5-9.デュナミスの平穏な日

 エマティノスがエクスロスへと帰って数日後。

 デュナミスは、というより、ダウロスは、一先ず平穏な日常を取り戻していた。エクスロスからの注文の品はもう職人たちに割り振りを終え、あとは期日までに作業が終わりそうかどうかを定期的に確認すればいい。

 ダウロス自身も腕がなまることのないよう、自分にもいくつか割り振っている。それをこなす計画も立てなければならないが、日程からして問題なく作り終えることはできそうだ。そこに邪魔さえ入らなければ、ではあるが。

 そう難しい注文もなく、何度も作り直さなければならないという可能性も低い。それでも何が起こるかわからないのが手作業のならいだということを、ダウロスはよく知っている。鉄の質が悪かったりなど、技量とは違うところが原因で思うように仕上がらないこともあるのだ。

 早めに作っておかないといけないなと、頭の中で予定を立てつつ坂道を下った。気の荒い愛馬がともすれば走り出そうとするのを手綱を強く引いて、緩い歩みを保つ。進むほどにかんかんと響くつちの音が遠くなり、次第にべえべえめえめえという山羊ヤギの声が大きくなってきた。

 何か急ぎの用事がない日のダウロスは、山羊の世話をしているフィリラを手伝うのが日課だった。正確には山羊の世話はフィリラに任せているものでありダウロスにとっては責任を負うだけで手伝う役目ではないが、フィリラ一人では大変だろうという親切心半分、人の目のないところで落ち着いて二人で過ごしたいという下心が半分、といったところだ。

 アンティカトとプトリスモスの二つの町の間は、デュナミスでは数少ない平地になっている。そこは山羊たちの放牧場で、人の足では降りられない岩山も、山羊たちにとっては丁度いい運動場だった。

 山羊も賢いもので、人間が暮らしている街の方にまでは登ってこない。

「ああ。振り回されてるなぁ」

 べえめえと騒がしく鳴く山羊の方を見ると、フィリラが足元にまとわりつく子山羊を避けようとして尻餅をついたところだった。フィリラが抱えていた牧草があたりに散らばり、山羊たちは我先にと群がっていく。あっという間に、フィリラが山羊にもみくちゃにされた。

 ただその光景に、ダウロスは苦笑を浮かべるだけで焦ったりはしない。山羊たちは押し合いへし合いしていても、器用にもフィリラを踏んづけたり蹴とばしたりはしないのだ。ダウロスに対しては遠慮なくひづめや角を向けてくるというのに。

「よしよし、ここで待っててくれよ」

 坂を下りきり、いつもの場所に愛馬を繋いだ。毎度のことながら繋がれるのが嫌いな愛馬は不満そうにいななき、前足で地面を引っ掻く。嘶きを聞いて誰が来たのか分かったらしい山羊たちが、そそくさとフィリラから離れるのが視界の端に見えた。

 まるで出迎えるように、一等大きな角を持つ雄山羊が進み出てきて、角を振りかざすように頭を振り大きく鳴いた。対抗するかのように愛馬が激しく嘶くので首筋を撫でて落ち着かせてやってから、ダウロスはようやく立ち上がったフィリラに近づく。

 監視するかのように、ラーグヌムコルムが後から付いてきた。

「大丈夫か?」

「ダウロスお兄様……! す、すみません、大丈夫です……」

 あっちこっちについている牧草や土を軽く払ってやると、フィリラは恐縮したように身を固くして耳を赤く染めている。昔はもっと気軽に触れ合っていたのに、年を重ねるごとにそれは難しくなっていった。ダウロスはそこに寂しさを覚えると同時に、確かに存在している男女という性の違いをフィリラがきちんと意識しているだろうことが嬉しくもある。

 いつまでも仲のいい従兄と思っていてもらっても、ダウロスが困るのも事実なのだ。

「あっ!」

「どうし……いってえ!」

 突然フィリラが小さく声を上げたかと思うと、ダウロスの背中にずどんと衝撃が走った。後ろを振り返れば、ラーグヌムコルムが鼻を鳴らしている。

 流石に本気の突進ではないとはいえ、それなりの衝撃にダウロスの息が詰まる。この雄ヤギは、ヤギのくせにフィリラを好いてでもいるのかダウロスがフィリラと親しくしているとこうして攻撃してくる。

「この野郎……精肉にするぞ」

「駄目よ、ラーグヌムコルム」

 フィリラがやんわりと叱ると、ラーグヌムコルムはさも反省しているといった顔をして少しだけ首を傾げ、甘えるようにフィリラを舐める。それがどうにも腹立たしい。

 じんじんと痛む背を軽く叩いて、ダウロスはフィリラを軽々と抱き上げた。きゃあ、とフィリラの小さな悲鳴が聞こえる。

「行こう、フィリラ。二人でやれば早く終わるだろ?」

「は、はい……あの、お、降ろしてください、お兄様……!」

 暴れると悪いと思っているのか、降ろしてくださいと言う割に、フィリラの抵抗は薄い。抱えている身体は昔と同じように軽いが、いつの間にか柔らかく、女性らしい丸みを帯びるようになった。

 はっきりと意識し始めたのがいつだったのか、ダウロス自身も思い出せない。だが今、彼女のことをただの可愛い妹分とは思えないのも事実だ。

 今でも寝る前に同じ布団の中で語り合うが、ただ無防備に寄り添ってくるフィリラを突き放すことも、かといって彼女からの信頼を損ねることもできず、今まで通りを貫いている。ただそれも、もうすぐ終わりだ。

「大きくなりましたね、山羊たち」

「そうだな。あのあたりなんかはそろそろ食べごろかもな」

 フィリラを降ろし、二人で山羊に餌を与えたり健康状態を確かめたりする。

 基本的に山羊たちは放牧状態で、やることと言えば新鮮な草を与えたり、傷んでいる草があれば取り換えたりする程度だ。後は跳ねまわる山羊たちの様子を見ながら様子のおかしい個体がいないかどうかを観察し、おかしい山羊がいれば捕まえて怪我をしていないか、体調はどうかを確認する。

 山羊は立派な食糧であり、生産物である。つまり、ある程度育てば殺して食べる。可哀想だと思う気持ちもあるが、戦争で殺し合うよりよほどだとダウロスは思う。

 食べごろと言ったダウロスにフィリラが少し身を震わせたのには、気づかない振りをした。


 ※  ※  ※


 山羊の世話は、終わらせようと思えばすぐに終わる。フィリラはいつも丁寧に時間をかけてやっているが、それは彼女が細かなところまでやってくれているからに他ならない。

 それがなければ、早々に山羊の世話は終わるのだ。山羊たちは放牧状態で、放っておいても問題はない。

「この後、予定は?」

「いえ、特に何も……」

「じゃあおいで。いいものを見つけたんだ」

 手持ち無沙汰ぶさたなフィリラを連れて、ダウロスは街へ舞い戻っていた。フィリラが好きそうな綺麗な石がある場所を見つけたので見に行こうと誘えば、フィリラは頬を赤くして頷く。

 さりげなく手を握って軽く引けば、フィリラも何も言わずに小走りについてきた。そうしてしばし、のんびりと二人で街を歩いた。

「やっほー。何してるの?」

「うわ」

 だが、のんびりした時間は長く続かない。

 男にしては少し高めの、軽薄さを帯びた声にダウロスは顔を顰めた。聞き覚えのあるすぎるその声を無視して歩き出そうにも、後ろからにゅっと伸びてきた腕がフィリラの肩に巻き付いてきた。舌打ちをしながら、体を竦めたフィリラの代わりに腕を払いのけてやって、ダウロスは振り向く。

 文句の一つや二つでも言おうとしたのだが、背後にいた人物を見てその口を閉じるしかなかった。

「な、あ、貴方は……フィオス、様……」

「やあ。初めまして……でもない、かな? 忘れてしまったよ」

 そこにいたのは、声の主ではなかった。けれどその姿は、ダウロスにも見覚えがある。

 くすんだ景色の中でも燦然さんぜんと輝きを放つ銀髪に、白い肌。まるで御伽噺おとぎばなしの中の姫君のような作り物めいた造形をしているが、彼は紛れもなく男である。

 シュガテールの一族を率いる当主、フィオス・シュガテール。一介の貴族の一人にすぎないダウロスにとっては、格上の相手だ。その隣にいたリオーノが、ダウロスの様子を見てにやにやと笑っている。

 後でリオーノを殴ろうかと考えながら、慌てて軽く頭を下げた。

「ほら、フィオス。俺のニュンファちゃん、可愛いだろ?」

「いやあ、俺の姪っ子に勝るものはいないな」

 フィリラのことをニュンファ花嫁ちゃんと呼ぶリオーノは、彼女のことを好いているのかどうなのか。どうにもその向けられる愛情だか分からない感情は粘着質で、ダウロスから見ても気味が悪い。

 これでフィリラの方も受け入れているのならばダウロスが口を挟む理由はなくなるのだが、どう見てもフィリラはそれを嫌がっている。

 リオーノの姿に、ダウロスと繋いだフィリラの手に込められた力が強くなる。ダウロスは反対の手でフィリラの肩を抱き、引き寄せた。

「気持ち悪い呼び方してんじゃねーよ。フィオス様、俺たちはこれで」

「また夜にね? ニュンファちゃん」

 リオーノが笑い、フィリラが小さく息をのむ音がした。幸いなことに、フィオスは何か変な刺激でも入ったのか、可愛い姪っ子の話を滔々とリオーノに語り続けていて、ダウロスらを気にする様子もない。

 ダウロスはフィリラを抱き寄せたまま、足早にその場を後にした。

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