8-1.神のいない神殿で

 シュガテールの神殿には最早神の気配はなく、そこはどこか獣のような気配が満ちている。これでいい、むしろかもしれないと、そんなことを考えて口の端を吊り上げた。

 きっとこの気配の違いに、人々は何も気付かない。そこに神がいると信じて祈りを捧げ、それが別の誰かに掠め取られることなど考えもしない。けれどそうしてゆるやかに人は神から離れ、くさびは抜かれる。どうせ魔術なんてものはなくても生きていけるのだから、廃れてしまっても構わない。そもそも加護がなければ使えないようなもの、どうだっていいのだ。

 神殿の中は静寂に満ちている。これを神の気配だと、信じたい人間だけ信じていればいい。人と神とが離れていけば、いずれここにやってくる人も減る。

「パトリオティス」

 名前を呼ばれて、パトリオティスはゆるりと振り返った。神殿の入口からは日が差し込んでいて、明るい光によって入ってきた人間の顔は影になってしまっている。

 それでもその声に、そして燦然さんぜんと輝く銀髪に、誰が入ってきたのかはすぐに知れた。

「ああ、フィオスか。どこに行っていたんだい?」

「デュナミスだよ。狐がいるからさ」

 こつこつと足音を立ててパトリオティスのすぐそばまでやってきたフィオスの身のこなしは、猫のようにしなやかだった。正体を隠す気があるのかないのか知らないが、どうせ知識がなければ気付きもしないのだ。

 だから、彼はこれで良い。

 目の前に立っているフィオスの顔は、御伽噺おとぎばなしの姫君もかくやと言わんばかりの美貌である。シュガテールらしいと言えばそうだろうが、その本質はそんなお綺麗なものではない。

 だが、パトリオティスにとってはその方が良かった。お綺麗なだけなものは、愛でるのはともかくとして、協力させるのには向かない。そもそもお綺麗なだけのものを愛でるつもりも、パトリオティスにはないけれど。

「デュナミスは、駄目だからね?」

「分かってるよ! 俺がパトリオティスの意に反することをするわけないじゃないか!」

「それならそれで良いよ。僕の意に反しないのなら、好きに遊んで食い散らかしたら良い」

 神は食い散らかせばいい。フィオスはそれができるのだから、好きに遊んでくれて構わない。

 ただ、デュナミスは駄目なのだ。あれはむしろ食い散らかすよりも、そのままにしておく方が良い。何せデュナミスに対しての種蒔きは終わっていて、あとは刈り取られる時を待つだけなのだから。

 目の前に立っていたフィオスが、少し上を向くようにしてぐいとパトリオティスに顔を近付ける。ともすれば鼻先、それどころか唇まで触れあいそうな距離でも、その美貌はちっともくすまなかった。

 これが他の人間であったのならば、頬を染めたりするだろうか。残念ながらパトリオティスは、妻以外にそんな風になったことがない。

「姉さんは? 一緒じゃないの?」

「アンドレイアなら、エラフリスのところだよ。ぐずっていたからねえ」

「ありゃ。まだ三歳だもんね」

 下の息子はまだまだ甘えん坊で、癇癪かんしゃくを起して泣くこともある。幼い子が母にべったりなのは仕方のないことではあるし、パトリオティスはそこに何か言うつもりはない。

 三歳児などそんなものであると、経験上で知ってもいる。

「シュガテールはすっかり消えたね?」

「そうだねえ」

「俺、ご褒美が欲しいんだけど?」

「へえ。しっかり神を食い散らかした猫は、僕に何をお求めかな?」

「やだなあパトリオティス、分かってるくせに。俺の口から言わせたいの?」

 にんまりと目の前でフィオスが笑っている。欲しがっているご褒美を「はいどうぞ」と言われるがままに差し出しても構わないのだが、それでこの猫は満足するのだろうか。

「姉さんが一緒でも良いよ?」

「駄目だねえ。アンドレイアを壊すつもりはないんだよ、僕は」

「えー、またまたぁ。昔は一緒だったのに?」

「彼女は人間なんだよ、分かっているよねえ、フィオス?」

 にっこりと笑顔を浮かべてやれば、フィオスもまた笑っていた。

 フィオスが長く伸ばしている銀の髪は、アンドレイアや娘のものとは違って白っぽい色をしている。アンドレイアと娘は青銀色で、姉と弟だからといって色彩まで同じになるわけではないらしい。

 手を伸ばせば届くその髪の先を軽くもてあそんでやれば、フィオスがくすぐったそうに目を細めていた。

「その気になった?」

「さあねえ、どうかな。一応ここは神殿だからねえ」

 あしらうように言いながらも、距離を離すことはない。さらさらとした手触りの良い銀髪は、見た目は少し硬そうに見えるのに、触れてみれば思った以上に柔らかい。

「そんなこと思ってもないくせに?」

「シュガテールのご当主様からそんな言葉が出てくるとは、思わなかったよ?」

 にんまりと、またフィオスが笑っている。

 一応は神殿ということになっている場所なのだから、節度は必要だろう――と、自分で考えてみても、何とも鼻で笑えることばだ。そんなことは間違いなく、パトリオティスは微塵みじんも思っていない。ただたわむれのように口にしただけのことだ。

「エクスーシアの状況は?」

「さあ、どうかなあ。相変わらずあのクソババアがマカリオスにもエクスーシアにも口出ししてるみたいだけど。我が兄君はどうしてああも女の趣味が悪かったのかな。アンドレイアを見習えと言っても無理な話だけれどねえ。この世にアンドレイア以上の女性なんていないわけだし」

「姉さんは最高だからね! マカリオスのあのババアと比べるなんて、姉さんに失礼だよパトリオティス」

「知っているさ」

 アンドレイアとロズ・ディアマンティを比べるまでもない。何がしたいのか、権力にでも憑りつかれているようなあの女は、底意地の悪さが顔に滲み出ている。

 世間一般で言えば美人の部類なのだろうが、パトリオティスにしてみれば、あの女は醜悪な獣と何も変わらない。

「さて、どうしてやろうかなあ、ロズ・ディアマンティ・マカリオス。願わくば何も歴史に残らないような、哀れな特別でも何でもない死に方をして欲しいよねえ」

「息子の方は?」

「生きてるだけで怖気おぞけがする方?」

「そうそう、それ」

 エクスーシアの現在の当主は、ロズ・ディアマンティの息子だ。空色の髪に浅葱あさぎ色の瞳、確かにそれはエクスーシアの色である。

 まったくエクスーシアも、加護を与えるのならもう少しましな相手に与えれば良かったものを。どうせ神などそんなもので、人間の考えなど彼らには関係がないのだけれど。

「イーリスにちょっかいかけてるよ? 何も知らないから嫁げとか言えるんだ、笑える」

「知ってるよ。知ってて泳がせてあるんだから、まだ何もしては駄目だよ、フィオス」

 何も知らずに娘に言い寄っているあの男を放置しているのは、何もパトリオティスがイーリスの結婚相手として認めているからではない。

 そうしておけばいずれ死ぬと、それが分かっているから泳がせてあるだけのこと。

「へえ、良いの?」

「どうせ殺されるからねえ、良いんだよ。彼は今回もきっと、約束を守ってくれるさ」

 パトリオティスの言う彼が誰なのか、それが分かっているフィオスが唇を尖らせる。

 どうにもフィオスの美意識からすると、彼はお眼鏡にかなわないらしい。といってもフィオスのその好悪だけでパトリオティスは物事を決めたりはしない。

「俺あいつきらーい」

「といっても僕は、そこは君の意見を聞き入れるつもりはないからねえ」

「知ってるよ」

 これはもっともっと昔に、パトリオティスが彼とした取引なのだ。彼は確かに約束を守った、そしてそれは今でも続いている。それを彼が、知らずとも。

 欲しいのならばあげよう。けれど、約束は守ってもらう。そうでなければ永遠に取り上げる。ただ、それだけの約束だ。

「で、今すぐご褒美はくれないの?」

「言っただろう? ここは神殿だからねえ。欲しいのなら、夜においで」

「じゃあ俺、可愛いイーリスに会いに行こうっと。パトリオティスは?」

 今後やるべきことを、パトリオティスは頭の中で考える。

 このために、パトリオティスはエクスーシアにいた。もうじきすべての準備は整って、きっと始められるだろう。ならば、会いに行かなければならない相手が一人いる。

「……今晩はいるよ。明日になったら少し出かけようかな」

「へえ、どこへ?」

「ディアノイアに。テレイオス・ディアノイアにそろそろ会わないといけないからねえ。もっとも向こうも、分かっているだろうけれど」

 神の楔を抜け。

 今にも触れあいそうな位置にいたフィオスがするりと離れて、銀色の髪もパトリオティスの手の中から逃げていく。猫の尾のように揺れた銀の髪を見送って、パトリオティスは口の端を吊り上げた。

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