第4話

 拭っても、拭っても、溢れてくる涙を拳でゴシゴシと擦っていたツバサの前に丁寧に折り畳まれたハンカチが差し出された。

 その手の持ち主は自分と同じ年のはずの悠里で。

 汚すのも何だし、恥ずかしいしで、取れずにいたら頬に押し付けられる。唇が少し尖っているのが見えた。

 相変わらず、優しいのに強引。

 ツバサは慌ててハンカチを受け取ると、悠里は鈴木先生に向き直る。


「先生、彼を保健室にお連れしてよろしいでしょうか?」


 誰一人騒ぎ出すことのない教室に悠里の言葉が淡々と響く。

 悠里が教室中の視線を集めているからだ。

 この教室にいる子どもたちは誰が一番か理解しているのだ。


(そうだ、悠里さんは最初からお姫様だった)


 同じ年の人間なのに、まるで違う。

 ツバサがシオン学園に転入してきて、初めに受けたカルチャーショック。

 それこそが調宮悠里なのだ。


「保健室へ?」

「緊張だけであれば落ち着く場所が必要でしょうし、私なら案内できます」


 徐々に涙も引いてきていたが、まぁひどい顔だろう。

 目の前で本人を置いてきぼりにして、悠里と担任教師のやり取りは進んでいく。

 それにしても、悠里は初等部のわりに落ち着きすぎじゃないか。

 中身は高等部を卒業する年なのに、これではどちらが大人なのか分からない。


「そう? お願いしても良いかしら」

「はい」


 ツバサが一言も発する前にすんなりと決まっていく。

 悠里への信頼感の高さを感じた。

 鈴木先生が少し体を屈めツバサを覗き込む。

 メガネの奥に見える瞳が細められ、ゆっくり背中を撫でられる。


「柚木くん、落ち着くまでゆっくりしてきなさい」

「は、い……すみません」


 鈴木先生に見送られ、悠里と二人で廊下に出た。

 初等部にも関わらず騒がしさは全くない。

 悠里が一歩先を歩き、ツバサはその後ろを歩く。会話はない。

 涙はほとんど止まっていたが、代わりに鼻水が苦しくなってくる。


「すみ、ません」

「別に気にしないで」


 どうにかたどり着いた保健室に保険教諭はいなかった。

 悠里がスタスタと中に入り、利用者のところに名前を書く。

 後ろをトボトボ着いていけば、これまた小学生に見えない筆跡で名前を書いていた。


「どうしたの?」

「字、綺麗」


 鼻水のせいで鼻声がひどい。

 辿々しい受け答えしか出来ないツバサに呆れただろうか。ぼやけがちな視界の中で悠里はさほど表情を動かさず周りを見回した。

 ティッシュボックスを見つけると、ツバサに差し出す。

 ツバサはそれを受け取り、鼻を思いきりかんだ。


「ありがとう。怖がらせて、悪かったわね」

「え?」

「よく同世代の子からは怖がられるから」


 表情に変化はほとんどなかった。

 だけれど、長年一緒にいたツバサには悠里がわずかに眉を下げたのがわかる。

 傷ついている。調宮悠里が。ツバサが泣いたことで。


(まだ小さいから?)


 悠里は最初から完璧だった。

 同級生の涙くらいで動じることはないと思っていたし、実際、保健室に来るまで動揺しているような仕草を見せなかった。

 悠里を見たままツバサが固まったことで、彼女はくるりとツバサに背を向ける。


「保健室まで案内したから私は戻るわね」


 その足取りにも動揺は見られない。

 だが、さすがにこれで傷ついてないと思えるほど、ツバサは能天気ではなかった。

 悠里の背中を追いかけ手を掴もうとして、袖を握った。

 手を握るのが怖かった。自分が綺麗な調宮悠里に触れることが許されてないと思ったのだ。


「ち、違います!」

「何がかしら?」


 足を止め、こちらを振り返る。

 小学生とは思えない圧力を感じた。

 だけど、悠里の瞳は戸惑いを覗かせながら、ツバサの顔と手を行き来する。

 ツバサは鼻をかんだことで大分スッキリした声を張り上げた。


「調宮さんが怖かったわけじゃ」

「じゃ、どうして泣いたの?」


 冷ややかな視線が降り注ぐ。

 下手な弁明は通用しない。そう視線が物語っていた。

 だが泣いた理由など、ツバサ自身にも分かっていないのだ。

 袖を掴む手に力がこもる。


「えっと……調宮さんが、綺麗すぎて」


 どう説明しようか。

 どう説明しても、意味不明になってしまう。

 混乱した頭のまま出てきた答えはそんなものになった。

 悠里の瞳が丸く見開かれる。出会ってから一 表情が動いていた。

 言い放ってからツバサ自身、自分に驚いたから、その気持ちはよくわかる。


(ほぼ初対面の子に、言う言葉じゃないよね……)


 内心頭を抱えて逃げ出したい気分だった。

 ここでそれをしてしまっては、悠里の言葉を肯定したことになってしまう。

 ツバサは開き直って聞き返した。


「ど、どうしました?」

「同年代の男の子に、そんなこと初めて言われたわ」


 悠里の目元と口元が緩む。

 ふんわりとした笑みは、高等部までの間でも滅多に見られなかったものだった。

 嬉しさと驚きに、また視界が潤みそうになるが、「同年代の男の子」という言葉がツバサの中でリフレインした。


「思ったより口が上手ね」


 鈴木先生のくん付け。

 悠里の言葉。

 一つならたまたまかと思えても、重なれば確信に変わってくる。

 ツバサはここで男の子に見られている。体も中身も女の子のままなのに。

 つばを飲み込む。涙は引っ込んだ。

 一縷の望みにかけて、ツバサは悠里に尋ねた。


「あの……そんなに男っぽく見えますか?」

「いいえ、むしろ女の子っぽく見えるわ」


 ツバサは座った状態から悠里を見上げた。

 座ればそれほど差があるわけでもないのに、彼女の姿勢がとても良いから、目線が違ってしまう。

 ただ保健室の椅子に座っているだけなのに、ぴんと伸びた背中に憧れて、ツバサも姿勢を良くしようとしたのだから。


「良かったぁ」


 キッパリとした悠里の答えに、少しだけほっとした。

 髪の毛が短いのも癖っ毛のせいで伸ばしていないだけだし、制服はシオン学園では男女共用で、スカートとパンツは選ぶことができる。

 動きやすいズボンを選択しただけだった。


「なら、なんで、わたしを」


 男の子として扱うの?と言いかけた言葉が喉の奥に引っ込んで行く。

 悠里が固まっていた。

 瞬きどころか、髪の毛の一筋まで動かない。

 慌てて周りを見回せば、ツバサの音以外聞こえてこず、何となく灰色に世界がくすんでいるようにも見えた。


「止まってる?」

「いきなりのネタバレは良くないよ?」


 悠里に触っていいのか。この現象が何なのか。

 ツバサは静かに悠里に手を伸ばした。肩に触れそうな時、その声は突然現れた。

 手を引き、胸に抱え込む。

 声のした方を見れば、いつの間にか人が立っていた。


「だ、誰ですか?」

「ひどいなぁ……せっかく、君の願いを叶えてあげたのに」


 現れたのは肩口で青い髪を切り揃えられた一人の少年だった。

 背恰好と口調からそう思っただけで、男っぽい女の子といえばそう見える。

 前髪の下から覗く瞳はぱっちりとした二重で、彫りが深い。ヨーロッパで見たほうが違和感が少ない顔立ちだろう。

 大きな瞳がツバサを射すくめ、背筋に嫌な汗が伝った。


「わたしの願い……?」

「調宮悠里をクイーンにすること」


 ぽんと投げかけられた言葉に、プロムパーティーで意識を失う前のことを思い出す。

 ツバサは悠里にプロムクイーンになって欲しかった。そして、それを手伝えない自分に落胆した。

 紛れもない事実。だけれど、その事実と今が結びつかない。

 困惑したまま、この状況を作り出した存在を見つめる。


「それとも」


 にっこりと唇を釣り上げる。まるで哄笑しているかのように、彼の唇が大きく引き上げられる。

 まるで口裂け女。

 存在の不気味さも相まって、ツバサは後ずさっていた。


「調宮悠里にあんな顔をさせないこと、の方が正しいかな?」


 悠里のまっすぐで、とがった、それでいて震えている横顔。

 見惚れてしまった、芸術品のような顔が一瞬で脳裏に浮かび上がる。

 あんな顔をさせないこと。

 彼の言葉をツバサは否定することができなかった。


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