレプトの一族を率いる当主であり、つまり彼が俺の家と称するのであれば、ここはクレプトの一族が住まう屋敷ということになる。

 それは少なくとも、ルスキニアがいるべきような場所ではない。

「承諾しただろう」

「何を……?」

「愛人の件だ」

 いつ、などと問うつもりはなかった。ルスキニアにはどうしようもない熱の中、どこか朦朧もうろうとするような中で問われ、答えを求められ、首を横に振ることは許されなかった。縦に振るまで解放されず、結果としてルスキニアは首を縦に振った、それは覚えている。

 それを横暴だと、そう言えるはずもなかった。少なくともルスキニアの中で、それを望んでしまった部分は確かにあるのだから。

 けれどこの話は、ルスキニアが承諾したからといって、それだけで終わる話ではない。

「そんな、私……困ります。兄さんだって、了承していません」

「駄目だ」

 ティグリスはずっと反対していた。

 エンケパロスがルスキニアを愛人にするという話は、なにも今初めて出てきたものではない。もっと前々から打診はあったもので、けれどそれをティグリスが突っぱねていた。

 身分が違いすぎます。妹を愛人なんてものに差し出すつもりはありません。ルスキニアもまた、そのティグリスのことばに同意していたのもまた事実なのだ。

「お前はここに住め」

「帰してください。兄さんに説明を、しないと。それに荷物も、作りかけの薬だって」

「駄目だ。ティグリスには俺から伝える」

 エンケパロスが話をしたところで、ティグリスが納得するとは思えない。かえってティグリスの怒りを買うだけで、決して了承など得られないことを、エンケパロスだって分かっているだろうに。

「お前はここにいろ。それだけで良い」

 お慕いしております。愛している。そんな言葉の応酬をしたのは、いつだっただろうか。確かに通じているはずなのに、エンケパロスがどうしたいのか分からない。少なくとも彼はルスキニアに妻の役割を求めていないのは確かで、最初から話も「愛人に」だったと覚えている。

 もちろん身分的に、というのも分かっている。ルスキニアは東の砂漠出身で、この土地の生まれでもない。

「……わかり、ました」

 顔を見たところで、エンケパロスの表情は少しも動かず、何を考えているのか分からない。伝わってくるものがあったはずなのに、今は本当に彼が何を考えているのか分からなくなってしまった。

 彼はルスキニアをどうしたいのだろう。愛人という名前の立場に置いて、ここに住まわせて、錬金炉も大釜もないここで、何もかもを取り上げたいのだろうか。

 窓の外はやはり静かで、音がない。竜はティグリスによる儀式で落ち着いたのか、うなり声のような風の音も聞こえてこなかった。


  ※  ※  ※


 儀式を終えて家に帰ったところで、ティグリスを迎えたのは無人になった家だった。妹の名を呼んでも返事はなく、ただ作りかけの薬が釜の中に放られている。家の中を隅々まで探して、そして片付けられていないルスキニアの部屋を見て、何があったのか察しがついた。

 察しがついたことが、嫌にもなる。沸騰ふっとうしそうな頭を努めてゆっくりと呼吸することで押さえ付け、それからぎりりと奥歯を噛んだ。

「エンケパロス・クレプト……!」

 他の誰かが連れ去ったということは、考えにくい。むしろそうなったら、怒り狂ったエンケパロスが犯人を惨殺するだろうことは想像に難くなかった。

 あれは鉄面皮のくせに、その下に荒れ狂うものを隠している。そういう激情と呼ぶべきようなものを持っているくせに表情だけは淡々としているから、余計に気味が悪いのだ。

 家の裏手にある馬小屋に向かい、繋いであった馬の首筋を撫でる。そして手綱だけをつけて、その背にひらりと飛び乗った。

 愛人にという話は、何度となくティグリスが却下してきた。ルスキニアもあまり乗り気だったとは言えない。どういう扱いにしたいのか、どうしたいのか、そういうものがエンケパロスから何も伝わってこなかったというのと、そんな立場に妹を収めたくなかったというのがティグリスの反対の理由だった。

 クレプトは砂地で、平坦で、目的地は見えていてもなかなか到着しない。ティグリスがルスキニアと暮らす家は街からは少し外れたところにあり、街は地平線のところに見えているものの、決して近いとは言えない。それでも馬を駆けさせれば徐々に近付き、ようやく街に辿り着いた。

 街の入口で馬は降りたものの、手綱は引いていく。そこに馬を繋いでおくなど、どうぞ盗んでくださいと言っているようなものだ。

 クレプトの屋敷に着いても馬は引いたまま。無言で敷地の中に入ろうとしたティグリスを、入口に立っている二人の見張りが、槍を交差させて行く手を塞ぐ。

「何の用だ」

「妹が来ている。どけ」

「おい!」

鬱陶うっとうしい……おい、シャッラールナバート、何とかしろ!」

 道を開ける様子のない見張りに苛立って、舌打ちと共にシャッラールナバートの名を呼んだ。ちゃぷんと音がして、クレプトではほとんど嗅ぐことのない水のにおいが漂った。

『ちょっと、悪魔使いが荒いんじゃないの、あんた』

「外に出してやってるんだ、黙って役に立て」

 とぷりと音がして、水の球が見張りの頭を覆った。殺すなよとだけ告げれば、頭の中に『分かってるわよ』という不服そうなシャッラールナバートの声が響く。

 呼吸ができなくなって、見張りの手から槍が落ちた。それを踏みつけるようにして中に入れば、背後でどさりと見張りが倒れたような音がする。もしかすると盗賊がこの隙に中へ入るかもしれないが、そうなったらそうなったときで、ティグリスは「ざまあみろ」としか思わない。

 屋敷の入口のところで馬を繋ぎ、そのままずかずかと屋敷に踏み入った。エンケパロスがどこにいるかなど知るはずもないが、それでも使用人たちがざわめけば、エンケパロスとて出てくるしかないだろう。

 ティグリスの目論見はその通りで、しばらく「エンケパロスはどこだ」と屋敷内を探し回っていたところで、ようやく目的の人物が姿を見せた。

「何の用だ」

「ルスキニアをどこへ連れて行った」

 屋敷に乱入してきたティグリスを、エンケパロスは相変わらずの感情のない顔で見ている。その下に確かに感情があるくせに、それを顔に浮かべることはない。

 この男がルスキニアを連れて行ったことは、絶対に間違いではないのだ。荒らされていなかった家の様子からしても、目的はルスキニアだけだったのだろうから。盗賊であれば、錬金炉や工房にある薬も奪っていったことだろう。

「この屋敷にいるが」

「連れて帰る」

「愛人になることを了承した。ルスキニアは屋敷から出さない」

「お前……!」

 殴りかかろうとして、それは思い留まった。

 ここで激昂してティグリスが彼に危害を加えたところで、意味はない。ふつふつと煮えたぎった腹の底のものを何とか飲み下す。

「帰らせろ」

「この! 離せ!」

 エンケパロスに命じられた使用人が、ティグリスの腕を取る。

 そうして屋敷を出されたティグリスは、怒りのまま馬に飛び乗り、ヒュドールまで馬を駆けさせたのだった。

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