7-4.森の色が変わる手前で

 世界には四頭の獣と、四匹の獣がいる。四頭の獣は世界を支え、四匹の獣は世界を揺らす。そういうものであると伝わっているのだから、そういうものなのだろう。エデルはそういうところは深く考えないようにしていた。世界というのはそういうものであると、そう思うことにしているだけだ。

 四頭の獣は万物の巨狼と流水の大蛇、天空の絢爛鳥に、大地の堅牢亀。四匹の獣は享楽の猫シュレーディンガー淫蕩の鼠ラオシュラト偏執の狐リオヴァルポ調和の鷺アルデーオ。こんなものは知っている文字の羅列のようなものでしかなく、やはり「そんなもの」という認識をするのみだった。

 世界を揺るがすというのに、鷺には調和ということばがついている。そこに疑問を抱くことなど、無駄な話だろう。

 見上げれば、今日も世界樹は天に届きそうなほどの高さで枝を伸ばしている。そこには蕾も花も、実もなく、ただ青々とした葉が生い茂るばかりだ。

 エデルの肩の上で、くるくると機嫌良さそうに銀の竜が鳴いた。銀の竜はあまり大きくなることはなく、今でも肩の上に乗れるくらいの大きさしかない。これが本当にニュクスのひとかけらを宿しているのかどうかは未だに分からないが、今のところエデルが感じ取れる範囲ではその気配はなかった。

「ご機嫌だね、カムラクァッダ」

 肩の上にいる銀の竜を指先で撫でたところで、エデルの耳に音が届く。誰にでも聞こえるものではなく、これはエデルやエリヤのような番人の耳にだけ届くものだ。

 既に聞き慣れたその音は、一度でも世界樹の森に入り込んだことのある人物が森に立ち入ったことを伝えるものである。誰が来ているのか分かっていて、エデルはそのままのんびりと森の見回りをしながら歩いていく。

「クロカラ」

 森の色が変わる手前。かつてここより先に入るなと言ったエデルの忠告を生真面目にも守っている彼は、いつもこうして同じ場所に立っている。

 砂色の髪は変わらない。人間の十年など、エデルにとってはあっという間だ。小さかった子供は成人を過ぎて、エデルよりも背が高くなった。以前は楽しそうに森に入ってきていたクロカラは、最近は少し疲れたような顔をしている気がした。

「あ、エデル。良かった、来てくれた」

「良かったって、僕、今まで一度も来なかったことはないと思うんだけど」

 名前を呼ばれて顔を上げたクロカラが、ぱっと顔を明るくする。

「そうだけど」

「森に入った人は確認しないといけないから。僕かエリヤが来るのは当たり前だよ?」

 誰が来たのか、何をどれくらい持っていったのか。そういうことは、見ておかなければならないことだ。万が一それが森を荒らしたと判断されるようなことであれば、森はその人間を裁くだろう。

 クロカラはそういうことをするわけでもなく、森に入っては空を眺めていたり、本を読んでいたりする。ある意味で彼はここを、逃げ場所にしているのかもしれない。

 首をかしげてクロカラを見れば、クロカラは何と形容するべきか分からないような顔をしていた。エデルの考えつくことばで言うのならば、「変」としか言い様がない。

「どうかしたの、変な顔して」

 だから、それをそのまま口にした。

「何でもない」

 ふいとそっぽを向いて、砂色の髪が揺れた。

 彼はクレプトの名を冠してはいるが、当主という立場ではない。だからこそ、こうしてふらりと森に現れることもできるのだろう。

「しかし君は、飽きもせずによく来るね。食糧欲しさに何度か立ち入る人はいるけど、そのうちそれじゃ足りなくなって来なくなるから」

 森が与えてやれるものは、ほんの少しだ。ひとりの腹を一度満たすことはできるだろうが、それ以上のものを与えてやれるわけではない。たった一回、ほんの少し腹を満たすだけ。人間というのはそんなもので満足できるはずがなく、それを森が与えてくれないと分かれば、人は離れていくものだ。

 より多くをと森から奪おうとするものもいるが、そうなれば最後は森の養分になるだけのこと。

「まあ、君はここに来るのは息抜きみたいなものか」

「そうだよ」

「それで? 今日は何かあったの? 仕事かお兄さんか」

「何でいつもそうやって聞くかなあ」

「君の話はだいたいそこに着地するじゃないか」

 クロカラは森へ来ては、何を持っていくわけでもなく、エデルと話をするだけして帰っていく。

 クレプトという神の名を冠する家の人間であり、そして荒れた砂地を領地としているクレプトにおいて、頭を悩ませることは尽きないのだろう。そしてクロカラは異母だか同腹だか知らないが当主である兄がおり、これがまた色々と難のある人物らしかった。

 といってもエデルは、そのエンケパロス・クレプトという人物を、クロカラの話でしか知らない。おそらくは弟である彼の主観が多分に入っているだろうから、話半分くらいで信じておくのが良いのだろう。鉄面皮だとか何事にも動じないだとか、盗賊からはひどく恐れられていて、彼のおもむく場所では盗賊被害が減るとか。なんとも不可解なものもある。

「それはそうなんだけど……今日も、兄さんの話ではあるし」

「ほら、やっぱりそうじゃないか」

 予想通りというべきか、何というべきか、ともかくエンケパロスの話ではあるらしい。

 森の中にいても、噂というものはある程度耳に入ってくる。エデルたちとて森の外に出ることはあるし、街へ出かけることはある。そこで耳にするものの真偽はともかくとして、何かと派手な噂話が多いのも事実だ。

「それで、今度は何があったの?」

 クロカラの顔を見て問えば、彼は疲れたような顔を再び見せた。

「……兄さんが、愛人を連れてきた」

「ふうん」

 妻ではなく、愛人。

 といったところで何ら物珍しいものでもない。この世界樹の森を擁する国もそうだが、貴族というのは血を繋ぐことをある意味で第一としている部分はある。子供がいなければそこで家は途絶える、あるいは別の血筋に家督が移ってしまうのだから、正式な妻以外にも女性を迎えることは理にかなっている。

「別に君たちのところなら、珍しくもなんともないよね?」

「それはそうだけどさ」

 特に神々の土地では、男も女もそういう関係性が多いと聞いた。そもそも神々からしてそうなのだから、その子孫と言われる人々が同様であっても何もおかしなところはない。

 そういうものかと、エデルはそう思うだけである。

「そしたら兄さん、愛人の部屋に入り浸って、仕事までそこでし始めたから」

「それはまた、随分な入れ込みようだね」

 クロカラの兄は当主であり、当然ながら仕事をするための部屋は別に持っているはずだ。それが愛人のところに入り浸り仕事までそこでする――一瞬嫌な考えが脳裏をよぎったのは、いつか見た光景のせいだろうか。逃げ出さないように見張っているのではとそんなことを考えてしまったのを、ゆるく首を横に振って霧散させる。

 差し伸べた手は、取られなかった。救ってやることはできなかった。本当ならば介入してはならないエデルが介入しようとしたから、きっとそんなことになったのだ。二百五十年経っているのに、それがじくじくと蝕んできて、消えてくれない。

「……それなのに、妻にはしないんだね。いや、君たちの場合は身分とか色々あるか」

「別に、平民でも妻にできないわけじゃないよ」

 とはいえ、貴族と平民では今まで受けてきた教育も、生活水準も、何もかもが違う。身分差のある結婚など、ただ見初められたからと諸手をあげて喜べるようなものでもないだろう。

 エンケパロスは何故、その愛人を妻にしないのか。愛人の方はそれで納得をしているのだろうか。ふと疑問は浮かんだものの、エデルが考えたところで意味はない。

「今まで他人に一切興味ありません、みたいな顔してたのにこれで、俺はちょっと兄さんが怖い」

「それは前からだよね?」

「うっ……否定は、しない、けど……とにかく! 不気味なんだ!」

「そうか」

 とりあえずクロカラが訴えたかったことは、そういうことらしい。ただ兄が不気味なのだと力説する彼に、ついエデルは苦笑してしまった。

「クロカラ、ちょっと屈んで。届かないから」

「何?」

 首を傾げながらも、クロカラはおとなしく少し屈む。以前はそんなことをしなくても手が届いたのに、今はエデルが手を伸ばすか、クロカラが屈むかしないと届かなくなってしまった。

 少し硬い砂色の髪に覆われた頭を、何度か撫でてやる。

「よしよし、よく頑張っているね」

「あのさ、エデル。俺もう子供じゃないんだけど」

「これで拗ねるあたり、君はまだまだ子供だよ」

 唇をとがらせて明らかに拗ねている様子に、また苦笑が漏れた。迷子になっていたクロカラに出会ってから何年過ぎたか、もう成人も過ぎただろうに、こういうところが子供じみている。

 彼は可愛らしい子供だ。今でもエデルにとって、それは変わらない。

「さあ、そろそろ帰るといい。お兄さんがそれなら、君も忙しいだろう?」

「……また来るから」

「そう? いいよ別に、気が向いたらまたおいで。でも、エリヤに怒られない程度にね」

 う、とクロカラが言葉を詰まらせた。どうにも彼はエリヤのことが少し苦手らしい。数えるほどしか顔を合わせていないというのに、難儀なものだ。

 手を振って去っていくその背中に、また苦笑を漏らす。それまでどこかに行っていたカムラクァッダが肩の上に降り立って、機嫌良さそうに声を上げていた。

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