第39話 大学生活

 大学の長い夏休みは、時間が余る。

 そのせいで時間を浪費する輩も多いが、ツバサとしては勿体ないと思っていた。

 というのも、この頃、休みの日の朝をツバサはひそかに気に入っていた。


 朝は早くに目が覚めてしまう。

 それは身に着いた習性のようなもので、もう男の振りをする必要はないのにジョギングをする。

 それから軽くシャワーを浴びて、朝ごはんの準備……になるわけだが、自分で自分のことをするのは新鮮で、存外楽しくできていた。

 特に、自分のためだけじゃないのなら。


「悠里、起きて」

「んー」


 朝ごはんの準備は終わった。

 それを並べてから、悠里を起こしに行く。

 完璧超人と思っていた悠里は朝が弱かったようで、可愛い顔を見れるのだった。


「今日は大学に行くんでしょ」


 一緒に寝ているベッドは、ツバサがカーテンを開けたことで朝の光に照らされていた。

 眩しいのか悠里は布団で顔の半分まで隠してる。

 小さく丸まるように寝ているのにスタイルの良さがわかるのは何なのか。

 ツバサはわずかに見えている頬を指で押した。

 むずかるように悠里が顔を振る。


「……わかってるわ、起きるわよ」


 ぼんやりと開いた瞳はいつもの理知的な色を薄めている。

 瞬きが数度繰り返されるほんの僅かな時間をツバサは楽しんでいた。

 彼女はすぐに頭を回転し始め、普段の調宮悠里になってしまう。

 ゆっくりと布団から起き上がるともう眠気の色は見えない。

 顔にかかる髪の毛を指で耳にかけてあげながらツ、バサは今日の予定を伝える。


「わたしは先に小野寺たちと合流するから」

「ええ、用を済ませてから向かうわ」


 今日は日本に帰ってきているさくらたちと遊ぶ日だった。

 小野寺がチケットをもらったとかで、劇を見に行く事になっている。

 紗雪も来るようだし、久しぶりに四人で集まることになっていた。


「ん、気をつけてね」


 悠里に手を取られてぎゅっと握られる。

 ツバサは午前中からさくらたちと行動するのだけれど、悠里は大学。

 一緒に行けないのがわかったときは、中々の拗ねっぷりだった。

 手を繋いでご飯のところまで連れて行く。

 誰がこんな甘い日常を送ることになると予想できただろう。

 あの青髪は見越していたのかもしれないが。


「今日も美味しいわ」

「ありがとう」


 悠里の隣に座って眺める。

 朝が得意で良かったと思える瞬間だ。

 自分用にいれた紅茶を飲みながら、悠里ととりとめないことを話した。


「じゃ、先に行くから」


 悠里が食べ終えて、食器も片付け終わり、出かける準備を始める。

 とはいえ、昨日のうちに大方の準備は終わっている。

 高等部まで男として過ごしていたから、さっぱりしたものが多くなる。


「終わり次第連絡するわね」

「はいはい」


 トントンとスニーカーのつま先を床につける。

 わざわざ見送りに来てくれた悠里は、もうすっかり冷静な顔だ。

 その下に自分も行きたいというのが見え隠れする。

 悠里の頬に小さく産んで大きく育てる唇を落としてから、ツバサは玄関を出た。


「お姉さん、ひとり? 少しお茶しない?」


 約束の場所には少し早めに着いた。

 脳裏で驚きつつ頬を赤くしていた悠里の顔をリフレインしていたら、そんな言葉が聞こえてくる。

 たまに不意打ちすると凄く可愛い。ニヤけそうになるのを我慢していたら、もう一度同じ声が聞こえた。


「あ、わたし?」

「無視とか酷くない?」


 顔を上げる。

 金に近い髪色に大きめのTシャツ。緩めのズボンを身に着けた男の人が立っていた。

 顔には軽薄な笑顔が浮かんでいるが、目は笑っていない。

 面倒事に捕まった。

 気分はそんなところだ。


「いやー、はは……気づかなくて」


 誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。

 身についた習慣とは恐ろしいもので、女の子に戻ってから一年は経つのに、まだ反応できない。

 悠里や紗雪といるとツバサより先にそちらに声がかかるということもある。


「誰か待ってるの?」

「あー、うん、そうなんだけど」


 話を続ける気はないのに右隣に立たれる。

 軽くつけていた背中を浮かせて、足を動かせるようにした。

 こういう面倒はさっさと断るに限る。


「わたし、恋人いるんで」

「でも今は暇なんでしょ?」


 そうだけど、そういう意味じゃない。

 恋人がいる人間をナンパする意味はあるのか。

 それともナンパに見せかけた別の勧誘か。

 ツバサは面倒さが増してきた絡みに辟易とした。

 悠里なら視線ひとつで退散させれるかもしれない。


「おにーさん、その子の恋人は怖いから止めといたほうがいいんじゃない?」

「小野寺!」


 反対側から手を引かれ、肩と肩が触れ合う。

 ふわりと良い匂いがした。日本ではあまりかがない香りにドキマギする。

 留学から一時帰国しているさくらは、さらに垢抜け、すっかり綺麗なお姉さんだ。

 それはナンパ男にも理解できたようで、さっそく目標をさくらへ切り替えた。


「へえ、お姉さんも美人だね。ね、一緒に」

「あ」


 ナンパ男の手がさくらに伸びる。

 肩か腕か。

 どっちか分からないけれど、触ろうとしている。

 その瞬間、ツバサは自然と間に入っていた。


「いてててっ」


 手を取ってひねり上げる。

 基本的な動きの一つだが、地味に痛い。

 男が声を上げてからツバサはほんの少し力を緩めた。


「あー、ごめん」


 さくらとの距離をとってから手を離す。

 いつの間にか紗雪もさくらの隣で微笑んでいた。

 にっこりと笑って、さくらに手を伸ばした男に圧をかけた。

 あ、怒ってると紗雪のめったに見ない顔に大人しく見ていることにする。

 こと合気道で紗雪が負けてるところを、ツバサは一度も見たことがなかった。


「女の子に不用意に触らない方が、いいですよ?」


 一番大人しそうな女の子からの、一番怖い圧力に、ナンパ男はスゴスゴと引き下がった。

 町中に遊びに来るのは久しぶりで、人混みを嫌う悠里の気持ちもわかってしまう。

 ふーっと大きく息を吐けば、さくらが半笑いでこちらを見ていた。


「柚木も大変ね」

「悠里がいるときは、この比じゃないから」

「へぇ、調宮に声をかけるとか怖いもの知らずね」


 さくらは感心したように腕を組む。

 シオン学園では悠里の姿以外に立場もあり、声をかけられることは少ない。

 ましてやナンパなんてなかった。ツバサとの関係を大っぴらに知られているためだ。

 さくらの言葉にツバサは苦笑いを返す。


「逆上する人も多いけどね」

「ああ……」


 悠里のあしらい方は冷たい。ツバサでさえ、あの声と顔には怯む。

 氷の女帝。今は呼ばれていないが、そのあだ名がピッタリな態度になる。

 ツバサの言葉にさくらは想像できるというように頷いた。


「綺麗な形だったけど、男の人相手の時は気をつけないと危ないよ?」


 紗雪からは、男のいなし方について。

 大分身についたとは思うが、紗雪から見るとまだまだだろう。

 何より心配してくれている友人を無下にする気はツバサにはなかった。


「うん、ごめん。今度から気をつけるよ」

「わたしも、気持ちはわかるから」


 紗雪は首を横に振った。

 まぁ、今の位置取りを見ても、ツバサが動かなかったら、紗雪が手を取っていただろう。

 綺麗に投げられる彼女だったら、遠慮なく地面に転がされていたかもしれない。

 ツバサにはまだ怖くてできない技だ。

 さくらはそんな紗雪を見て、ただ笑っていた。


「久しぶりの再会からハプニングだったけど、元気そうで安心したわ」

「あはは」


 仕切り直しの挨拶に、ツバサは頭をかいた。

 もっと穏やかな再会になるはずだったのだけれど、仕方ない。

 悠里にバレたら怒られそうだ。


「調宮と一緒に住んでるって聞いた時は、心配でしょうがなかったけど」


 悠里は調宮家のお嬢様だ。

 家事の仕方は知っていても、やることは花嫁修業に入っていない。

 ツバサも親にしてもらっている状態だったから、独り立ちしたくて家を出た。


「まぁ、毎日、面白いよ」

「相変わらず、調宮バカねぇ」


 さくらの言葉に肩を竦める。

 一緒に住んでいるとはいえ、実家も近いし、そんなに困ることもない。

 何より悠里といれることに思ったより力を貰えていた。


「調宮が来るまで時間もあるんだし、ゆっくり聞かせなさい?」

「お手柔らかに」


 にやりと笑ったさくらに肩を組まれ、そのままランチに向かうことになった。

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