第5話

 調宮悠里の震える横顔を見たくない。

 それは紛れもない柚木ツバサの願いだった。

 だけれど。

 ツバサは口の中を潤すようにつばを飲み込み、不気味な少年を見つめた。


「わたしの願いが、そうだとして」


 出た声はひどく掠れ、震えていた。

 自分を過去につれてきた存在。それが嘘だとしても、本当だとしても、きっと自分には手の届かないナニカだ。

 ツバサはゆっくりと呼吸を止めないよう注意しながら相手を観察し続ける。


「小学生にまで戻す意味ってなんですか?」


 プロムパーティーは高等部三年の3月頭に行われる。

 悠里をクイーンにするだけならば、高等部の三年、長く見積もっても高等部に戻せば良い。


(いや、里奈さんのことを考えると、三年じゃダメか)


 石川里奈は高等部二年生のときに転入してきている。

 その後、珍しい転入生ということで、悠里の許婚であり、この学園に一番詳しい朝倉海斗が面倒をみることになった。

 そこから一緒にいる時間が増え、プロムパーティーでの暴挙に繋がるわけだ。

 どちらにしろ初等部まで戻る意味があるとしか思えなかった。


「へぇ、冷静だね」


 青い髪の少年はツバサに向かってニッコリと微笑む。

 アルカイックスマイルのモデルのような笑顔だ。

 彼は手を後ろに組みながらツバサと悠里を中心に保健室を円を描きながら歩き始める。


「だけど、僕は冷静な人間って好きじゃないんだ」

「そうなんですね」

「ほんと、冷静で嫌になるなぁ」


 なんとなく彼に合わせるように体を回転させる。

 キュッとゴムが保健室の床を鳴らし、ハッとする。

 彼は一度も足音どころか、動いていて発するはずの音もしなかった。

 人ではない。

 その事実だけが積もっていく。


「僕は人の感情を力にしてるんだ」

「人の感情?」


 そう暑くない室内なのに、妙に喉が乾いた。

 唇を食むようにして湿らせる。

 もはや涙は引っ込み、息を潜めるように静かに呼吸を繰り返す。


「あの日、君たちのいた場所は様々な感情が渦巻いていたよ」


 少年はツバサの様子を気にすることなく、両手を広げ片方の指で円を描く。

 まるで指揮者のような仕草に、ツバサは眉をしかめた。


(あの日って、プロムパーティーの日だよね?)


 プロムパーティーは三年生の卒業を祝うパーティーだが、シオン学園ではほとんどが内部の大学に進む。

 このときの人間関係が大学、社会へと続いていってしまうのだ。

 プロムパーティーまでに有力な人間関係を作れたかどうか。悲喜こもごもあってもおかしくない。

 まぁ、それでも大方の人間は祝うだけの会だ。


「喜び、楽しみ、嬉しさ……そういうのも、もちろんいいんだけど」


 口ではそう言いながら、彼の表情は物足りなさそうに唇を尖らせた。

 ツバサの図星をついたときのように、大きく唇が引き上げられる。

 怖い。ぶるりとツバサは背中を小さく震わせた。


「やっぱり、強いのは悲しみとか、動揺なんだよね」


 悲しみと動揺。

 それはツバサが見た悠里の横顔そのままを表しているように思えた。

 少年はすっと音のない動きで固まったままの悠里を指差す。


「あの日、一等大きな感情を出していたのは、そこの子」

「悠里さん、ですか」


 初等部の悠里の横顔に、それらの感情は見られない。

 クラスに朝倉の姿もなかったし、許婚になったのも中学生に上がるくらいの話だったはず。

 何より今の悠里はまだ子どもで、高等部の悠里ほど表情を隠すこともしていない。


「そして、それを増幅していたのが君」

「増幅?」

「たまにいるんだよね、そういう人間が」


 まったく覚えがない。

 ツバサは首を傾げた。

 あの日、悠里の横顔に誰より釘付けになった自覚はあったのだけれど。

 悠里にしたことと言えば、朝倉と里奈のペアダンスへの乱入を防いだことくらいだ。

 それも別に、悠里に共感したわけではなく、悠里がこれ以上傷つかないようにしたかっだけ。


「だから、最初から君たちに張り付けばもっと色々感情を集められるかなって」


 腑に落ちないままでいたら、少年は両手を天井に向け肩をすくめて見せた。

 彼は人の感情が欲しい。

 プロムパーティーのとき、一番大きな感情を持っていたのは悠里で、それを増幅していたのは自分。

 なんで、それで時間を戻すことになるのか。

 さっぱり分からないとツバサは頭を抱えそうになった。


「そんな理由で、ここまで戻したんですか?」

「うん、そう。でもね、さすがに、ここまで戻すには力が足りなくてねぇ」


 軽く頷いた少年は口元に手を当てると首をわずかに傾げてみせた。

 その瞳に悪戯な色を見た気がして身構える。

 巨大な力を持っている側の悪戯はされる方に碌な結果をもたらさない。

 そんなツバサを気にしないように少年は、今ツバサが戸惑っている原因について口にした。


「男に見られるようになっちゃったけど、君の目的のためなら丁度良いよね?」

「はい?」

「だって、調宮悠里をクイーンにするなら、君が相手役になるのが手っ取り早いよね?」


 反射的に首を傾げて聞き返したツバサに、彼は当然のようにそう口にした。


(いやいやいや! それは違うでしょ)


 悠里をクイーンにするなら、朝倉の目が里奈に行かないようにする方が早いし正当だ。

 なぜ、元々許婚の二人の間にツバサが入らないといけないのか。

 男に見られるようになったとしても、そう動く必要はない。


「別にわたしが相手役になる必要はないですよね?」

「ちょっと枷が必要でね。面白いから、そうしてみた」


 面白いから。そう言い放った顔は今までで一番楽しそうだった。

 冷や汗が背中を伝う。こういう性格の人……かどうかも分からない存在に何を言っても無駄だろう。

 何より、ツバサは今の話で気付いた。


「何もしなくても時間が来れば女の子に戻れるってことですか?」


 彼の目的が感情を集めることなら、ツバサは悠里の側にいるだけで良い。

 そうやって高等部のプロムパーティーまで無難に過ごせばよいのだ。

 一縷の望みをかけたツバサの言葉に彼は大きく首を傾げた。


「うーん、どうだろ」

「どうだろって……」


 それ以外に何か必要なものがあるのか。

 枷をかけられるくらいなのだから、解消方法もわかっているだろうに。

 ツバサは唇を噛み締めながら彼の言葉を待つ。


「解けるかもしれないけど」


 少年の唇が再び大きく釣り上がる。

 ああ、この存在は良いか悪いかで言ったら、きっと悪い方に違いない。

 ツバサはそれを確信する。

 だって、彼が笑う時はツバサが困ることしか言わないのだから。


「君が何もせず、同じような未来をたどったら調宮悠里は死んじゃうよ?」

「死、ぬ?」


 調宮悠里が死ぬ。

 その言葉に、固まったままの悠里を振り返った。

 少しだけ悪戯な笑みを浮かべた姿。

 彼女があの顔を見せたあと、死んでしまう。

 黙り込んだツバサを少年は楽しそうに笑ってみているだけだった。

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