7-3.迷子の竜と迷子の少年

 神ひしめく土地の北方は、東から順にクレプト、ニュクス、ヘリオスの領地が並んでいる。この三領のすべてが接している森の名を人々は黒い森ヒューレー・デ・メランと呼んだ。もっともこれは神々の土地に住まう人々からの呼び名であって、その森を抱える国の呼び名はまた違う。

 木々生い茂るその森は確かに、黒々として見える。その中に一本だけ、他の木々とは異なる色をして、そしてその大きさも天に届くかというほどの大きなものがあった。

 その大樹を人は『世界樹』と呼んだ。事実どうであるかはともかくとして、人々はその大樹が世界を支えていると信じたわけだ。そしてそれは、何も間違いではない。

 その日、世界樹の根元に小さなものが丸くなっていた。奇妙な音が聞こえるからと足を進めて、そうして辿り着いた根元には、銀色のトカゲのようなものがいた。けれど明らかにそれがトカゲと異なっているのは、鱗の大きさが大きいであるとか、角があるとか、翼があるとか、そういうトカゲにしては余計なものがくっついていることだろう。

「エデル、どうだ……うわ」

「あ、エリヤ」

 名前を呼ばれて、エデルはその銀色のものから視線を外し、振り返る。髪の長さや結っている位置は異なるものの、薄紅色の髪も、目の色も、そして顔立ちも、鏡で見るようにエデルとそっくりな少年がそこにいた。

「竜か? なんでこんなとこに?」

「……多分、ニュクスの領地から来たんだと思う。あっちはまだ、辛うじて竜が生き残ってるから」

「ああ、そういえばそんな話もあったな。各領地に一匹くらいずつはいたっけ」

 エクスロスの領地であれば、火山の火口に竜がいるという。クレプトの領地では、そのうなり声で竜が砂嵐を起こしているという。

 世界樹の根元で丸くなっているそれは、とてもそんな風におそろしげに語られるものには見えなかった。小さくて、何の力もなくて、ただ丸くなっているだけ。

「ニュクスはもういないからな。竜が神の力の破片だって話が本当なら、この大きさも納得がいく」

「そうだね」

 一歩、銀色の竜に近付いた。竜はほんの少しだけ顔を上げたものの、すぐにまた弱々しく頭を下げてしまう。

 これがもしもニュクスの破片を宿した竜であったとして、それでもまだ生きている。エデルがニュクスに対して何を思っているかなど、さしたる問題でもないのだ。

 どうせもう、ニュクスはいない。ずっと昔、百年前よりもさらに前、あれは二百五十年ほど前のこと。戦争の最中さなかに、ニュクスは殺された。ニュクスの領地の人々がそれを知っているのかいないのか、そんなことはエデルもエリヤも知らないけれど。

 手を差し伸べれば、竜はエデルの手に近付いてすり寄るようにしていた。そっと拾い上げてやれば、エリヤの呆れたような溜息ためいきが聞こえてくる。

「またそういうことを……」

「だって、見捨てられないよ」

 振れた竜の鱗は、どこかひんやりと冷たい。森の中はそれほど空気の温度が高いわけでもなく、生い茂る木々で影になっている場所も多い。まして世界樹は木漏れ日はあれども、その根元があたたかいわけではない。周囲の温度と体温がほぼ同じになるという竜には、あまり喜ばしくない環境だろう。

 見捨てたって良いのだ、分かっている。この竜は世界樹に関係するものではなく、エデルたちが庇護してやるようなものでもない。

「まだ、生きてるから」

「ニュクスのひとかけらかもしれないんだぞ? よその神だ、おれたちにとって重要なのは世界樹だけだろ」

「でも」

 エリヤのことばには言外に「おれたちは世界樹の番人だ」というものがにじんでいる。

 エデルとエリヤのすべきことは世界樹を守ることであって、それ以外に手を差し伸べることではない。最優先は世界樹であって、それ以外など本当はどうだっていいものなのだ。

 けれど。

「生きてるものを、見捨てるのは」

 この竜はまだ生きている。命がある。それをどうでもいいものとして見捨てることは、エデルにはとてもできないことだった。

「……分かったよ。好きにしたら良いさ」

 エリヤは肩を竦めて、首を横に振っていた。

「その代わり。何かあったら、きちんと殺せよ」

「僕らなら殺せる。分かってるよ、エリヤ」

「どうだか」

 それ以上エリヤは何も言わずに、エデルに背を向ける。腕の中にいる竜は少し身を震わせていて、そこに確かに生きていた。

 生きているものを、見捨てることなんてできはしない。エデルはそこまで冷酷にはなれなくて、視線を腕の中の竜に落とした。

 これは、間違った選択なのだろうか。もう随分と長いこと生きているはずなのに、未だエデルは判断に迷うことがたくさんある。あの時も、あの時も、そう考え始めてしまうときりがない。

 だから思考を断ち切って、エリヤを追いかけるように、エデルもまた身をひるがえした。


  ※  ※  ※


 銀色の竜を拾って、それから数年。すっかり元気を取り戻した竜は、エデルの肩の上が定位置になっていた。エリヤは「懐き過ぎじゃないか」とは言うものの、それ以上何かを言うことはなかった。そして、案外この竜に構っているということも、エデルは知っている。

「ねえ、カムラ」

 名前がないのは不便だろうと名付けた名前はすっかり竜に定着したようで、呼んでやれば返事のような音が聞こえてくる。

「何かあったみたいだよ。もっとも僕らには――」

 関係ないけどね、と続けようとしたエデルの耳に、ぴしりと何かがひび割れるような音が響いた。その音に歩みは徐々に速くなり、そして半ば駆けるような足取りになる。

「誰か、入り込んだみたい。敵意はないから、早めに出してやらないと」

 同意するように、耳元でぐるるとカムラが鳴いた。

 敵意があれば、もっと警戒するような音が聞こえる。世界樹の森全域に響くような音がして、排除にかからねばならなくなる。けれど今の音はそうではなく、おそらくは迷い込んでしまった誰かだろう。

 ヘリオスやニュクスはそうでもないが、クレプトの領地からは時折人が迷い込む。というのも木々が世界樹の森と同じように生い茂っているヘリオスやニュクスはともかくとして、クレプトは荒れた砂地が広がり、まともに作物が育たない。だから何か食べるものはないかと、森に迷い込んでくる人間がいるのだ。

 森を荒らさないのならば、恵みを分けてやることもある。ただ何度となく入り込まれて多くを取られすぎても困るので、次は浅いところまでにすること、取り過ぎないようにすること、それらをうながすのがエデルたちのすべきことだ。

 入るなとは言わない。一度入り込んだ人間はある程度の浅いところまで許可をしておいて、深くは入り込ませないようにする。その方が後々面倒なことにならないと言っていたのは、誰だったか。

 音がしたところに辿り着けば、まだ子供と言っても差し支えない年齢の少年が、きょろきょろと周囲を見回していた。その髪の色は砂色で、そして彼からはクレプトのにおいがしていた。

「ねえ、君」

 声をかければ、彼は安堵あんどしたような顔をした。おそらくは迷い込んでしまって、帰る道も分からず、途方に暮れていたということなのだろう。入り込んだ時点で引き返していれば良かっただろうに、どうして少し深いところにまで来てしまったのか。

 彼はおそらく、クレプトの一族だ。クレプトは砂の色、そしてにおいからして加護があることは間違いない。

「迷子?」

「た、たぶん……」

「多分か」

 その反応に、つい笑ってしまった。彼は安堵あんどの表情を見せていたくせに、不安げに瞳を揺らしている。

「クレプトの子かな、君は」

「うん……俺、クロカラ・クレプト……」

 家名が神の名ということはやはり、彼は貴族だ。平民が入り込んでくることは何度となくあるが、貴族が入り込んできたのは初めてかもしれない。

 ふと、二百五十年前のことを思い出した。かつてエデルとエリヤを友と呼んだ彼らは、貴族ではなかったけれど。

「おいで。外まで案内してあげる。次からは入っても良いけど、森の色が変わるところから先には入ってはいけないからね。覚えておいて」

 素直に頷いたクロカラに、エデルはまた笑う。どうにも不安そうな彼の手を引いて、エデルは彼を森の外まで案内してやった。

 これが、今から十年ほど前のこと。参加した人間の命を根こそぎ奪った二度目の戦争が終結した頃のことで、あちらこちらがごたついていたとエデルが知ったのは、それからもう少し後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る